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第1話 スプーン1杯分の夜

 ついに太陽までもが牙を剥くようになったと気づいたのは、昨日のことだった。


 今までだって何度も越えてきたはずの、始まりを告げる朝日。それに焼かれたのだ。窓から差し込む一筋の光が、剥き出しの腕をなぞった瞬間、熱した鉄を押し当てられたような激痛が走った。厄介なことに、その傷は数秒で霧散する。鏡を見ても太陽からの拒絶の痕はなく、自分の肌があるだけだ。だがその得も言われぬ不快感と、髄に染みこむような痛みは、深い火傷のように僕の奥底に残ったままだった。


 痛いのは嫌いだ。だがこの痛みが今の僕にとって好都合なのも事実だった。学校に行っていないのだ。正しく言うならば、


《何もかもやめた》


 これが一番適切な表現なのかもしれない。

 

 何か特段、劇的なきっかけがあったわけでもない。誰かにひどいいじめを受けたわけでも、家庭が崩壊したわけでもない。円満に見えた友人関係、こなすべき課題、教師からの無機質なストレス、そして両親からの、本人たちすら自覚していないちっぽけな期待。何も特別なことなんてなかった。どこにでもある、学生としての普通の日常。


 でも、その「普通」は、絶え間なく押し寄せるささやかな波であふれていた。一発で僕をなぎ倒すような大波ではない。けれど、足元をすくい、体温を奪い、少しずつ僕を削っていく波。それがいつしか、僕を凍てつかせ、砕いていた。

 だから、やめた。何もかも。


 両親も友人も心配してくれたし、励ましてもくれた。申し訳なかった。不甲斐なかった。でも透明な善意におぼろげな圧力を感じてしまった僕には、何もかもが無力だった。


 布団の外へ手を伸ばす。触覚と記憶を頼りに、厚い遮光カーテンで閉め切られた闇の中でスマホを手繰り寄せる。


 21:35


 夜だ。


 布団からのそりと這い出し、窓に近づく。カーテンの端を数ミリだけつまみ、持ち上げた。恐る恐る、外の様子を覗き込む。


 ……焼かれない。


 全身のこわばりが溶け、重苦しい吐息とともに流れ出る。瞳が、体が、優しい月明かりを吸い込み、ようやく全身が呼吸を再開したと理解できた。


「腹、......減ったな」


 一人きりの暗闇で漏らした声は、ひどく掠れていた。

 皮肉なことに、何もかもやめてしまっても、胃袋だけは「学生」のままらしい。コンビニまで、数百メートル。昼間なら文字通り地獄の業火に焼かれる道も、今なら静かな散歩道に変わる。喧騒に引き裂かれた僕の心に、夜だけは寄り添ってくれる。


 両親が目覚めないように、細心の注意を払いながら支度をする。クローゼットの奥から、使い古した黒いパーカーを引っ張り出した。ゆっくりゆっくり部屋の扉を開け、玄関まで急ぐ。廊下は僕の忍足を嘲るように鳴っていた。

 フードを深く被り、鍵を掴んだ。重い扉を開ける。




 冷ややかな夜気が肺の奥まで流れ込んできた。

 昼間の太陽に焼かれたアスファルトの匂いが、今はもう優しく冷えている。

 誰にも会いたくないけれど、誰かが生きている気配がするこの街は、今の僕にとって、少しだけ、悪くなかった。

 

 すべてを放り出してから、僕の時はゆっくり進んでいる。円満な関係のための思考が減ったからなのか。なぜかはわからない。でも、ふとした時に浮かんでくる、学校や家族、自分自身のことについての思い。それらが明確な手触りを得る前に、考えないという判断を下す、その回数だけは比較するまでもないほどに増えていた。


 最近まで登校していたこの道は、夜であっても日常であふれている。暗闇でもはっきり映ってしまう痕跡たちを振り切るように、歩みを早めた。


 公園を越えてすぐにコンビニの光が見える。こんな時間に1人で外出。それも深夜のコンビニに。視界は非日常に染まりつつあった。

 自動ドアまであと3歩。

 刹那、緊張が走った。


「......焼けてるね」


 足が、次の一歩を思い出せなかった。呼吸だけが、遅れて喉の奥が鳴る。......聞き間違えかもしれない。「焼ける」なんて言葉、案外使うもんだろう。そもそも僕に向けた言葉でもないかもしれない。

 その期待を打ち砕くように相手は続けた。


「昼はどうしてるの?学生さんでしょ?」


 僕の呼吸音と、その誰かが吸っているたばこの煙が広がる。


「それ、便利でしょ。人と関わらなくて済む体」


 声の元へ視線を這わせる。


 コンビニの光を避けるように、しゃがんでいて顔は見えない。だが、履き潰したスリッパに左耳を埋めるほどの大量のピアス。足元には大量の空き缶が綺麗に並べられている。あまり頭がまともなことは期待しない方がいいかもしれない。


「なんですか……あなた」


 不意に声に出てしまっていた。視線を強める。


 そいつは顔を上げ立ち上がった。目が合う。彼の表情は、少し哀しみが滲んでいる気がした。






「君は藍されているんだね」


 愛されている?何も知りもしない人間が。この孤独を、欠落を、誰かが肯定してくれるとでもいうのだろうか。脳裏に浮かんだ「愛」という文字を、僕はすぐさま黒く塗りつぶした。

 彼がただの酔っ払いだと早々に結論づける。こういう人に絡まれたとき、やるべきことは……。


 無視。


 視線を自動ドアの方に素早く戻し、フードを深く被り直す。そして一歩踏み出そうとした直前、


「おーい。それは無しじゃんね。仲良くなれるよお、僕たち」


「ちょっ!?」


 不意に肩を組まれる。強烈なムスクの香りが鼻をついた。本当になんだこいつ。身長も僕より高くて、掴まれたら従うしかない。未成年だし、流石に警察沙汰だけは勘弁したい。動揺を押し殺し、眩しい店内の店員を探す。……なんでだよ、いねぇ。無念、僕の自由時間もここまでなのだろうか?心の中でぼやく。


「いつもぉいるイケメンこと、俺は伊吹ぃ。君は?」


 舌が回り切っていない。いつから飲んでるんだこいつは?そして紹介文もめちゃくちゃだ。いつもいるイケメンってなんだ? 客観視をしようともしない姿勢に逆に清々しさを感じる。


「でさ!君の名前は!」


 こんなの何回か無視していたら、すぐに諦めるだろう......。




**




「り!つ! 律ですって。何回言えばわかるんです!」


 こいつ、何度も何度も聞いてきて離さねえから、教えてやってんのに。教え始めたら何回も聞き返しやがる。


「りす?」


「り!つ!」


「いす?」


「り!つ!」


「シースー」


「律!」


「ちょっと! あなたたちうるさいですよ! 人はいないけど、コンビニの敷地内なので! 静かにしてもらえます!?」



 **



 怒られた。

 

 伊吹は地べたに座り込み、僕より肩を落としてる。お前は順当に怒られただけだろ!


「冗談はここまでにして、本題に移ろう」


 切り替えが早そうだとは踏んでいたが、これほどまでとは。伊吹はレジ袋からシートケーキを取り出しながら、少し表情を引き締めた。

 かのように見えたが、カッコよく仕切り直しのセリフを言いたかっただけなのが伝わってくる。


 一緒に怒られた仲だ、酔っ払いのお守りくらい、少しはしてやろう。座っている伊吹の隣に腰を下ろし、星空を見上げた。フォークじゃないのかよ、と愚痴りながら伊吹はケーキを掬い、一口食べる。


「おまえ、日光浴びれないだろ?」


 彼に真実が見透かされてる、そんな気はしていた。でも、改めて言葉にされると、冷たいものが胸をついた。

 言うべきではないのかもしれない。関わるべきではないかもしれない。しかしそれを問う、彼の瞳に朝日のような温かさを感じてしまっていた。それを自覚した後、言葉は迷わなかった。


「正解。気づいたのは昨日から」


 伊吹は頷く。真剣な表情は、僕の不安気な視線に気付いたことによって一瞬で塗り替えられた。真面目さを残し、しかし柔らかな表情で彼は言った


「治したいか?」


 喉が、乾いた音を立てた。


「……治るの?」


「治るっていうかさ」


 伊吹は笑った。


「昼に戻る方法、なら知ってる」


 心臓が強く跳ねた。


「全部諦めたんでしょ?」


 言葉が出なかった。


「明るさに、疲れたんだよね」


 なんで知ってる。


「……なんで」


「見りゃわかるよ。君、藍されてる側だもん」


 意味がわからない。


「でもさ」


 伊吹は空を見上げた。


「治さない選択も、悪くないけどね」


 沈黙が落ちた。


「明日さ」


 コンビニのレシートを丸めて僕に渡す。

 裏に時間と場所が書いてあった。


「白い手袋の人、探してみな。多分、君に必要なの俺じゃない」


「……伊吹は?」


「俺? 俺は、また会えるさ」


 そう言って、立ち上がる。


「うお、流れ星!」


 伊吹が指し示す空を見る。


「これよろしくぅ」


 彼は駆け出す。

 大量の空き缶を、ケーキ一つの対価で片付けろということなのだろう。


「はぁー」


 大きなため息をつく。だがなんだかそんなに悪い気分ではなかった。


「じゃ、律。夜は長いからさ」


 少し離れたところで振り返った、伊吹が手を振っている。


 一口分だけ欠けたショートケーキを食べながら、僕は少し手を振り返した。

 暴力的な甘さと、ひんやりとした生クリーム。それは、昼間の熱に焼かれた僕を、優しく、けれど確実に冷やしていく「夜の味」がした。

初めての投稿なので拙いところもあると思いますが、是非続きもよろしくお願いします。

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