誰が為の光
イラスト:halさま ( http://5892.mitemin.net/ )
指定ジャンル・必須要素:なし
→→ ジャンル:恋愛
この作品は4,757字となっております。
戸をがらりと引くと、冷えた風が体にまとわりつく。身震いしながらも足を踏み出せば、雲間からは幾筋もの光が注いでおり、もうすぐ青空を覗かせそうに見える。
「めでたいねぇ」
空に走らせた男の目に、屋根の頂点で仲睦まじく寄り添う雀の姿が映る。ぽつりと言葉を落とした表情はどこか固い。
「あら、清景さん。朝早くに珍しい」
「む、私を寝坊助だとでも思っていたんですか?」
清景が口をへの字に曲げて応えると、隣家の夫人が箒を使う手を止めて笑う。
「そういうわけではありませんけど、朝に外に出てこられることなんてないでしょう?」
「まぁ、そうですね」
「でもそう、今日からはまたこうして朝お会いすることが増えるでしょうね」
はい、と返事をした清景を夫人は見上げる。男性では珍しい長い髪の間から覗く、端正な顔立ち。自分の子供より少し歳を重ねた青年に、以前から親心のようなものを抱いていた。
「今日からの食事はどうされるんですか?」
聞かれて、何も考えていなかった清景は困ったように目を細める。
「元々、食べなくても過ごせる人間ではあるのですが」
「だめですよ、いくら文机に陣取っておられても体を壊してしまいます。それにそんな生活、もう随分と前のことでしょう」
確かに今ではもう、一日三食を規則正しく食べる生活に慣れてしまっていた。模範的な食事かは知らないが、健康的であるよう考えられた食事だった。きちんと朝と呼べる時間に起きるようになったのも、叩き起こされ始めてからのことだ。
今日からはまた、慣れ親しんだ自堕落な生活に戻ることができるというのに、清景はいつもよりも早く自然と目を覚ました。柄になく緊張しているのかと起き抜けの頭で苦笑しつつ、こうして朝の知らない景色を眺めるために外に出た。
そうして会った隣家の夫人は、ややお節介に優しい心配をしてくれる。
「新しい家政婦は雇われないのですか?」
「家政婦がいるような身分ではありませんから」
「自分できちんと食事をされるなら必要ないでしょうけど……」
でも、と夫人は少し寂しげに目を伏せて口元で笑う。
「ふみさん以上に気の利く家政婦は、見つからないかもしれませんね」
風が吹く。香るはずもない椿の芳香が鼻の奥で弾けて、小柄な背中を瞼の裏に見た。儚い幻想に清景は年甲斐もなく狼狽えた。
あの娘はうちで花嫁修業をしていたのですよ、とかろうじて出た軽口は思いの外跳ねなかった。夫人の横顔を見やるが、気にする素振りはない。
突然こちらを見た目と視線がぶつかり、夫人が言う。
「ところで今日のご予定は?」
「え、その、今日は塾の方は頼まれてないですし、そろそろ新しい小説を書き始めようかとは思っていますが」
へえ、と夫人は感心したか小説家であることに改めて納得したかのような声を漏らしてから、興味をそそられたとばかりに問い掛ける。
「新しい小説というのは、どういう内容のものですか?」
「いえ、実はまだ何も決まってはいないのです。でもそろそろ、ご婦人方でも楽しめるものがいいでしょうか」
「まあ、清景さんが? 格式の高い男性方のためにしか書かれないのかと思っていました」
「……色々と私のことを勘違いされているらしい。あれでも私は大衆向けに書いているつもりでしたが」
「ああ、そうですよね。ふみさんもお好きだったんだから」
どうしたって今日は、ふみのことに話が戻るらしかった。きっとこの辺りの、彼女のことを知っている人たちの間では、清景と夫人のようにふみの名前が挙がっているに違いない。活気づいてきた通りのあちこちで談笑する塊の中のどこにも、当の本人は居はしないが。
『清景先生は恋物語を書いてみられたらいいと思います』
不意に聞こえる声。記憶の中で、向いに座って食事をしながらそう助言する姿がぼんやりと光る。
『海を渡って来た小説よりも、清景先生が書いた方が面白いと思うのです』
『食事中に喋るのはいかがかな、行儀が悪いよ』
『清景先生、先生ならきっと書けます。臆病になってはいけません』
『臆病とは。……せめて話を聞いてくれると有難いのだけど』
噛み合わないまま終わったあの日の会話を鵜呑みにするわけではなかったが、夫人が言うように清景の小説を読むのは男たちばかりだった。時にはふみのような奇特な女性も居はしたが。
街道の乙女たちは、今や渡来してきた小説に夢中だ。目新しいものに飛びついているだけという節もあるものの、小説家としてある程度の利益を上げようと思うと乙女の興味を惹かなければならないのは事実だった。
「良いものが書けたら、読んでもらえますか?」
「わたしでいいのですか?」
「ええ、私の小説を好きだと言ってくれる家政婦を探すのは至難の業ですから」
そういうことなら喜んで、と夫人は快諾する。書き上がるのがいつになるかは分からないが、夫人に読ませるという当面の目的があれば、重い手も何とか上がるだろう。
足元で影が浮かんだり消えたりを繰り返す。見上げる雲の流れは穏やかだ。しかし太陽は恥ずかしそうに雲を掴む。
通りのずっと向こうから騒めきが近付いてくる。待ち切れず家から飛び出していく娘たちの草履が土を蹴る。通りに立つ誰もが、騒めく方を見て微笑んでいた。
清景さん、と夫人の呼ぶ声がする。静かなその声に不思議と緊張は高まって、清景はゆっくりと夫人を振り返った。
真剣さと、どこか哀しみすら感じさせるような表情で、彼を見上げていた。今この周辺にいる人々すべてを集めても、この人ほど悲しい瞳をしている人はいないだろう。こんな晴れの日に。
「いいのですか?」
同じ問いを夫人はしたが、そこに含まれるものは全く違っていた。その瞳と対面する彼にもそのことは十分理解できた。
向かいの家の屋根で寄り添っていた雀が、それぞれ行きたい方に飛んでいく。まるでそれまでのひと時はなかったように。
「天候に恵まれて良かったですね。一生に一度の白無垢が汚れては可哀想だ」
それは本心だった。人という生き物は、本心の中から声に出すものと出さないものを選べる生き物だ。それは時に都合がよく、そして時に厄介だ。
夫人はそれ以上は何も言わなかった。ただ黙って、変わらない距離に立ったまま、それより先に踏み込むこともなかった。清景はその気遣いに安堵しながら、喉元を掴まれるような思いがする。
文字にも声にもならない言葉に、一体何の意味があるというのだろう。
騒めきは歓声に、そして祝いの声となって清景の元まで届く。彼は足先を掠めた枯れ葉を気にしながら、家に引っ込むこともできずにいる。
遠く小さかった白無垢姿が、少しずつ現実のものとなっていく。それでいて注がれる細い光を蓄えて、何かの幻を見ているように煌いている。
白く塗られた肌、赤く色付けられた唇。大勢の人々を携え、楚々として歩く様は何者か。紋付き羽織袴を着た男とは付かず離れず、たった独りのように凛々しく進む。
揺るがず、一心にただ前を見つめるその瞳にはどんな景色が映っているのか。憮然たる面持ちで立つ清景に気付かないはずもない。
一歩ずつ確かな足取りで進むその人は、もう娘ではない。若くても女であり、夫人であり、同時に翼を捧げた雀なのだ。
太陽のような熱量で見つめる清景と、その女の視線が交わることはない。そしてどこにも行けない清景の前を、花嫁行列は通りすぎていく。
戸を閉じて、吐き出した息は白い。清景はしばらく呼吸の音を聞きながら立ち尽くしていたが、廊下を横切る姿に呼び掛けた。
「ねこ」
呼び掛けられた方は我関せず。家主に断りもなく部屋に踏み入っていく。追いかけて、悪さをされる前に慌てて商売道具を掻き集めた。
「ねこ、お前さんの部屋は……あぁ、今日からここか」
ねこ、それが彼女の名前だ。
しなやかな胴は黒く、足先は履き物をしているように白い。真ん丸な目はとても悪さをしそうにはなかったが、これで悪戯好きの節がある。おてんば娘の桃色の耳が愛らしい。元は野良猫だったとは思えない毛並みが、気ままにも恵まれた生活を思わせる。
猫だから、ねこ。何とも安易な名付けだが、名付けたのは清景ではない。
『特別な名前を付けたら、寂しくなりますから』
清景は独りきりの部屋を見渡す。誰が居ても独りきりだった部屋の中、何も変わらないはずなのにこんなにも寒いのは、火鉢の火が弱いからか。
特別な名前のないねこは、今この瞬間も自由だ。今すぐ飛び出していって戻って来ないとしても、誰に咎められることもなく、清景が止める権利もない。ねこを育てていた主人はもう居らず、頼まれたとはいえ一人と一匹はただの同居人なのだ。
もしねこが出ていったら。そう清景は考えてみる。特別な名前は無くても、特別な時間も無くても、やはり寂しいと思うだろう。置いていかれるような気持ちは、相手が人でも猫でも大差はない。
ではもし、特別な名前があったら?
違う、と首を振る。特別な名前があったら、ではない。
ねこ。そんな単純な呼び名でも、呼び掛ける時、それは彼女のための特別な名前だった。
「ねこ」
呼び掛けて触れる感触を心地良いと思うこと以外に、何が必要だろうか。
『清景先生は恋物語を書いてみられたらいいと思います』
他に何もない文机の上に取り残された、一冊の本。
花緑青の表紙は、厳選されただけあって色も手触りも良く、手に馴染む。
世話焼きのふみから清景への最後の贈り物だった。
『清景先生の小説にはまだ及びませんけど、とても素敵なお話しなのですよ。この表紙のように瑞々しくて、でも深みのある恋物語です』
清景は開かずとも、その中に収められている男女のやり取りも、それぞれの慕情も、そして二人の結末まで語ることができた。
たった一度、雅号を付して書いた正真正銘の処女作が自分の元に戻って来ようとは、思い浮かびもしなかった。ましてや新しい小説の参考にしろと言われるなど。
恥ずかしく、こそばゆい。こうした類いはもうこの一度きりだろうと考えていたこともあり、捲れはするが真剣に文字を追うことは躊躇われた。
「本当に私の文章を慕っていてくれたのだな」
本にかけた指先がぞわりと粟立つ。冷えた指先が温まるような、それ以上呑み込まれたくないような微かな恐れが心に滲む。
溢れて壊れそうな何かを食い止めたのは、柔らかで確かな感触。剥き出しの手首に垂れかかる、ねこの細い毛と肉球の硬さだ。
構って欲しいのかと思いきや開かれた本の中を気にしているようで、思わず笑みが零れた。
「おいおい、お前さんも主人に似て本好きなのかい?」
猫は不思議そうな瞳で見上げるも、応えるように小さく鳴いた。その声はどこか、ふみが返事をする時の声と重なった。
「あの娘の代わりにはなれないだろうが、お前さえ良ければずっとここに居たらいい。ここにはまだ、あの娘の匂いが残っているから」
安心するだろう? とその首を撫でてやる。心地良さそうに目を瞑り撫でられるままにしているねこを眺めていると、自分の方がねこに傍に居てほしいらしいと清景は思った。
言えずにいた言葉をこの猫に向けるのは筋違いかもしれないが。
右手には本と、左手にはねこの、それぞれの感触を掌で感じながら、清景は窓の向こうに目をやる。
今は澄み渡るような青空から眩い光が煌々と注いでいる。寒空の下でも温もりを感じられるほどの光は、向かいの屋根を白く照らし、道行く少女の簪の上を跳ねる。強い光は清景の部屋にも手を伸ばし、彼の頬と猫の耳をそっと撫でた。
「……どうか、あの娘の行く道も」
撫でるだけに留めていた手を離し、清景はその腕に初めてねこを抱き上げた。大人しく収まるねことは既に旧知の仲のようだ。
閉じかけている本をもう一度きちんと持ち直し、今度こそ読み進めることにする。
押し付けるように本を贈った、娘のはにかむ姿を栞にしながら。
halさま、ありがとうございました。
このお話しを書くに当たって明治時代のことを少し調べてみると、恋愛や小説という言葉は明治時代に入ってきたそうですね。西洋の文化が入ってきたことで恋愛が一般的になり、そうして恋愛小説を読んだり書いたりできるのだと思うと、何だか不思議な心地がします。
あとは清景が大成してくれるといいですが笑