第一話
2月初旬。大手広告会社の企画開発部1課。喧騒に包まれたオフィスの片隅で、社会人歴2年目の一ノ瀬湊は、締切間近の広告を完成させるべくキーボードを叩いていた。
視線の先には、2課の営業担当、佐倉梓がいる。彼女は、まるですべての雑音を遮断する透明な壁の中にいるかのように、一心不乱にディスプレイに向かっていた。
「佐倉さん、いいよね。美人だし、仕事できるし、人あたりもいいし」
隣の席の同僚が椅子を転がしてコーヒーを啜りながら、湊の思考を見透かしたように話しかけてきた。湊は内心の動揺を押し隠し、適当な相槌を打ってやり過ごす。
――佐倉梓が入社してきたのは半年前。今とは違い、うだるような暑さが毎日続いていた頃だった。
「本日からお世話になります。佐倉梓と申します。前職はイベントの運営会社におりました。どうぞよろしくお願いいたします」
丁寧な挨拶を終え、深くお辞儀をする彼女。一瞬、ふわりと舞った艶やかな黒髪に目を奪われた。スラリと着こなされた黒いスーツから覗くスタイルの良さ、キリッと整えられた眉、少し低いが艶のある落ち着いた声。出会って数分で、彼女のすべてが湊にとっての「理想」を射抜いていた。
(どこかで接点ができたらな……)
そう思った直後、彼女の配属先が同じフロアの2課だと発表された。心の中で力強くガッツポーズをしたのは、今でも秘密だ。
しかし、これまで恵まれた女性関係を築いてきたわけではない湊にとって、年上の女性に話しかけるのは至難の業。梓との関係は何の進展もないまま、半年が過ぎようとしていた――。
「でも、まさか月岡さんが異動になるとはねぇ」
ふと同僚がこぼした言葉は、湊にとっても重大なニュースだった。月岡は湊の入社以来の直属の上司であり、教育係として厳しくも温かく指導してくれた恩人だ。
そんな彼の異動話が出たのが三日前。異動先は、梓と同じ2課。しかも、彼女の直属の上司になるという。
「あの人ならどこでも大丈夫でしょ。どこの部署でもトップクラスの数字を出すだろうし」
「まぁ、そっか」
当たり障りのない回答をすると、同僚は面白くなさそうに自席へ戻っていった。
もちろん、月岡との別れは寂しい。だが、本来「省エネ主義」を信条とする湊にとって、誰が上司になるかなんて大きな問題ではなかった。大事なのは、梓と話すきっかけが「今」目の前に転がっている、という事実だけだ。
開いていた編集ソフトをそっと閉じ、業務用のチャットアプリを立ち上げる。今や手足のように使い慣れたツールだが、「佐倉梓」を検索して1対1のトーク画面を開く指は、わずかに震えていた。
既存の履歴は一行もない。そこにあるのは、無限に広がる真っ白なキャンパスだけだ。……しばし長考。
『お疲れ様です。月岡さんの異動の件、もし良ければ情報共有しませんか? 引き継ぎの件もあると思うので、どこかのタイミングでランチでも』
慎重に言葉を選び、下心が透けて見えないよう、それでいて拒絶されないように。脳内にあるすべての回路をフル回転させて紡ぎ出した、最大限の勇気。これで断られたら、潔く諦めよう。
送信を表す紙飛行機のアイコンをクリックした。
一瞬で、無機質な青い吹き出しが表示される。
――もう、後戻りはできない。
ふう、と肺の空気をすべて吐き出し、強張った肩を下ろす。視線をディスプレイから外し、無意識に梓のいる方向へ目を向けた。
その瞬間、心臓が跳ねた。
彼女と目が合ったのだ。距離にして、約8メートル。
金縛りにあったように動けない。彼女の瞳が、真っ直ぐに自分を捉えている。静寂の中で、ドクドクという自らの心音だけが鼓膜に響いた。
時間にして3秒ほどだろうか。永遠にも感じられた沈黙は、梓がふっと視線を落としたことで終わりを告げた。
直後、デスクトップの隅に通知が現れた。
『お疲れ様です。月岡さんの件、私もぜひお聞きしたいと思っていました』
震える指で画面を開く。そこには、さらに一行、言葉が続いていた。
『明日なら少し長めにランチに出られそうです。楽しみにしていますね』
一気に顔が熱くなる。
恐る恐るもう一度彼女の席を盗み見ると、梓はすでに淡々と仕事をこなしていた。
しかし、その横顔が、ほんの少しだけ和らいで見えたのは、湊の願望が見せた幻覚だったのだろうか。
冬の気配が残る、夜のオフィス。
湊は、一度閉じた広告原稿のファイルを再び開き、確かな足取りでマウスを動かし始めた。
(とりあえず明日は、一番いいシャツを卸して、ガチガチにプレスの効いたスラックスで行こう)
省エネ主義の看板は、どうやら今日で返上することになりそうだった。




