覚醒
羅那の城の中にある一室のベッドに、彼は横たわっていた。
流晶はベッドの横の椅子に腰掛け、その横顔を眺めており、後ろでは音もなく蘭が控えている。
中には誰も入れるなときつくいってあるので、流晶の私室であるこの豪華な部屋には、今は三人だけだった。
「……流晶さま」
遠慮がちに、蘭が声をかける。流晶は、動かない。
それでも、蘭は続けた。
「もう、何時間もそうしておいでです。少し、お休みください。露祇さまがお目覚めになられましたら、お呼びいたします」
相変わらず、淡々とした声だ。
流晶は、ゆっくりと首を振った。
「だめだよ。もうすぐなんだ。もうすぐ目を覚ますと思うから」
振り返りもせずに告げられた言葉だったが、それで満足したのか、蘭はそれきり口をつむぐ。
やがて、横たわっていた少年が、小さくうめいた。
黒い瞳に、同じ色の長い髪。今まで三編みにされていたそれは、紐が切れたのか、編目も解けている。
その姿が、どこか母親に似ていて、流晶は目を細めた。
「……お兄さま」
声を、かけてみる。
少年は、スローモーションのようにゆっくりと、瞳を開けた。
「…………」
何かを確かめるように何度か瞬き、身体を起こす。
彼は自分の手や、足や、身体を、じっと見つめた。
「……露祇の、身体だ」
聞き取れないほどに小さく、呟く。
「気分はどうですか、露祇お兄さま?」
「……?」
その言葉に、少年は初めて流晶たちの存在に気づいたようだった。信じられないほどの素早さで跳ね起き、警戒心を剥出しにして流晶をにらみつける。
「……流晶……そうか、おまえか、露祇を露祇に戻したのは」
「そんなに、怯えないでください。僕は、紫雷お兄さまや焔俐お兄さまと違って、露祇お兄さまの上から別の魂を植え付けようだなんて考えませんから」
少年は、無言で、流晶をにらむ。その姿はどう見てもエイスのものであったが、表情はまるで違う。
それは紛れもなく、七年ごしに自分の身体を取り戻した、露祇であった。
「……露祇が、何も知らないと思うか? エイスがこの身体を動かしていたときのことも、
全部知ってるんだ……おまえは、何をするつもりだ?」
「ちょっと、協力してほしいだけです」
流晶は微笑んだ。
「露祇お兄さまは、人形のような扱いを受けてきて、それでもまだ紫雷お兄さまや焔俐お兄さまを慕っているというわけではないでしょう? あの二人を憎んでいるんでしょう? 『自分』が確かにちゃんとここにいるのに、『自分』として見られないのは、淋しいですからね」
蘭は、流晶のその笑顔を見た。
とても、とても淋しい笑顔。
「露祇は……」
少年、露祇は、小さくうめく。自分のことを露祇と呼ぶその様子は、妙に幼い。
「露祇は、誰の指図も受けない……」
その黒髪が、突然、ぶわりと舞い上がった。
押さえられていたものが一気に爆発したように、露祇の内側から何かの力がほとばしる。
「露祇は露祇だ……おまえの指図は受けない!」
「流晶さま!」
とっさに、蘭が流晶の前に立ちふさがり、防御壁を張る。
一気に飛び出した衝撃波は、それで十分に防げるものだったが、閃光が消えて辺りが見えるようになった頃には、そこにはもう露祇の姿はなかった。
ベッドはすでにその原形を止めておらず、壁にあったさまざまな装飾品も吹き飛んでいた。部屋が無事なことが不思議なぐらいだ。
しんと静まり返った部屋で、流晶は、蘭の手を振り払うと、呆然と呟く。
「どうして……」
予想外の反応だった。
エイスという人格の下で眠っていた露祇にまで、拒否されるとは思っていなかった。
自分と同じだと思っていた露祇にまで。
「……僕は……」
流晶は呟く。
わなわなと震えるその手に、自らの涙がこぼれたことなど、彼は気づいていただろうか。
「……僕は、皇にならなくちゃ、いけないのに……」
十三歳のこの少年は、その小さな身体をゆっくりと立ち上がらせ、こみあげる嗚咽をむりやり押し殺した。
露祇は走った。
窓から飛び降り、そのまま城の塀を飛び越えて、ひたすら走った。
何も考えずに、走るだけ走って、彼は不意に立ち止まった。
そこは繁華街の中心だった。
たくさんの人々が、手を取り合って歩いていく。そこにある人の数だけ、生活が、人生があるのだと、ひどく漠然とした思いが露祇のなかにこみあげた。
自分は、これからどうしたらいいのだろう。
自分に向かって、しかし明らかに自分ではないものに向かって微笑みかけてきた兄達。七年間のエイスの記憶は、自分以外のものが感じたこととして、露祇は『知って』いた。 だが自分はエイスではない。
この七年間、兄達と一緒に暮らしてきたエイスではない。
まったく居場所のない世界に、独りぼっちで放り出された気がして、露祇はたまらない不安にかられた。
「……露祇は、露祇だ……」
どうして、と思う。
自分をエイスという人間に変えてしまった兄達を、憎らしく思う。殺したいぐらい、憎いと思う。
ではこの悲しさは、何だろう。
自分の存在意義は何なのか。
もう、必要とされていない人間なのに。
「…………」
露祇は、そっと胸に手を当て、自分のなかに棲むもうひとりを感じた。
エイスが憎かった。
露祇のものすべてを奪ったエイスが。兄達の笑顔を奪ったエイスが。
憎くて、憎くて、たまらない。
ずっと立ち止まっている露祇を、道行く人々が怪訝そうに見ていくが、露祇にはそんなことはどうでも良かった。
どうすればいいのか、何をすべきなのかまっ
たくわからなくて、まわりのことなど気にしている余裕はない。
「……ひとりは嫌だ」
強く、露祇はそう思った。
「……ひとりは、嫌だ。戻れたらいい。露祇が死ぬ前に、戻れたら……」
だがそれは叶わないことだと、わかっている。
ぽたぽたと涙がこぼれ落ち、露祇はうつむいて、両のこぶしを握り締めた。
わからない。
行くあてがない。
流晶や恵芳にすがるのは嫌だ。母に捨てられた苦しみを知らず、平和にこの国で暮らしてきたであろう二人は、露祇のなかでは敵だ。
かといって、二人の兄は自分を待ってはいない。彼らのほほ笑みは、いつだって、エイスに向けられていたのだから。
「…………」
どれほど、そうして立ち尽くしていたのだろう。
やがて露祇は、何かの目標を持ったかのように、ゆっくりと、歩き始めた。
*
セリエは、ジャスティスのなかでもかなりの権力を持っているほうだったらしく、言葉の通りにあっさりと馬車を用意してみせた。 適当な食料を買い込んだだけで、旅支度といえる支度もろくにしないまま、レオンとキール、そして恵芳は、セリエの走らせる馬車に乗り込み、森の中を通る港への道をひた走っていた。
「セリエ、おまえいつのまに馬車なんか走らせれるようになったんだ?」
がったんがったんと、ひどく荒っぽい飛ばし方に辟易しながらも、レオンがそう問い掛ける。何とも勇ましい格好をしたセリエは、大声で答えを返してきた。
「ジャスティスに入るとね、いっろんな訓練を受けさせられるのよ! これもその中の一つ! 普通の馬に乗せても、スピードでは誰にも負けないわよ!」
高らかな声だ。
レオンは、ため息をもらした。
「……何か、ちょっと、不安だな」
「ちょっとどころじゃない……」
あまりの揺れに酔ったのか、キールなどは真っ青な顔をしている。
「やっぱり、地獄のセリの異名は、そのままだ……」
「何かいったっ?」
馬を巧みに操りながら、セリエが怒鳴り返してくるが、キールには答える気力もない。「ねえ、レオンにいさま、キールにいさま」
ひとり黙って座っていた恵芳が、思い出したように口を開いた。レオンにいわれたので、
二人のことはこう呼ぶことにしたらしい。
「わたし、少し考えてたんだけど。ここの大陸に転移の術で運ばれたってことは、やっぱりお母さまがやったんだと、思うんだけどね。あの時、あの部屋には、お母さまはいなかったはずなの。どういうことかな?」
話を聞いているかどうかも怪しい真っ青なキールは放っておいて、レオンは、少しだけ思案した。
「転移の術が、あの女にしか使えないっていうのは確かだから……」
転移の術という名前をつけたのも彼らの母親自身なのだ。それは、個人の特殊能力といってよかった。
「多分、先におまえを気絶させといて、それからあの女が術を使ったとか、そんなところじゃないかな」
「……んー、そっか、そうだね。別に、考えるようなことでもなかったね」
納得したような、しかしやはりどこか釈然としない面持ちで、恵芳は頷く。
それからもう一度、今度はまったく違う話題を、持ち出した。
「流晶は、淋しいんだと思うわ」
あまりに突発的な話だったので、レオンは思わず耳を疑った。景色を眺めることに専念していたキールも、恵芳を見る。
「……淋しい?」
「だって、あの子にとっては、皇になることがすべてだもん。そのための厳しい教育を、ずっと受けさせられて、まだ子どもなのに、遊ぶことだってできなくて……わたしだったら絶対絶えられない。淋しいに決まってる」
妙に確信を持ったいい方だった。それから悲しそうに、恵芳は瞳を伏せる。
「だから、淋しくて、心がすねてるんだ、きっと」
「皇になりたいっていうのは、どうぞ勝手になってくださいなんだけど。でもその、エイスをさらって俺たちをおびき出してまでしてほしい協力ってのは、いただけないんだけどな、にいちゃんとしては」
いつもの軽い口調でいって、長男は肩をすくめる。流晶の行動は、淋しい云々で片付けられる話ではないのだ。
「……本当に、どういうつもりなんだかな」
自分たちの前に、お久しぶりですといって、にこやかに姿を現した流晶。あの笑顔がだとは考えたくないが、本心からの喜びだったかといわれれば、それはわからない。
と、そんなことを話しているうちに、だんだん馬車のスピードが遅くなったかと思うと、
やがてそれは停止した。大きく馬がいななき、セリエが御者台から顔をだす。
「今日はもう危ないから、この辺りで野宿しましょう。あと、二日とちょっと馬車を飛ばせば、港町に着くから」
「……二日以上……」
キールが、絶望的にうめく。対照的に、レオンはセリエの肩を軽くたたいた。
「本当、お疲れさま。すっごい助かる。ごめんな、こんなこと頼んで」
「あら、素直ね。かまわないわよ、こんなこと。ジャスティスの一員として、人助けは基本中の基本だわ」
ほとんど休みなしに馬を飛ばし続けて、かなり疲労していたが、それを見せないようにできるだけ笑顔でセリエはいった。
しかし、どうやらレオンにはお見通しだったようで、やさしい笑顔で頭をくしゃくしゃと撫でられてしまう。
「……本当、誰に対しても『お兄ちゃん』なんだから」
「ん? なに?」
「なんでもないわ。さ、火を起こしましょう。ほら、ぼさっとしてないで、木切れでも拾ってきたらどうっ?」
なぜ怒鳴られたのかまったくわからずに、レオンは困惑しながらもおとなしく木切れ集めに向かう。セリエは、野宿の場所に、森のなかでも木々の開けた、小さな湖の畔を選んだのだ。彼女の話によると、港町へ向かう旅人は、大体ここで夜を明かすらしい。
もう日も暮れかかり、黄昏どきとも、夜ともいえぬ、奇妙な空が広がっていた。
「レオンにいさまは、やっぱりずっと、ああなのね」
楽しそうに、恵芳はセリエの顔を見上げた。
「? 何が?」
「羅那国でね、小さいころからにいさま、すっごくもてたのに。全然気づかないんだよ、そういうの」
小さいころといっても、それこそ十二歳までの話だ。
「おもしろいの、にいさまね、男の子にばっかりにもててたんだ。何となく、想像できるでしょ?」
それはあまりに容易に想像できたので、セリエは思わず吹き出した。寝転がって、完全にダウンしてたはずのキールでさえ、肩を震わせている。
生まれたときから、美少女顔の男の子として、レオンは有名だったのだ。
「ま、男の子が熱い視線おくったって、気づかないだろうけどね、普通」
気づいたら気づいたで、それはちょっとした大問題だ。
「……なんだよ、俺の悪口?」
「あら、レオン。よくそんなにたくさん、集められたわね」
すねたような顔で現われたレオンは、両手いっぱいに木切れを抱えていた。
「じゃ、火を起こして。食事にして、さっさと寝ましょ。明日はまた、飛ばすわよ!」
「…………」
明日のことを想像し、声にならない声で、キールはうめいた。
*
それは、静かな夜だった。
一日馬車に揺られていた疲れもあって、ぐっすり眠っていたキールだったが、どういうわけか夜中に目が覚め、不機嫌そうにあくびを洩らす。
「……?」
ぼんやりとした視界のなかで、明かりが見えた気がして、体を起こす。少し離れたところに、小さな焚火とその前で座る兄の姿を見つけ、キールは思わずその光景に見入った。 レオンは、普段めったに見せることのない真剣な眼差しで炎を見つめ、何かを考えているようだった。パチパチと、焚火の爆ぜる音だけが、妙に大きく感じられる。
その姿に、キールが声をかけたものかどうかためらっていると、気づいたのか、彼はこちらを振り返った。
「なんだ、眠れないのか?」
小声で、そう声をかけてくる。キールは、もそもそと立ち上がると、薪の前に腰を降ろした。
「……寝ずの番か?」
「そ。まあ、一応な。森のなかなんて、いつ何に襲われるかわかったもんじゃないだろ?誰か一人ぐらいは、見張ってたほうがいいかと思ってさ」
手にした薪を、炎のなかに放りこむ。
「でも、実はそろそろ眠いから、寝ようかなーなんて思ってたんだけど」
「それはたいした見張りだな」
「まあね。気持ちの問題だろ、こんなのは。たとえば襲われても、警戒してれば目だって覚めるだろうしな」
それはそうかもしれないと、キールは思う。
自分たちは、羅那国で完璧な戦闘技術を教えこまれたうえに、孤児として生命線ぎりぎりのところを生きぬいてきたのだから。
「……あとは、俺が見張ってる。兄貴は寝たらどうだ?」
「おお、やさしいお言葉! にいちゃんは嬉しいぞ、キール」
大げさに褒めたたえる長男を、キールは鼻で嘲ら笑った。
「このままここで見張ってれば、いつか眠くなって焚火のなかに倒れこんで、朝になったら黒焦げだったとかいうことになりかねないからな」
「そ、それはいくらなんでも……」
昔、似たようなことがあっただけに、レオンはそれ以上何もいえない。ビーストとして暮らしていたころ、路地裏で寝ずの番をするといい張り、結局焚火の炎すれすれのところで朝まで眠りこけていたという前科があるのだ。
「……じゃ、頼むかな。俺は眠らせてもらうとするか。それとも、二人仲良く見張る?」「さっさと寝ろ」
「はいはい」
レオンは、どっこらしょといいながら立ち上がる。それから、あれっと小さく声を上げた。
「恵芳?」
小声だったが、十分に驚きを表せるものだった。つられて、キールも振り返ると、眠そうに目をこすりながら、恵芳が焚火の方に歩いてくる姿が見えた。
「なんだよ、おまえも眠れないのか? セリエは?」
「セリエさんは、まだ寝てるー」
夢の中にでもいるような声だ。
「どうかしたのか?」
「ちょ、恵芳、止まって。それ以上進むと火傷する」
ふわふわと歩き続ける恵芳の服の裾をつかんでキールがそう声をかけると、初めて気が付いたかのように彼女はあわてて焚火から下がる。寝ているのか起きているのか、傍から見てもよくわからない様子だ。
「お母さまはぁ?」
すとんと腰を降ろし、彼女は突拍子もないことをいった。
「……は?」
「んー」
きょろきょろと辺りを見て、
「いないねー」
恵芳は、もう一度あくびをする。
「……寝呆けてるんだと思うか?」
「……だろうな」
「ちょっとちょっと、ケイちゃんどうしちゃったのよ?」
とうとう、セリエまでもが起きだしてきた。
「いきなり起き上がったかと思ったら、ふらふら歩いていっちゃうんだもの」
少し怒ったように、三人と合流する。もっとも闇が深まろうかという時間に、全員が目を覚ましてしまったというわけだ。
「……なんか、変な夢でも見てたかな。寝呆けてる奴にヘタに話しかけたらいけないっていわないっけ?」
「失礼ねえ。寝呆けてないもん」
ふわりと長男の顔を見上げ、恵芳が非難の声をあげる。
「お母さまがいるんだってば、絶対。わかんない?」
レオンとキールは、顔を見合わせた。わかるもなにも、どう見たってここには四人しかいないではないか。
「ねえ、ケイちゃん」
いつのまにそんなに仲良くなったのか、セリエは恵芳のことをケイちゃんと呼んでいるようだ。
「どこにいるの、あなたたちのお母さん」
「どこ、っていわれても、困るけど……」
恵芳は、思案するように少しうつむき、それからまたつぶやく。
「何か、すごく、わたしたちに伝えたいことがあるみたい」
「……寝呆けてるわけじゃないみたいだな」
キールの冷静な一言に、レオンもまたうーんと首を傾げた。
「恵芳は、そういうことに関する感受性が超人的だからな。何か、おれたちには見えてないものが見えてたり、聞こえないことが聞こえてたり。本当にこのへんに、あの女がいるのかもな」
「どういうこと?」
「羅那の皇の家系の血は異常に濃いんだ。突然変異みたいに、特別な力が身についたりする。恵芳の場合、力を感じ取る能力が人並みはずれてるんだよ。俺やキールには、そういうのないけどな」
それはたとえば、遠いといえども皇の血を引く彼らの母親にしてもそうだ。転移の術というのも、普通では使えるものではない。
皇の正統な血を引く彼らの父親と、その遠い親戚である母親とが結ばれ、生まれた子供である恵芳にそういった力が芽生えたのだろう。
近しい者同士の結婚は汚らわしいとされているが、皇の家系においてだけは、それはまったくの例外だった。
「なあ、恵芳。あの女が、確かにいるのか? 気配は、全然ないけど」
「違うよ、お母さまがここにちゃんといるんじゃなくて……ええと、いるにはいるんだけど、なんていうのかな、お母さまの力っていうか、心っていうか、そういうのが浮遊してるような感じかな」
「……うーん」
そのまま、沈黙が訪れる。少したって、痺れを切らしたかのように、キールは兄の顔を見た。
「どうする?」
「……そうだなあ」
レオンは、しばらく考え込んでいたが、やがて用意してあった薪のうち一本を手に取ると、地面に何やら図を描き始めた。
すらすらと、円を描き、細かい文字を書き込んでいく。
魔法陣だ。
「何をするつもりだ?」
「精神世界みたいなのを、作ってみる。目に見えないものが見えやすくなる場所をね」
「……そんなこと、できるの?」
問いかけてくるセリエに、レオンは笑顔を向けてみせる。
「にいちゃんに不可能は、なーい」
「……。あたしはあなたの妹じゃないわよ」
「細かいことは気にしない気にしない」
その陣が完成するのには、たいした時間はかからなかった。
レオンは、完成した一メートル平方ぐらいの陣の上に、仕上げとばかりに自らの血を一滴垂らす。
「我は光の契約者……召喚、精神結界!」
陣が光り輝きだしたかと思うと、地面から円を描いて青白い光が真っすぐに延び、円柱型の空間が出来上がった。
「……これが、精神世界?」
不思議そうにその空間を眺めて、恵芳が呟く。透明な青白い膜がうっすらとはったように見えるだけで、あとは何の変わりもない。
「これで、にいさまたちにも伝わるの? どう?」
「どうといわれてもな。何も、変わらないが。兄貴、あの陣のなかに入ればいいのか?」「いや、そうじゃなくて。たとえば、普通は見えないものでも、あの空間に入れば、俺たちにも見えるようになる、ってこと。よっく見てみて。空間のなかに、光がいくつか見えるだろ?」
「……ああ。それが?」
「多分、あれはこの森に棲んでる精霊かなんかじゃないかな」
「…………」
少し、キールは考えた。
「……精霊が見えたからといって、何が楽しいんだ?」
「……うっ」
今度は、レオンが沈黙する番だ。
「ちょっと待って。何か、見えない?」
じっと空間の中を見つめていたセリエが呟き、三人もまた空間内を凝視した。
うっすらと、人影のようなものが、浮かび上がる。
「ほら、やっぱり」
勝ったとばかりに、恵芳が無邪気に声をあげる。
「お母さまがいたでしょ?」
レオンとキールは、かすかに身体が震えるのを感じた。
はっきりと浮かびあがったその長い髪の女性は、紛れもなく、現羅那国女皇である恭蓮の姿だったのだ。
「……この人が、あなたたちのお母さん?」
「うん。でも、どうしてお母さまの精神みたいなのが、こんなにはっきりと、こんなところにいるんだろう」
恵芳のいうことはもっともだった。いくら精神結界をはった中とはいえ、はっきりと人型をとれるほどの精神体がいるということは、少なくとも今身体の中は空っぽだということだ。
レオンとキールは、露骨に警戒し、恭蓮の姿をした精神体をにらみつける。
彼女は、何かを伝えようとしているらしかった。
「……何がいいたいんだ……?」
キールが凍てつくような声で呟く。その表情にあるのは、明らかに憎悪だった。
「何がいいたいんだ、貴様! とっとと失せろ、俺の、俺たちの前から消えろっ!」
鮮明に蘇る、自分たちを海へと突き落とした母親の柔和な笑み。
「……『とめて』……?」
ぽつりと、レオンが呟いた。
「うん、わたしもそう思う。お母さま、とめてっていってる。る……流晶? えっと、
わかんないよ、何がいいたいんだろう」
恭蓮は、確かに、必死になって何かを伝えようとしていた。
「そんなこと、聞く必要はない!」
キールが吐き捨てる。その瞬間、何の前触れもなく、パァンと何かが弾けるような音が響きわたった。
「──っ?」
視界が真っ白になる。
何も、見えなくなる。
私が、何もかも、間違っていたの
声が聞こえたかと思うと、何事もなかったかのように白い光が消え失せ、精神結界の中には、もう何もなくなっていた。
「……ふざけるな」
キールが、押し殺した声で呟く。
何もかも間違っていたなどと。
息子たちを殺そうとした母親が、いっていい言葉ではない。
それは、決して、許されてはいけないことのはずだった。