【短編】転生したら影だけだったが、体がないほうが案外強かった件
目が覚めたとき、空が遠かった。
妙に遠い、と思った。
視点が低い。地面スレスレの高さから、青い空を見ている。
脚で立っていない。
手もない。
体が、ない。
「あ、気がつきましたか」
声がした。見上げると、白い服を着た少女が俺を見下ろしていた。
見た目は十代半ば。しかし目だけが異様に古い。何千年も生きてきたような、底の見えない目だった。
「私はルミナ。この世界を管理する女神の末席を務めています」
俺は答えようとした。
しかし、口がない。
声帯がない。肺がない。
何もない。
「えっと……その、大変言いにくいのですが」
ルミナは視線を逸らした。神様が視線を逸らすというのは、相当まずいことが起きたときだと直感的にわかった。
「あなたを召喚する際に、ちょっとした手違いが生じまして。
肉体の……転送に失敗しました」
沈黙。
「残ったのが、その……影だけ、という状況でして」
俺は自分の「体」を確認した。
地面に黒く伸びた、人型の平面。
腕も脚も頭も、輪郭だけはある。でもそれは形の話であって、立体ではない。
完全に。
完璧に。
影だった。
「あの……一応、魂は無事です。感覚も、言葉もちゃんとあります。影の中に全部、入ってます」
そうか。俺は影として生きているのか。
怒る気にもなれなかった。
前世では三十二歳の会社員だった。働き過ぎて過労死して、気がついたら神様の前にいて、異世界に勇者として転生することになって。
それが影になった。
人生というのは、本当に何が起こるかわからない。
「動けますか?」
試してみた。
意識を向けると、影が動いた。
ゆっくりと、地面を這うように。
動ける。
「……動けましたね。良かった。では——」
「待ってくれ」
伝える方法を探した。
影の「手」の部分を地面に叩きつけると、ペタペタと音がした。ルミナがそれを見て、小さく頷いた。
「文字が書けますか? 砂地に」
やってみた。影の指先を砂に走らせると、跡がつく。
俺は書いた。
『光がないと消えますか』
ルミナは少し考えてから答えた。
「消えるというより……意識だけになる、という感じです。光がないと影は存在できないので。怖いかどうかは、あなた次第ですけど」
俺はまた書いた。
『俺にできることは?』
ルミナはそこで初めて、まっすぐ俺を見た。
「実は、それを調べているところです。影が勇者になったのは、世界の歴史でも初めてのことで……」
つまり、誰もわからない。
わかった。
だったら自分で調べるしかない。
『とりあえず動いてみる』
ルミナは困ったような、でも少しだけ安堵したような顔をした。
「そうしてください。あなたが何者になれるか、私も見守ります」
太陽が動いた。
俺の影が伸びた。
俺は這い始めた。
この世界の名はフェリア。
女神ルミナに地面へ描いてもらった地図によると、いくつかの国が大陸に点在している。勇者として召喚されたのは、その中央にある「光の王国」だった。
名前からして嫌な予感がする。
影にとって「光の王国」というのは、字面だけで天敵みたいな響きだ。
俺は王城の外壁に沿って移動しながら、この体の仕様を少しずつ把握していった。
まず、光が当たっている場所ならどこにでも存在できる。
逆に言えば、建物の中は難しい。窓から差し込む光が届く場所だけが、俺の領域だ。
次に、他の影に重なれる。
試しに兵士の影に潜り込んだとき、その兵士の感覚が流れ込んできた。足の裏が踏む石畳の硬さ。頬を撫でる風の温度。遠くで誰かが怒鳴る声。すぐに離れたが、これは使えると思った。
それから、影の中から手だけを実体化できる。
試した瞬間、地面から黒い腕がにょきっと生えた。近くにいた衛兵が裏返った声で叫んで逃げていったので、人目のないところでやるべきだと学んだ。
問題は、この力をどう使うかだ。
「勇者を探しているのよ」
声が聞こえた。
俺は壁の影に身を潜め、声の方向を探した。
城壁の内側、訓練場の端っこ。赤い髪の少女が、壁に背中を預けて座っていた。
年齢は十代後半。騎士見習いのような格好だが、どこか投げやりな雰囲気があった。騎士というより、何かを諦めかけている人間の顔だ。
「召喚された勇者が、影だったって噂が流れてて。みんな笑ってる。役に立つわけがないって」
誰に言っているのかと思ったら、足元の自分の影に向かって話していた。
「でも私は……影って、けっこう大事だと思うんだけど」
俺は彼女の影に滑り込んだ。
彼女がびくっとした。
足元を見る。自分の影が少し揺れているのを見て、目を細めた。
「……もしかして、あなたが勇者?」
俺は彼女の影から「手」を出した。
地面から黒い手が一本、人差し指を立てて。
「一本指……肯定、かしら」
正解だ。
「私はカリア。騎士団の末席。強くもないし、魔法も使えない。でも、勇者と一緒に旅したいと申し出たら、全員に笑われた」
俺は砂地に文字を書こうとして、砂がないことに気づいた。
訓練場の端は石畳だった。
仕方なく、石畳の隙間の砂を少し掘り起こして書いた。
『なんで俺と?』
カリアは少し黙った。
「影って、光がないと存在できないでしょ。でも光がないと、私たちも何も見えない。どっちが大事なの、って思ったら……同じくらい大事じゃないかって」
変な理屈だ。
でも嫌いじゃない。
俺はまた書いた。
『一緒に来るか? ただし危険だ』
「そのセリフ、普通は逆じゃない?」
カリアは立ち上がって、俺の影を踏んだ。
踏んだというより、踏みしめた。
「よろしく、勇者。私はちゃんと光を持ってくるから、あなたは影でいてくれればいい」
こうして俺は、仲間を得た。
フェリアに「影の天敵」がいるとしたら、それはおそらく光魔法師だ。
ルミナに聞いた話では、光魔法師は光を自在に操る魔法使いの総称で、影を消したり、光で場を塗りつぶしたりできるらしい。
つまり俺の存在そのものを消せる可能性がある相手だ。
だから俺は、光魔法師の総本山「白の塔」に向かうことにした。
敵を知れ、という話だ。
カリアは渋い顔をした。
「乗り込むの?」
俺は彼女の足元から砂を探して書いた。
『偵察だ』
「影が偵察に行くって、それ完全に向いてるわね」
確かに。
姿が見えないというのは、案外便利だ。
白の塔は城下町の北端にあった。白い石造りの塔で、窓が少ない。
光魔法師たちが魔力を鍛える場所だけあって、建物から常に光が漏れ出していた。
その光が、俺を照らす。
俺は存在し続けることができる。
皮肉だが、光魔法師の本拠地は俺にとって最も「居やすい」場所かもしれない。
塔の中に滑り込んだ。
廊下の光に沿って、壁を這う。
「聞いたか。勇者が影だったそうだ」
声がした。
回廊を歩く光魔法師たちだ。白いローブを纏った男が二人、話しながら歩いている。
「笑い話だな。影が魔王を倒せるわけがない」
「まったくだ。光魔法師である我々が相手をしても、消すのに一秒もかかるまい」
俺は壁をゆっくりと移動しながら、彼らの後をつけた。
「しかしクロウ様は違う意見らしい」
一人が声を低めた。
「影は光がなければ存在できない。それを逆に使えば……クロウ様はそう言ってた」
「あの方は昔から変わった見方をされる」
クロウ。
光魔法師の中に、俺に興味を持っている人間がいる。
俺は更に奥へと進んだ。
最上階への階段を登りきったところに、大きな扉があった。
扉の隙間から光が漏れている。中はかなり明るい。
俺にとっては好都合だ。
扉の下の隙間から、滑り込んだ。
部屋の中は、壁一面が光を放つ石で覆われていた。
日の光に似た、でも太陽より純粋な光。
その中央に、男が立って俺を見ていた。
年齢は三十代前半。銀髪に、切れ長の目。
白いローブを着ているが、他の光魔法師とは空気が違った。
「来ると思っていた」
男は俺を見た。
正確には、床を見た。俺が落としている黒い輪郭を。
「クロウだ。光魔法師の長をやっている。影の勇者、名前はあるか?」
俺は床の埃の上に書いた。
『カゲ』
「そのままだな」
クロウは膝をついた。俺と目線を合わせるように。
「聞きたいことがある。あなたは何のためにここへ来た?」
『お前たちのことを知るために』
「敵として?」
俺は少し考えた。
正直に書いた。
『まだわからない。でも俺を消せる奴がいるなら、先に会っておきたかった』
クロウは少し黙った。
それから、小さく笑った。
「正直な影だ。気に入った」
彼は立ち上がり、窓の方を向いた。
「影は光がなければ存在できない。光は影がなければ、ただ眩しいだけだ。どちらが欠けても、この世界は半分しかない」
俺は黙って聞いた。
「魔王は光を憎んでいる。影も憎んでいる。あいつが欲しいのは、光も影も存在しない『虚無』だ。俺たちは敵じゃない」
俺はまた書いた。
『だが、俺を消せる』
「消せる」クロウは振り返った。「でも消さない。なぜかわかるか?」
俺は何も書かなかった。
「影なき世界に、俺が輝く意味はない」
この男は危険だと思った。敵としてではなく、味方として。こういう人間が本気で動くと、誰も想像しない方向に世界が動く。
俺は最後に書いた。
『また来る』
「待っている」
俺は扉の隙間から出た。
廊下の光の中を滑りながら、思った。
仲間になれるかもしれない。
それとも、いつか決定的に対立するかもしれない。
どちらになるにせよ、クロウという男は俺の「因縁」の相手になる気がした。
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第四章「影の世界の扉」
俺たちは三人で、街を出た。
カリアとクロウと俺。
体のない俺、強くないカリア、光魔法師の長クロウ。
どう考えても奇妙な組み合わせだ。
目的地は、大陸の東にある「影の森」。
ルミナに聞いた話では、この世界に「影の世界」と呼ばれる並行次元が存在し、その入口がどこかにあるという。
俺が「なぜ影として転生したのか」という謎の答えが、そこにあるかもしれない。
旅は、思ったより静かだった。
カリアはよく喋った。
「今日の空ってちょっとだけ紫がかってない?」とか「あの花の名前なんて言うんだろう」とか。
俺が答えられないとわかっていて、それでも一人で喋り続けた。それが不思議と心地よかった。
クロウは寡黙だった。
でも夜営のとき、焚き火の光が俺を照らすように位置を調整してくれた。
無言の気遣いが、少しずつ信頼に変わっていった。
三日目の夜。
「ねえ、カゲ」
カリアが焚き火を見ながら言った。
「怖くないの?」
俺は砂に書いた。
『何が?』
「光がなくなったら、消えるんでしょ。
夜になるたびに、ちょっとずつ不安じゃないかって思って」
俺は正直に書いた。
『最初は怖かった。今は少し慣れた』
「慣れたって、すごいね」
カリアは焚き火の薪をつついた。
「私もね、昔は暗いのが怖かった。でもある日、影の中に知らない誰かがいる気がして。その人が怖くなくて……それから暗闇が少し好きになった」
俺は少し驚いた。
それは、俺がカリアの影に入った夜よりも、ずっと前の話だ。
もしかして俺は、この世界で「影として」もっと前から存在していたのだろうか。
書けなかった。
その疑問は、まだ言葉にできなかった。
影の森に着いたのは、五日目の朝だった。
名前の通り、森全体が深い影に覆われていた。木々が密生していて、太陽の光がほとんど届かない。
俺にとっては、かなり危険な場所だ。
クロウが手のひらを開くと、光の球が生まれた。
「先に言っておく。俺の光でお前を照らし続ける。だから大丈夫だ」
俺は地面に書いた。
『なんでそこまでする』
「さっき言った。影なき世界に、俺が輝く意味はない」
同じ言葉だ。
でも森の入口で聞くと、重さが違った。
俺たちは進んだ。
森の奥は、異質だった。
光がないのに、輪郭が見える。クロウの光球が照らしているから、ではない。
木々の間から、薄紫の光が漏れていた。
影の世界からの光、だ。
「あそこだ」
カリアが指差した。
大きな木の根元に、空気が歪んでいる場所があった。
見つめていると、その向こうに「裏側」が見える気がした。
俺は進んだ。
扉に触れようとして——
気がついた。
俺には手がない。
影には質量がない。
俺は扉に触れることができない。
カリアが俺の隣に来た。
「どうすれば入れる?」
俺にもわからない。
砂を探して書いた。
『わからない』
クロウが扉を調べながら言った。
「この扉は影の密度が足りないと開かない。お前の影は薄い」
どうすれば影を濃くできるのか。
その瞬間、カリアが俺の影の上に立った。
「私の影と重ねたら?」
そしてクロウも、俺の影の上に歩いてきた。
三人の影が重なった。
濃くなった。
扉が震えた。
カリアが言った。クロウも同じ言葉を続けた。
「行こう」
俺は声が出ない。でも、同じことを思っていた。
扉が開いた。
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第五章「影の世界の真実」
影の世界は、光の反転だった。
明るい場所が暗く、暗い場所が明るい。
天地が逆で、空は黒く、地面が白かった。
俺はここでは、鮮明だった。
影の世界では、「影」が実体を持つ。
俺に体があった。
地面を踏む感触。
風の温度。
カリアとクロウの姿を、まっすぐ見る視点。
「しゃべれる」
声が出た。
かすれた、三十二年使っていなかった声帯の音。
カリアが目を見開いた。
「しゃべった!」
「影の世界では、影が実体を持つ」クロウが冷静に言った。「つまりここが、あなたの本来いるべき場所なのかもしれない」
俺は自分の手を見た。
黒い。
影の色の手。でも確かに、五本の指が動く。
俺は言った。
「……ありがとう」
二人に向かって。
カリアが泣き笑いみたいな顔をした。
クロウは何も言わず、少しだけ頷いた。
「俺がここにいる理由を探さないとな」
俺たちは影の世界を進んだ。
そこには、誰もいない廃墟があった。
かつての建物の残骸。朽ちた家。崩れた塔。
そして中央に、一人の「影」が座っていた。
俺たちと同じ、影の色をした人型。でも俺と違って、ここでも実体がなかった。完全な影。輪郭だけの存在。
「来たか」
声は直接、頭の中に響いた。
「お前が七人目の影の勇者だ」
七人目。
「過去に六人、影として召喚された者がいた。全員が、影の世界に辿り着き、そして……消えた」
「消えた?」俺は聞いた。
「影の世界を行き来するには、削れるものがある。影の密度が上がるほど、消耗が増す」
少し間があった。
「六人はここで尽きた。影の世界に溶けて、戻れなかった」
俺は二人を見た。
カリアとクロウが、俺を見返した。
「俺も消えるのか」
「消えるかもしれない。だが」
影は立ち上がった。
「お前には、前の六人にないものがある」
「何だ」
「仲間の影が一緒にある」
影はカリアとクロウを指した。
「影の密度を上げるのに、仲間の影を使えるなら……消耗を分散できる。お前だけが消えなくていい」
俺は二人に向かって言った。
「聞いた通りだ。俺につきあうと、お前らも削れる」
カリアは即答した。
「そんなの最初からわかってた」
クロウも言った。
「影なき世界に意味はない。お前が消えるのは困る」
俺は影に向かって言った。
「魔王を倒せるか」
「わからない。だが、影の力を使えば……あいつの『虚無』に対抗できるかもしれない。光も影も消した先にある虚無。それに対抗できるのは、光と影が融合したときだけだ」
俺はクロウを見た。
クロウは静かに言った。
「光と影を融合させる。俺が光を出す。お前が中に取り込め。やってみる価値はある」
「どうやる」
影が言った。
「簡単だ。光が影を照らすのではなく、影が光を内包する。お前がクロウの光を、自分の中に取り込め」
俺はクロウの前に立った。
クロウが手のひらを開く。光の球。
俺は影の手を伸ばした。
光に触れた。
熱くなかった。
冷たくもなかった。
ただ、満ちていく感覚があった。
影の中に、光が宿った。
輝く影、とでも言うべきものが生まれた。
黒い体の内側から、白い光が透けて見える。
光と影が、同じ場所に存在している。
「これが……」
「それが答えだ。光だけでも、影だけでもない。お前はもう、どちらでもある」
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第六章「俺たちの世界」
影の世界から戻った俺は、少し変わっていた。
表の世界でも、薄く光っていた。
黒い影の輪郭が、内側からぼんやりと光を帯びている。
カリアが言った。
「きれいだね」
俺は彼女の影に文字を書いた。
『お前のおかげだ』
「また砂に書くの笑える」
クロウが空を見た。
「魔王との戦いは、これからだ。だが今日は、少しだけ休め」
草原に、俺たちは寝転んだ。
厳密には、カリアとクロウが寝転んで、俺は地面に広がった。
太陽が傾いていく。
俺の影が長く伸びる。
「ねえ、カゲ」カリアが空を見たまま言った。「転生する前って、どんな人だった?」
俺は砂に書いた。
『三十二歳の会社員。特に面白いことは何もない人生だった』
「そっか」
『お前は?』
「私は……特別じゃない騎士見習い。強くない、魔法も使えない、でも誰かの役に立ちたかった」
クロウが言った。
「役に立っているだろう。影の勇者が動いているのは、お前が光を持ってきたからだ」
カリアは少し赤くなった。
「……それクロウに言われると、なんか恥ずかしいな」
俺はまた書いた。
『さっきのこと、本当に言ってるぞ』
カリアはしばらく空を見てから言った。
「ありがとう。二人とも」
夕暮れが来た。
太陽が沈むにつれて、俺の輪郭が薄れていく。
でも今は怖くなかった。
夜になっても、クロウが光球を出す。カリアが焚き火を作る。
その光の中に、俺は存在し続けられる。
暗闇は俺を消さない。
仲間がいる限り。
俺は影だ。
体がない。声がない。触れられない。
それでも、確かにここにいる。
体がなくても、ここにいる。
声がなくても、伝わる。
触れられなくても、誰かの影の中で、一緒にいられる。
それで十分じゃないかと、今は思う。
魔王との決戦は、まだ先だ。
でも今夜は、ここにいることが正解だと思える。
草原に伸びた俺の影が、夕陽に染まった。
黒い影の中で、光が揺れていた。
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