サードの素顔
鉄の扉を押し開け、暖の取れた部屋に入る。
いつもと変わらない簡素な風景に、脱ぎ捨てられた衣服とプルの空いたビンが追加されていた。
「布団をかぶらずに寝ると風邪を引くぞ」
ソファーの上でうつ伏せになっている栗色の癖毛ポニーテールに話しかける。
だらしなく乱れたワイシャツ姿。帰宅後に脱げるものだけを脱ぎ捨て、ソファーに突っ伏した姿が目に浮かぶ。
「その声は……うぅ、修ちゃん。助けてぇ、起こしてぇ、布団連れて行ってぇぇぇ」
「自分で寝床へ行け」
「うわあぁぁあん! 修ちゃんが冷たいよぉおお!」
「うるさい奴だな」
急にジタバタし始めたので、反対側にあるソファーに腰を掛け、被害を免れる。
何があったのかは知らないが、こっちは戦闘鬼とのやり取りで疲れているんだ。ゆっくりさせてほしい。
サードがビンを手にし、首を傾げた。
「何ですか、これ? まだ中身が残っているようですが」
彼女の言う通り、六割ほど中身が残っている。大きさはコンビニなどでよく見る栄養ドリンクと同じ程度。見た目通りであれば中身はそれの類だろうが、俺は首を横に振った。
「やめておけ。どうせろくでもない品物だ」
「それもそうですね。彼女のことです。興味本位で潜入先からくすねてきたのでしょう」
くるりとビンを回して側面を確認するサード。目を細める姿はまさに狙撃手だ。
そして何事もなかったかのようにそれを元の位置に戻すと、俺の隣に腰を掛けた。
空気が、変貌した。
「んううう、しゅうとおぉぉお!」
「やめろくっつくな、バカがうつる」
急に抱き着こうとしてきたサード、もとい神崎優菜のでこを片手で押さえる。
ついにスイッチが切れたのか。
それを理解した瞬間、俺の気も自然と緩まった。
「なんでですか、なんでですか! どうして抱き着いちゃダメなんですかぁ!」
「バカがうつると言ったばかりだろ」
「バカじゃないですぅ! 修斗がバカなんですっ」
「どうしてそうなる」
「戦闘姫の行動を読めたはずじゃないですか! 逆をついてくるって。なのにどうして真逆のことをしたんですか! そのせいで当初予定していた策とは全く違うものを講じることになったんですからね!」
当初予定していた策の一つ。それは特殊部隊を振り切った優菜がトラップを仕掛け、戦闘鬼を罠に嵌め、逃げ切ることだった。
「とはいえ、上手くいっただろ?」
「結果的にはそうですが! もしあの時、優菜の援護が間に合わなかったらどうしていたんですか!」
「そこまでの女だった、と嘆いていただろうな」
「他人事じゃないですからね!?」
プンスカと怒る優菜。
それも無理はないだろう。本来ならば、俺が取るべき行動は暗所を逃げ続けることだったのだから。
そう。相手の考えの裏をついて明所へ移動するのではなく、さらにその裏をついて暗所を移動し続けるべきだったのだ。
ヒントは相手の動きから十分に伝わっていた。
しかし俺は、敢えて真逆の行動を取った。
「どうして優菜を裏切るようなマネをしたんですか!」
「スリルを味わってみたかったから、だな」
「スリルぅ?」
「冗談だ、そう怖い顔をするな。俺にもちゃんとした考えはあった」
「聞かせてもらいましょうか、その考えとやらを」
「別に難しいことじゃない。戦闘姫から情報を引き出すためにはどうするべきかと考えて行動しただけだ。CTT組織は公的機関、政府側だ。いずれ探りを入れなければならないことはお前もわかっているだろ」
「それは、そうですが」
「相手は鬼とまで謳われる存在だ。そいつから情報を引き出すためには、圧倒的に不利、もしくは不確定要素が多すぎて相手にしたくない、生き延びることだけに専念しようと思わせる必要がある」
策もなく、真正面からぶつかり合うのはただの命知らずだ。
「その結果、俺が導き出した答えは二対一。それもただの二対一じゃないぞ。不意打ちからの危機感を煽り、警戒レベルを最大に引き上げさせる。これに関しては当初予定していたものだと成功しない」
戦闘姫が率いる特殊部隊は優秀だ。優菜を逃したら闇雲に彼女を追うのではなく、必ず戦闘姫の応援へ駆けつけてくる。
つまり、今回の場合は優菜が特殊部隊を振り切った直後じゃないと成立しない。完全な二対一という状況に追い込めないというわけだ。
「これで言いたいことはわかっただろ?」
優菜が頬を膨らませた。
「むぅ、わかりました、わかりましたよ! でも! 何も今日やることはなかったじゃないですか! いずれCTT組織に探りを入れなければならないとはいえ!」
「チャンスは待っていてもやってこない。自分から掴み取るものだ」
「だったらどうして優菜に相談しなかったんですか!」
「敵を欺くためには、まずは味方から、というだろ?」
「ぶん殴ってもいいですか!?」
鬼のような形相をし、拳を振りかざす優菜。
「甘い顔をしながら抱き着こうとしていた奴が、急に鬼と化して殴りかかる。ほんとうに恐ろしい性格だ」
「あ、今ぷっつんきました。さすがの優菜でも、これは耐えるに堪えないですね!」
牙をむくツインテール。
仕事は仕事。プライベートはプライベート。これが神崎優菜、彼女の素だ。
自分のことを私ではなく優菜と呼び、甘えたいときに甘えてくる。
すぐに仕事の話に入ったため、甘えてくる姿は一瞬しか見ることができなかったが、普段サードとしての姿しか見ていない戦闘姫が今の彼女を目の当たりにすれば、驚愕することは間違いないだろう。
反対側のソファーに動きがあった。
「んー、なぁに? 二人とも戦闘姫とやりあったの?」
「恵梨香、いたのか」
「いたもなにもさっき、あー、修ちゃん、水。波が来た、気持ち悪いよぅ」
「ったく」
明らかに顔色が良くない少女、美浜恵梨香にプルの空いたビンを渡してやる。
「そうそう、これ。ってちーがーうー。それ飲んだらあたし死んじゃう。意地悪しないでぇ」
「自業自得だろ。何の効果がある飲料か知らないが、いい加減自分で毒見するのをやめたらどうだ」
「それよりも水、水ぅぅ。修ちゃあぁぁあん。これを機にやめるからぁ。早くぅ」
やれやれ。
ため息を一つ。俺は重い腰を持ち上げ、冷蔵庫から飲料水が入ったペットボトルを取り出した。
「蓋開けてぇ」
「それくらい自分でしろ」
「えー、だっていま力が、うっ、やばい、マジで気持ち悪くなってきた」
口元を押さえたのでさっと身を引き、先ほどまで座っていたソファーへ移動する。汚物をぶっかけられたら堪ったものじゃない。
恵梨香がうるうるとした目で俺を見つめてきた。
「修ちゃん……修ちゃんのそういうとこ好き。最後まであたしを虐め倒す」
虐め倒すつもりはないのだが。
「吐かないのか?」
「吐きたくなーい。でも修ちゃんの口の中へなら吐きたいかも。うへへ」
「気持ち悪いことを言うな」
質の悪いいたずらが半分か。
様子を見れば一目でわかる。本当に気分が悪い時は冗談など口にする元気などない。
席を立ち、玄関へ向かうそぶりを見せる。
案の定、恵梨香はすぐに水を一口だけ飲み、後を追ってきた。
「待って待って、怒んないで。仕事の話しよ?」
「本当だろうな?」
「うんうん、もちろん。あたしが嘘を吐いたこと今までにあった?」
「数えきれないくらいは」
「でしょー、って酷いぃぃい! 嘘じゃないよ、ホントだよっ」
「だったら正確な情報だけを渡してくれ」
「そう言われてもさー、あたしの職業柄上厳選された情報だけを渡すことなんて不可能っていうかー」
「渡す気がないだけ、の言い間違えじゃないのか?」
「むっ、努力してるよー。そのための毒見だもん。今回のだって修ちゃんの役に立つために職場から盗んできたんだから」
「それらに助けられていることは事実だが、ほどほどにしておけ。本業じゃないだろ」
恵梨香の仕事。それは主に潜入諜報員として俺たちのサポートをすることだ。
戦闘姫に顔がバレておらず、魔法適性がない恵梨香だからこそできる役割。現在は魔法製品を主に取り扱っている大企業ミカドでアルバイトをさせ、情報を集めさせている。
ちなみに優菜の主武器、ブレイザー・ヴェスパインは彼女が職場から盗んできたものだ。
「わかっているけどさぁ、普通にバイトしているだけじゃ噂みたいな不確定情報しか聞かないしー。だったらアルバイトというある意味自由に動けるポジションを活かして仕事をする方が役に立つかなあって」
「続けていればいずれバレるぞ」
「かもねー。完成品を盗んだ時の社内の騒ぎようは尋常じゃなかったもん」
「当然だろ。単純に価値で示すなら、ひとりの人間が一生を費やして得られるものだ。大量生産品とはわけが違う」
「危険を冒してまで盗んだ甲斐はあった?」
ニヤリと笑みを浮かべる恵梨香。
ったく、忠告を聞くつもりがない。きっとこれからも手癖の悪さは直らないだろう。
それに対して何らかの反応を示すわけではなく、淡々と切り出すことにした。
「それに関して報告がある。綾乃に関する情報を得られた」
「え? ってことは、CTT組織に繋がりがあった、ということ?」
「断言はできないが、可能性は非常に高い。戦闘姫が三嶋優斗のことを先生と呼んでいた」
「先生?」
「どういう理由があってそう呼んでいるのかはわからないが、奴と関わりがあることは間違いない」
「じゃあ次の仕事場はCTT組織で決定?」
「いや、しばらくは今のままでいい。三嶋優斗と繋がりがあるミカドの情報を失うわけにはいかない」
政府に所属する研究員、三嶋優斗。上のポストに就いているわけじゃないが、ほとんどの人がその名を耳にしたことがあるだろう。
一般人が日常的に使用している魔法製品、それらを作るために必要な技術を生み出した人物。
そして、綾乃を誘拐した張本人――。
「修ちゃん、たまには肩の力を抜いたら?」
「いきなりなんだ」
「思い詰めてる。ただでさえ前線という大事な役割を担っているんだからさ、家でいる時くらい楽にしなよ」
「前線という意味ではお前もそうだろう」
「危険度が違いすぎ。あたしはアルバイトという身分だよ? 危険が隣り合わせとはいえ、基本的には安全が確保されているもん。それに比べ修ちゃんは」
「わかった。違う話をしよう」
長くなる前に自分から折れる。恵梨香と言い合いを始めたら、一睡もせずに一夜が明けてしまう。
プルの空いたビンが視界に入った。
「そういえば丁度いい話題があった。そのビンは何だ」
「それは優菜も気になっていたところです」
ここぞとばかりに優菜も会話に入ってくる。
俺も含め興味津々だ。ロクでもない品物なんて口にしたものの、なんだかんだで恵梨香が持ってくる製品が役立っているのも事実だ。気にならないわけがない。
恵梨香はビンを手にすると、いやらしい笑みを浮かべた。
「だったら優ちゃん、これ飲んでみる?」
「嫌です。恵梨香の様子から大体察しますので」
「冷たい反応。でもそれにキュンときちゃう」
「変態ですか、恵梨香は」
「ねえねえ、優ちゃん。あたしにも修ちゃんみたいに抱き着いて?」
「お断りします」
「そう言わずにさぁ」
手をわきわきさせながら、優菜との距離を詰めていく恵梨香。
もとい、変質者。
あまり彼女に対していい思い出がないせいか、優菜が俺の腕に抱き着いてきた。
「し、しゅうとぉ。こ、怖いです。身の毛がよだつとは、こういうことですか」
「あ、ずるーいっ。修ちゃんその場所代わって! あ、でも怖がる優ちゃんもこれはこれで」
じゅるりと舌なめずりをする変態。
もし、俺が優菜だったら同じことをしていたかもしれない。
それほどまでに今の恵梨香は気色が悪いということだ。
ほら、だって自然と身体が――。
「あ、あれ? 普段物怖気づかない修ちゃんが引いている?」
「き、気のせいだ」
「じゃあどうして優ちゃんと寄り添っているの?」
「違う。抱き着かれているだけだ」
「一方的に?」
「そう。一方的に」
「おかしいなあ。普段の修ちゃんだったら振り解くと思うんだけど」
「そろそろにじり寄るのをやめたらどうだ? 優菜が怖がっている」
「その顔がそそるんだよねぇ」
一歩、一歩と徐々に距離を詰めてくる。その度に優菜の抱き付く力が強くなっていく。
ふよんっ、という心地よい弾力。
マズイ。感じ取ってしまった。
ごくりと息を呑む。
昔から優菜と接しているとはいえ、俺も男だ。僅かではあるが、二の腕に感じる柔らかさに抵抗、もとい誘惑を覚えないわけじゃない。
「だそうだ。優菜、怖がらなければ近づいてこないらしいぞ。ほら、早く俺から離れた方がいい」
できるだけ平常心を装いつつ、優菜に語りかける。
それに対して彼女は突き放されると感じ取ったのか、
「そんなこと、言われましても」
ふにゅんっ。より身体が密着してしまったじゃないか。
「しょ、所詮相手は一つ年上なだけだ。た、体格差もそれほどあるわけじゃない。魔法適性があるお前なら一蹴できるはずだ」
「えっと、そういう問題じゃ、ないんですけど」
眉をハの字にし、瞳をうるうるとさせる優菜。
その表情はよくない。
そう感じると同時だった。
「ああんもう! ほんと優ちゃんってば癒しすぎる!」
ほら、変質者が感情を爆発させてしまったじゃないか。
「修ちゃん、やっぱりその場所代わって! あたしもちみっこに抱き付かれたい!」
手を広げて襲う気満々な恵梨香を前に、優菜は逃げるわけではなく口を尖らせる。
「ちみっこ言わないでください」
「おっ、そういう目もいいねぇ! でもやっぱりあたしは、ちみっこ、ちみっこー。あらゆる面がちみっこー。うりうりー」
自分の胸を強調し、優菜を見下す恵梨香。
質が悪い。
「ううぅぅぅ、しゅうとぉぉお、恵梨香が虐めてきますぅ」
涙目になった優菜が俺の顔を見上げた。
「気にすることはないぞ。小さいものにも需要はある」
「や、やっぱり修斗も小さいって思っていたんですか……うわぁぁん」
あれ? 泣かせてしまった?
おかしいな、フォローしたはずなのに。何か間違ったことでも言ったのか、ってこいつ。
俺は泣きついている優菜を無理やり引きはがした。
「ほら、恵梨香。好きにすればいい」
「修斗!?」
優菜が驚愕に目を見開いた。
まさに想定外だ、と言いたげな顔だな。ウソ泣きをして難を逃れようとするやつが悪い。
「全てがうまくいく、なんてことはあり得ない」
「恨みます、死んだ後も絶対夢に出てきてやります!」
「やめておけ。残念ながらお前が夢に出てきたことは一度も…………ない」
「え、あるんですか!?」
「恨んでも恨み損になるだけだ。それじゃあ俺は先に寝させてもらう」
「ちょっと待ってください修斗! それどんな夢ですか!? どんな夢なんですか!? 気になります! 一体夢の中で優菜は、修斗にどんな辱めを受けたんですか!?」
「お前らも早く寝ろよ」
暴走した二人から離れ、寝床へ向かう。
紺色のカーテンを目にした瞬間、一気に眠気が襲ってきた。
やはり戦闘鬼との接触は身体に想像以上の負担をかけてしまうらしい。
寝室へのカーテンを開く前に横目で二人の姿を確認する。我に返った優菜はすでに逃げ場を失っており、壁に背をぴったりとくっつけていた。
「え、恵梨香。これ以上近づいたら、け、蹴りますよ!? 本当に蹴りますからね!?」
「えへへ、いいよぉ。むしろ蹴ってぇ。ご褒美ぃ」
「いやああああああ」
その後、うるさい声に睡眠を妨げられたのは言うまでもない。