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第4話 手のひら一杯の朝日

 この数日間、僕を守り続けてくれた真っ白な手袋。それは単なる遮断機ではなく、世界と僕との間に引かれた、優しくて強固な境界線だった。これがあるだけで、夜の闇はただの逃げ場ではなく、呼吸を整えるための奥行きのある広場に変わった。


 午前4時。


 空の色が、深い藍色から淡い群青へと移り変わろうとしている。夜の終わりが、すぐそこまで迫っていた。

 僕はいつものコンビニへと向かう。アスファルトの匂いは、もう僕を拒絶する焦げた匂いではない。夜露に湿り、静かに目を覚まそうとしている街の吐息だ。

 コンビニの横、いつもの場所に男がいた。

 今日も制服ではない。耳に並んだピアスを揺らし、履き潰したスリッパで地面を蹴っている、あの酔っ払いの姿だ。足元には、僕が片付けきれなかった最後の数本の空き缶が転がっている。


「……伊吹さん」


 声をかけると、伊吹はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、夜明け前の薄明かりが反射して、どこか透き通って見える。


「よお、律。……その手袋、だいぶ汚れたな」


 僕は自分の左手を見た。老婆の重い荷物を運び、夜のゴミを拾い集めた白手袋は、指先が黒ずみ、毛羽立っている。それは、僕がこの数日間、確かにこの世界に触れたという証だった。布越しではあったけれど、僕は間違いなく、誰かの体温や、街の汚れをその手で受け止めたのだ。


「はい。……これ、返しに来ました」


 僕はゆっくりと、名残惜しさを押し殺して手袋を脱いだ。

 空気に触れた左手が、少しだけ心細そうに震える。けれど、以前のような「剥き出しの恐怖」はなかった。


「伊吹さん。僕、今日から学校に行こうと思います。……いや、まずは外を歩くところから、始めてみます」


 伊吹は、受け取った汚れた手袋をじっと見つめ、それから乱暴に僕の頭を撫でた。いつも通りのムスクの香りと、ほんの少しのアルコールの匂い。それが今の僕には、どんな香水よりも頼もしく感じられた。


「そうか。……休止符を打つのは、意外と勇気がいるもんだよな。でもな律、止まっていたからこそ見えた景色があっただろ。お前がこの数日間で見たものは、決して仮初めの幻想なんかじゃない。お前自身の足跡だ」


 伊吹は立ち上がり、大きく背伸びをした。彼の背後で、建物の隙間から空が白み始めている。


「太陽は、今日も容赦なくお前を焼くかもしれない。痛いし、眩しいし、逃げたくなるかもしれない。でも、お前にはもう分かってるはずだ。その光が、誰かの優しさを育てていることも。お前が焼かれているその隣で、誰かが花に水をやってるってこともな」


 僕は、自分の両手を見つめた。

 手袋はもうない。けれど、あの布越しに感じた老婆の手の温もりや、伊吹がくれたアイスの冷たさは、僕の掌の中にしっかりと刻まれている。


「……藍されている、って。僕が敏感すぎて、光をまともに受けすぎちゃうから、夜が僕を匿ってくれた。そういうことですよね」


「うーん、どうだろうね。そう感じただけだった。お前は、世界を愛しすぎてるんだよ。だから、ちょっとだけ自分を守る術を覚えりゃいい。この手袋みたいに、心に一枚、仮の皮膚を纏うんだ。それは嘘をつくことじゃない。自分を壊さないための、正しい境界線だ」


 東の空から、最初の光が漏れ出した。

 街灯の光が弱まり、世界の色彩がゆっくりと復元されていく。


「ありがとうございました。……僕、あなたのこと、一生忘れないと思います」


「よせやい、気持ちわりい。俺はただの酔っ払いの運転手だ。お前みたいな迷子を、夜の間だけ預かってただけさ」


 伊吹はそう言って、僕に背を向けた。


「じゃあな、律。夜は長いけど、朝は必ず来る。……月が溶けちまう前に、さっさと帰れよ」


 彼の指差す先、空には白く透けた月が、まるで燃え尽きた灰のように静かに浮かんでいた。一口分だけ欠けたまま。けれど、その欠落こそが、明日を迎え入れるための隙間なのだと、今の僕には分かる。

 僕は伊吹の背中に向かって、深く頭を下げた。

 言葉にならない「ありがとう」が、胸の奥で熱く込み上げる。

 帰り道、ついに太陽が地平線を越えた。

 世界が、一気に黄金色に染まる。

 光が僕の肌を叩いた瞬間、身体はどこも痛まなかった。久しぶりの光との抱擁に、思わず足が止まる。


 僕は、白手袋をはめていた方の手で、もう片方の手をぎゅっと握りしめた。


 一枚、挟めばいい。

 

 僕は顔を上げた。

 眩しさに目を細め、涙が滲む。

 けれど、視線の先には、あの停留所の花壇があった。

 朝日を浴びて、露に濡れた花たちが、目も眩むような鮮やかな色彩を放っている。

 その花を、通学路を歩く小学生が、不思議そうに眺めて通り過ぎていく。

 世界は、残酷で、眩しくて、そして、驚くほどに整えられている。

 

 僕は一歩、踏み出した。

 日の温かさは僕がこの世界で「生きている」という、確かな自負へと変わっていた。


 夜が、完全に明けた。


 僕の掌には、もう手袋はない。


 けれど、手のひら一杯に、新しい朝の光を掬い取り、握りしめる。


 「……おはよう」


 光溢れる街の中で、僕は自分に、そしてこの世界に、初めての挨拶をした。

以上で終了となります。

ここまで見ていただき大変ありがとうございました。

次の作品も投稿するつもりなので是非見てください!

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