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第2話 藍と白色の境界線

 レシートの裏、殴り書きされた文字を頼りに辿り着いたのは、駅から少し離れた場所にあるバスの終着点だった。


 午前2時。


 昼間なら、絶え間ない排気音と、行き場のない人々の焦燥感で満たされているはずの場所だ。今はただ、街から一切の音が消え、街灯だけが等間隔に地面を照らしている。その規則正しい光の並びは、まるで異世界へと続く誘導灯のようにも見えた。本当にこんな場所に誰かいるのだろうか。


 不安を抱えながら歩みを進めると、アスファルトからは昼間の太陽に焼かれた熱が、まだ微かに立ち上っていた。鼻をつく焦げたような匂い。それは、かつての僕が拒絶した「日常」の残骸だ。けれど不思議なことに、その匂いは夜の冷気にさらされ、今は穏やかに凪いでいる。


 暗がりのなかに、一台の大型バスが停まっているのが見えた。


 「回送」、という二文字だけを白く光らせて。

 そのバスのそばに、一人の男が立っていた。

 汚れ一つない紺色の制服に、ぴしりと折り目のついたスラックス。そして、夜闇のなかで浮き上がるほどに真っ白な手袋。

 男は、慣れた手つきでバスのタイヤを点検していた。金属の重み、ゴムの質感。そのすべてを確かめるような、迷いのない動作。それは、僕が知るどんな「学生の日常」よりも、厳格で、美しい秩序を持っていた。


「……あの」


 声をかけると、その男はゆっくりと振り返った。ほんのりと、夜の冷たさに混じってムスクの香りが鼻を撫でる。


 昨夜の、ピアスだらけの酔っ払い。

 でも、今の彼からは酒の匂いも、あのふざけた口調も消えていた。


「来たんだね、律」


 伊吹だった。


 整えられた髪と、凛とした立ち姿。白手袋の手を軽く挙げて僕を招き入れる彼は、まるで夜の境界を守る門番のように見えた。コンビニの隅で空き缶を並べていた、世界の欠落の一部のようなあの男は、今、この静まり返った街の心臓を動かそうとしている。


「伊吹……さん。なんですか、その格好」


「仕事だよ。俺は夜行バスの運転手。昼間の住人を、彼らが眠っている間に目的地まで運ぶのが仕事」


 彼は白手袋をはめた手で、バスの車体を優しく撫でた。


「君は、昼が嫌いなんだよね。明るすぎる。……あるいは、眩しすぎるのか」


 僕は黙って頷いた。昨日の、あの髄まで焼かれるような痛みが、肌の奥で微かにうずく。

 僕を削り、砕いてきた日常。親の期待や友人の善意、それらすべてが太陽の光と混ざり合って、僕という存在を拒絶してくる。けれど、伊吹は僕を否定しなかった。ただ、大きなバスの傍らで、静かに僕の言葉を待っていた。


「でもさ、これを見てよ」


 伊吹が指し示したのは、バスの停留所のすぐ横にある、小さな花壇だった。

 夜の闇に沈んでいて気づかなかったが、そこには手入れの行き届いた花が咲いていた。パンジー、ビオラ。名前も知らない小さな花たち。


「これ、近所の幼稚園の子たちが毎日水をやってるんだよ。君を焼くあの太陽を浴びて、この花たちは明日も咲こうとしている」


 伊吹はしゃがみ込み、白手袋の指先で花びらに触れた。


「昼間の光は、確かに残酷だ。でも、その光の下で誰かが誰かのために何かを育てたり、道に落ちたゴミを拾ったりしている。君が部屋でじっと耐えている間に、この街は誰かの優しさで少しずつ整えられているんだよ」


 僕は、その花壇をじっと見つめた。

 太陽は僕を攻撃するだけのものだと思っていた。でも、その光があるからこそ、この花は夜の寒さに耐え、僕にその色彩を届けてくれている。僕がすべてをやめた後も、誰かが、僕の知らないところでこの世界を維持し、明日の朝のために整えてくれている。それは、昼間の世界が持つ暴力的な明るさとは別の、静かな温もりだった。


「君が焼かれているのは、世界が君を嫌っているからじゃない。君が、あまりに優しすぎる光を、真正面から受け止めすぎているだけなんだ。この白手袋みたいにさ、一枚挟めばいいんだよ。世界との間に」


 伊吹が立ち上がり、僕に笑いかけた。その瞳は、昨日のコンビニの時と同じ、少しだけ哀しそうで、けれど朝日のような温かさを宿していた。


「直接触れれば火傷するようなものでも、こうして仮の皮膚を纏えば、その熱はちょうどいい温もりになる。今の君には、そういう遮断が必要なんだ」


 彼は右手の白手袋をゆっくりと外し、僕に差し出した。


「これ、貸してやるよ。今夜の君には、これが必要だ」


 受け取った手袋は、まだ伊吹の体温が残っていて、驚くほど柔らかかった。それを自分の左手にはめてみる。少し大きかったけれど、その布一枚があるだけで、夜の冷気から守られているような安心感があった。


「藍されている、って言っただろ。君は、夜の静けさに守られながら、昼間の優しさをじっくりと染み込ませていけばいい。焦らなくていいんだよ。今はまだ、人生という長い時間のなかで、ほんの少しだけ休んでいるだけなんだから」


 僕の人生が、一時的に止まっていること。それをこの人は、否定も肯定もせず、ただそこにある事実として受け入れてくれている。

 アスファルトに落ちた月明かりが、僕の左手の白手袋に反射して、一瞬だけ昼間の光よりも強く輝いた気がした。空を見上げると、一口分だけ欠けた月が、僕らを見守るように静かに浮いている。不完全で、どこか欠けているその光が、今は何よりも心地よかった。


「さあ、仕事だ。俺はこれから、昼間の住人たちを次の街へ運んでいく。君は君で、自分を整えてきなよ」


 伊吹はバスに乗り込み、エンジンをかけた。重低音が、夜の静寂を揺らす。

 バスがゆっくりと走り出す。僕は、左手のはまった白い手袋を強く握りしめた。

 僕は初めて、明日の朝が来ることを、ほんの少しだけ、怖くないと思えた。


 バスのテールランプが遠ざかり、闇に溶けていくのを最後まで見届けた。

 一人残された終着点は、先ほどよりもずっと静かで、けれどもう「不安な場所」ではなかった。

 

 左手の白手袋に視線を落とす。綿の柔らかな質感。布越しに感じる、自分自身の指の輪郭。それは世界との間に引かれた、初めての境界線だった。

 僕はそのまま、来た道を戻り始めた。

 

 途中の公園。昼間は子供たちの歓声で溢れ、今の僕には最も「眩しい」はずの場所。


 ふと、水飲み場の横に誰かの忘れ物が置かれているのが見えた。小さな赤い子供用の靴。それは誰かが踏まないように、丁寧に縁石の上に並べられていた。


 「ああ、これもか」と思った。

 誰かが、落とし主が困らないようにと、そっと手を差し伸べた痕跡。

 昼間の世界は、僕を焼くだけの残酷な場所だと思っていたけれど、そこには確かに、名もなき誰かの小さな祈りが散らばっている。

 

 「藍されている」という、あの男の言葉が、少しずつ僕の中に染み込んでいく。

 それは、夜の色に守られながら、いつかまた光の中に帰るための、深い準備の時間。

 

 コンビニの前に戻ると、彼が残したであろう空き缶が散らかっていた。

 僕は白手袋を汚さないように、右手を駆使してそれらを一つずつ拾い集めていく。

 昨日までは、こんなこと、ただの「苦役」でしかなかっただろう。

 でも今は、自分の手で夜を整えることが、明日への小さな「挨拶」のように思えた。

 

 ゴミ箱に最後の缶を放り込み、立ち上がる。

 東の空が、ほんの少しだけ、色を変えようとしていた。

 

 「……行ってきます」

 

 誰に届くでもない言葉を、僕は白手袋を嵌めた手に吹きかけた。

 

 家に戻り、再び遮光カーテンを閉める。

 けれど、昨日のような閉塞感はなかった。

 暗闇の中で、白手袋だけが淡く浮かび上がっている。

 僕はそれを枕元に置き、目を閉じた。

 

 眠りに落ちる直前、カーテンの隙間から、明日への光が忍び寄るのを感じた。

 けれど、もう怯えなくていい。

 僕には、夜がくれた「盾」があるのだから。


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