第3話 溶けかけの氷菓子、布越しの体温
枕元に置いた白い手袋が、朝の光を跳ね返していた。
遮光カーテンの隙間から漏れる細い光の矢。いつもなら、それは僕を刺し殺そうとする敵意そのものだった。けれど、その光が手袋の白い布地に落ち、柔らかな反射となって部屋の隅を照らしているのを見たとき、僕は久しぶりに「光」に対して、前向きな、感情を抱いた。
伊吹から借りた、仮初めの皮膚。
僕はそれを左手にはめ、布団の中でじっと見つめる。
「休んでいる」ということの罪悪感が、この布一枚を通して、少しずつ別の何かに書き換えられていくような気がした。
僕はただ逃げているんじゃない。夜という深い藍色の海の中で、太陽の熱に耐えられるだけの自分を、静かに編み直しているんだ。
その日の夜、僕は吸い寄せられるように、あのコンビニへと向かった。
21時を過ぎた街は、まだ「昼間の住人」たちの余熱で溢れている。
けれど、左手にはめた白手袋が、僕と世界の間に確かな境界線を引いてくれていた。黒いパーカーのポケットに手を突っ込み、布の感触を指先で確かめる。それだけで、夜気に混じる喧騒が、昨日よりもずっと遠い出来事のように感じられた。
コンビニの自動ドアが開く。
眩しすぎるLEDの光。
以前なら、この「人工的な昼間」でさえ、どこか落ち着かない気持ちにさせた。けれど今は違う。
レジの奥で、忙しそうに品出しをする店員の背中。
期限切れの弁当を黙々とまとめる、疲れ切った顔の青年。
僕は、昨日までは見えていなかった「世界の裏側」を凝視していた。
伊吹が言っていた。昼間の住人が眠っている間に、この街は誰かの優しさで整えられているのだと。
店員が棚の乱れを直す、その指先。
床に落ちた小さなレシートを、誰に言われるでもなく拾い上げる、見知らぬ客。
それらすべての、声にならない「善意」が、波のようにこの明るい店内に満ちている。
「……お、律。律じゃん」
不意に背後から、あの、少しだけ濁った、けれど温かい声が響いた。
振り返ると、そこには昨夜の「運転手」の面影を脱ぎ捨てた、ピアスだらけの酔っ払いが立っていた。
左手にぶら下げたレジ袋からは、缶ビールの乾いた音が響いている。
「伊吹さん」
「律、お前さ。その手袋、似合ってるね。……でも、そんなところで突っ立ってると、普通に怪しいやつだぞ」
伊吹は笑いながら、僕の隣に並んだ。
また、あの強烈なムスクの香りが鼻を突く。けれど、今の僕にはその匂いが、この広い夜の街の中で僕を繋ぎ止めてくれる錨のように感じられた。
「約束、守ってますよ。空き缶、片付けてます」
「おお、感心感心。ご褒美に、今日はこれ、やるよ」
伊吹がレジ袋から取り出したのは、安っぽい棒付きのアイスキャンディーだった。
「……えっ、アイス?」
「夜に食べるアイスは格別だぞ。昼間の奴らは、贅沢にハーゲンダッツとか食ってやがるだろうけどさ。俺たちは、この『当たり』が出るかどうかのスリルで生きてるんだ」
僕たちは、コンビニの横の、例の空き缶の山の隣に腰を下ろした。
アイスを一口かじる。冷たさが喉を通り、胃の腑を直接冷やしていく。
「なあ、律。今日、何かいいことあったか?」
「……いいこと、というか。昨日より、怖くなかったです。外に出るのが」
僕は白手袋をはめた左手を、月明かりにかざした。
「伊吹さんの言ってたこと、少しずつ分かってきた気がします。昼間の世界が、僕を攻撃してるんじゃなくて……僕が、勝手に怯えていただけなのかもしれない、って」
伊吹は空き缶のプルタブを、プシュッという小気味いい音を立てて開けた。銀の淵に泡立つ白が見えた。
「そうだよ。世界はさ、思ってるよりずっと無関心で、それでいて、お節介なほど優しい。太陽が昇れば、誰だって影ができる。影ができるから、夜の安らぎがわかる。……律、お前はもう、ただ『休んでいる』だけの時期は終わろうとしてるんじゃないか?」
その時、コンビニの入り口付近で、一人の老婆が立ち往生しているのが見えた。
重そうな買い物袋を両手に下げ、自動ドアの前で戸惑っている。
僕は、無意識に立ち上がっていた。
「……あの」
老婆の元へ駆け寄る。
白手袋をはめた左手が、迷わず老婆の荷物に伸びた。
「重いですよね。持ちます」
「あら、まあ……。ありがとうね、お兄さん」
老婆の、皺だらけの温かい手が、僕の白手袋の上に重なった。
布越しに伝わってくる、確かな人間の温度。
それは、太陽に焼かれる痛みとは正反対の、心の奥底をじんわりと潤すような温もりだった。
荷物を老婆の自転車のカゴに乗せ、見送る。
「ありがとうね」という言葉が、夜の空気に溶けていく。
僕は、自分の左手を見つめた。
白手袋は、もう単なる「遮断するための盾」ではなかった。
それは、僕が世界と、誰かの優しさと触れ合うための、「中継地点」に変わっていたんだ。
「……やるじゃん、律」
伊吹がいつの間にか後ろに立って、満足そうに頷いていた。
「今の感触、忘れんなよ。それが、昼間の住人たちが分け合ってる『光』の正体だ」
アイスが滴る。夏の蜜は地面にゆっくりと染み込んだ。
僕は、深く息を吸い込む。
肺に満ちる夜気は、もう冷たくて鋭い刃物じゃない。
僕の全身を、優しく藍色に染め上げてくれる、祝福の息吹だ。
「伊吹さん。僕、明日……」
言いかけて、僕は言葉を飲み込んだ。
まだ、確信はない。けれど、心のどこかで、小さな芽が光を求めて背筋を伸ばしているのを感じた。
「明日もまた、ここで空き缶拾うのか?」
「……はい。でも、明日はもっと、早く来れるかもしれません」
伊吹は笑って、僕の頭を乱暴に撫でた。
ムスクの香りと、ビールの匂い。
そして、夜の静寂。
僕はもう、一口分欠けた月を、寂しいとは思わなかった。
欠けているからこそ、その隙間に、誰かの優しさを流し込むことができるのだから。




