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マヒマヒ

作者: 翠野みとこ
掲載日:2025/12/21

 暗く閉ざされた視界の中で、絶え間ない潮騒だけが聞こえくる。激しい波は何度も何度も、自身を浜へと打ち付ける。


 意識の波が収まるまで、青年は目を固く閉じていたが、次第に眉を顰めるようになった。端正な顔に刻まれた皺は徐々に深さを増していく。

 濃い塩を飲み込んだ時のような喉の痛みに耐えながら、青年は「まさか」と呟いた。

 開いた口から潮風が入り込んでくる。そして海藻の酷い臭いと、足の裏に纏わりつく砂の粒子を認識した。

 ……これだけの情報を得れば、答えに辿り着くのは簡単だった。


 青年――朝比奈真昼は意を決して、静かに目を開いた。


 予想していた通りの光景に、どうしようもなく泣きたくなった。


「……最悪だ」


 朝比奈真昼は数年ぶりに【故郷】へと還って来たのだった。



 彼が真に生まれたのはここではない。産声を上げたのは産婦人科であるし、その病院があった町に五歳までは住んでいた。

 けれど朝比奈真昼にとって家と呼べる場所は、ここにおいて他はない。


 この海は、自分の名前の中で唯一持ち合わせない【夜】を持っていた。朝も昼も、太陽も月もこの場所には存在しない。青いビー玉を通し見たような海と、砂浜があるだけの小さな空間。水平線はどこまでも続いているように見えるが、ゲームの背景と同じく見せかけというだけ。ワンシーンにしか登場しない、使い捨ての場所。


 しかし真昼は思うのだ、少しの景色があるだけでも贅沢なのだろうと。


 ここは朝比奈真昼が生まれてしまったが故に出来た、朝比奈真昼のために世界が作った【ゴミ箱】なのだから。何かを捨て置くための場所を彩ってくれるだけ、神様という奴は朝比奈真昼に対して、ある程度の罪悪感を覚えているのかもしれない。


 物思いに耽っていた真昼は、ようやく目線の先に女がいることに気がついた。

 ひざ丈のネイビーブルーのワンピースに、色素の薄い長髪。海風に散らされた白髪は所々もつれて絡まっており、お世辞にも整っているとは言い難い。むしろきちんとセットされていたのに、無理に解いたような印象を受けた。

 暗い海に揺蕩う、海月の如きその女に近づく。彼女は真昼の足音に気がつくと、徐に振り返った。

 女は真昼を見ても顔色一つ変えなかった。真昼も、何一つ違わない、同じ色の顔をした。

 ともすれば波の音に攫われてしまいそうなほど弱々しい声で、女は小さな口を動かした。


「真昼、久しぶりじゃん。元気にしてた?」


 真昼は答えない。


「何年ぶりだっけ。たしか九歳の時だから、十年ぶりだよね」


 真昼は答えない。

 けれど──彼女は話を続ける。


「……あのさ、どうして帰ってきたの? あんた、門を()()()前に言ってたよね、もう会うことはないって」


 ネイビーブルーのフリルが揺れる。そこに染み付いた、昏い赤色と共に。


「まあ……聞くまでもないか。そうだよね、その格好を見れば、あんたがあたしと同じ目に遭って、同じことをしたんだってわかるよ」


 そう言って、彼女──()()()()()は、その手に持っていたサバイバルナイフを砂浜の上に落とした。

 ──そしてほぼ同時に、朝比奈真昼も握り締めていた血だらけの包丁を、地面に落下させた。



 朝比奈真昼、十九歳。西暦◯◯◯◯年十月二十日、◯◯県◯◯市◯◯町に生まれる。その後◯◯保育園に入園し卒業。◯◯小学校に進学──。

 ここまでのプロフィールは一人を指し示すものではない。時を同じくして生まれた、男子の朝比奈真昼と女子の朝比奈真昼の両方に当てはまるものだった。

 彼らは双子ではないし、血の繋がりも一切ない。だから全ては偶然に過ぎない。


 彼らの【同じ】は苗字から始まり、

 生まれた年、日、時間、秒ですら同時、

 生まれた県、市、町、病院も同一で、

 血液型や骨髄すら一致した。


 ひたすらに【同じ】を重ねた赤の他人、それが今、ここにいる朝比奈真昼という存在だった。

 この奇跡とも言える天文学的確率に、世界は耐えられなかった。個人をデータ化し、判別時にはフィルターに頼っていた神は、この二人を区別できなかったのだ。故に世界に深刻なエラーを発生させてしまい、やむなく神は元凶となった二人を【急ごしらえのゴミ箱行き】にした。


「ガバガバすぎて笑える。性別とか真っ先に区別できる項目でしょ、カミサマもアホだよねー」


 血で固まった髪を解こうと苦戦しつつ、真昼がぼやく。

 五歳でゴミ箱に入れられた二人は、そこで貝殻を拾うように情報を集め、成長していった。神とは、世界とは何なのか。一般人であれば発狂しそうな真実がたくさん転がっていたけれど、潰れず耐えられたのは、一人ではなかったからだと真昼は思う。


          *


 九歳になった時、真昼よりも真昼の方が背が高くなった。彼女を見上げるのはどうにも癪だったが、いずれは男の方が高くなるらしい。いつかは自分が彼女を見下ろすようになるのだろうかと、真昼がそんなことを考えていた時だった。


 結論から言うと、その時は来なかった。

 あの日、真昼は真昼を砂浜に呼んだ。彼女は拾ってきた長い木の棒を担ぎながら、無い眼鏡を押し上げるような仕草をした。眼鏡をかけていると賢くなった気分になる――その情報を得た日から、真昼がよくやる癖だった。


「つまりは、二人いるからダメなんだ」


 真昼は得意げに、木の棒で砂浜に二つの丸を書いた。そのどちらにも【まひる】と書いて、矢印を引いて【おなじ】と付け加える。


「このどっちかがあたしで、どっちかが真昼。でもカミサマにとって、あたしたちは区別できない……だから、世界から隠されちゃった」


 顔を落とす真昼を横目に、真昼は大股で一歩を踏み出すと、足で【片方のまひる】を消し去った。砂の中に混じった石がちくちくと足の裏を虐めてくるのも気にせず。

 真昼は呆然と少年の行動を見つめていた。


「……朝比奈真昼は、世界に一人だけでいい。二人もいらない」


 はっきりと口にするのは躊躇われた。けれどきっと、言わなくとも伝わっていただろう。真昼の表情を見れば、察するまでもない。


「うん、そうだね」

「真昼は、元の世界に帰りたい?」

「……わかんない」

「僕も」

「でも、ずっとここにいるのは嫌」

「……うん」


 ここには【夜】しかない。夜がいらないんじゃない、本来なら自分たちが持っていたはずの【朝】と【昼】が欲しい。


「真昼」

「何」

「知ってた? ……門が、あったの」


 真昼が寝ている間、真昼はこの砂浜をただ歩いて過ごしていた。そうする方が、物事をよく考えられる気がしたから。

 ある時、砂浜の端で【門】を見つけた。それは白く眩い光を放っていた。中は見えない。多分、一度くぐったらはここには戻ってこれない、そんな気がした。

 真昼は「知らなかった」といい、二人でその門を見に行くことにした。真昼は感嘆の声を上げて叫んだ。


「これで元の世界に帰れる! そうだよね、真昼?」

「うん」

「……でもさ、きっと帰れるのは、一人だけだよ」

「……うん。あと、くぐったらもう真昼とは会えないと思う」


 確証はない。けれどきっと本当。貝殻のように転がっていた真実が、それを裏付けてくれている。


「だったらさ、駆けっこしよ? それで勝った方が門をくぐるの。これで恨みっこなしね!」


 真昼はただ、静かに頷いた。彼女の提案を、真昼は否定しなかった。

 そうして、二人は夜の砂浜に並び、走り出した。


「よーい、どん!」


 風を切る。彼女との距離が遠くなる。黒い空が揺れる、息が上がる。

 光の門が近づく。手を伸ばす。指先が触れる……。

 ――その時、真昼は振り返った。最後に一度、真昼は振り返ってしまった。

 本当は怖かった。男の自分と女である彼女が駆けっこをしたら、自分が勝つことなんてわかっていたはずなのに。【卑怯者】とか【裏切ったね】だとか、そう罵られることが、理解していても恐ろしかった。

 真昼は立ち止まっていた。手を膝に置いて、肩で呼吸している。

 彼女は顔を上げる。微笑んでいた。息を切らしながら、しかし懸命に叫んでいた。恨みなんて一つも感じられなかった。ただ、真昼に向かって。


「――ばいばい、真昼」


 その言葉に、真昼は突き動かされるように門をくぐった。


 これで、もう二度と、彼女に会うことはない。

 ――その、はずだった。


          *


 砂浜に座り込んだ真昼が、隣に座るよう左手をこまねく。真昼も仕方がなしに腰掛けた。

 サバイバルナイフと包丁は、交差したまま砂に突き刺さっていた。


「ねえ、最近思いついたんだけどさ。マヒマヒってなんか、あたしらのカプ名っぽいよね」

「……」

「あ、カプ名って知らない? 例えばコウタロウとユキだったらコウユキ、みたいに。カップルの二人の名前を縮めて四文字にするの。その法則でいくとさ、真昼と真昼だから、マヒマヒになるくない?」


 マヒマヒはシイラという魚の別名である。大方真昼は、式の前日にスーパーの鮮魚コーナーで見た時にそのことを思いついたのだろう。かくいう真昼も同じなので、きっと予想は当たっている。

 しかし、真昼が例に挙げた名前は聞き捨てならない。真昼はここに来て初めて真昼に話しかけた。反感の意を、そして「僕も同じだ」と訴えるために。


「……その例えは、悪意がある」

「えへ、バレたか。というか、やっぱそこまで同じかーキツイなー!」


 真昼は一呼吸置くと、話を始めた。



「あんたが門をくぐった後、それは消えたよ。

 でもね、すぐに別の門が現れたの。だからあたしはくぐった。そしたらさ――前と同じみたいで、けど違う世界に来辿り着いてた」


 真昼の話では、そこは俗に言うパラレル・ワールドだった。


「あたし、そこでようやく人間になれた気がした。その世界は、あたしをただの朝比奈真昼として見てくれた。中学行って、高校卒業、就職――」


 限りなく【普通】に、敷かれた線の上を歩く平凡な人生。


「……彼氏も出来た。それが、孝太郎だった」


 社会人二年目の時、真昼は会社の同期だったゆきという女性と恋人になった。小柄で可愛い、たんぽぽがよく似合う彼女は、まさに理想的な彼女だった。


「スパダリ、っていうのかな。あたしには勿体ないくらいの人でさ。だからかなー……多分あたし、相当甘えてたと思うんだよね。ワガママもいっぱい言った。本音を言うことが、本当の愛なんだって履き違えて……」


 何一つ文句を言わないゆき。笑顔を絶やさず、真昼を受け入れてくれたゆき……。


「――だから、裏切られても文句は言えなかった」


 そんなささやかな、普通の恋人たちの日々は、突如として終わりを迎える。

 いや、現実から目を背けていただけで予想はできたかもしれない。


「孝太郎は、浮気をしてた」


 ゆきには、自分以外にも彼氏がいた。


「発覚したのは……なんていうか、最悪な日で」


 クリスマス・イブだった。仕事を終えた駅前で、腕を組み歩く男女を見かけたのは。


「こう言われたの。『お前よりゆきの方が好きだから。悪いのは、他の男の影をずっと追ってるお前だ』って」


 ――真昼くんは、私の顔に誰を重ねてるの?

 ――ごめんね、私たちは一緒になるべきじゃないのよ。……行こう、孝太郎くん。

 ……ゆきはそう、言っていた。


「悲しかったなあ。あたしは孝太郎のこと、この世界では一番大事に思ってたのに」


 ゆきは良い女性だった。一生かけて隣を歩けるかもしれない、そう思える人だった。


「……ねえ、真昼。あたし、あたしは……【普通】になっても、違う世界に行ったあんたのことが、忘れられなかった」


 非日常は心を強く惹きつける。どんなに普通に憧れ、恋焦がれていたとしても、変わらない日々を送り続けるより人は――イレギュラーを求めてしまう。


「違う、違う。真昼はもういないの。孝太郎は何か勘違いをしてる。訂正しなきゃ……」


 真昼はゆきを追いかけた。訂正のために彼女に会いたかったはずが、いつしか彼女に裏切られたという殺意だけが取り出され、残された。


「だからあたし、招待されてもない結婚式に行くことにした。わざわざドレスを買って、脅せば絶対に答えてくれるとか、頭のおかしいことを考えて、サバイバルナイフを買った」


 ――包丁を持ち出したのは、決して殺意があったからではない。もう真昼には【普通】の対話がわからなかった。ゆきからの答えを得るためには【大勢の証人がいる前で、答えられなければ死ぬ状況に追い込む】ことこそが正解だと本気で思っていた。


「式場に乗り込んで、孝太郎にナイフを突きつけた」


 ゆきと、包丁越しに向かい合う。


「……そこからのことは、覚えてないの。気がついたらあたしは両手が血まみれで、走っていた」


 刺したのだろうと思う。悲鳴と騒音がこだまする中、気がつけば大通りに出ていた。


「――無我夢中で、道路を飛び出した」


 そして真昼は、トラックに引かれた。


          *


「……僕たちは」


 俯いていた真昼が顔を上げる。


「こんなにも【違う】のに、どうして……」

「どうして世界は、神は自分たちが【二つ存在すること】を認めてくれないのだろう?

 ……そう言いたいんでしょ」


 真昼は真昼が言えなかった続きを、言いたかったことをそのまま言ってみせた。

 真昼はすくっと立ち上がる。


「だったらさ、合わせてみようよ。

 ──それなら、もっと違う世界に行けるかもしれないよ?」


 真昼は真昼の手を引いた。その弾みでナイフと包丁は交差を解き、倒れ込む。


 二人は暗い海に入る。真昼は真昼にされるがまま、冷たい水だけを肌で感じていた。


 真昼の身体が海に沈んでいく。血は洗い流され、縺れていた髪も解れていく。

 真昼は楽しそうにくるくると泳いでいたが、面白くないので彼女をこちら側に引き寄せることにした。海水がシャツに染み込んでいく。


「……ああ、そうだな、真昼。僕もそう思う」


 片方が消えること以外にも方法はある。

 点と点を重ねて、完全に同じになってしまえばいいんだ。

 二人は抱き合った。お互いを貪り食うように。一度骨をばらばらにしてから、組み合わせる。全く新しい形に変えていく、変わっていく。


「……最初から、こうしてれば良かった」

「そうだよ、随分と遠回りしちゃった。そのせいで――好きだった人、殺しちゃったもんね」


 ばき、ばきと音が鳴る。自身の骨が折られているのだと気づいた時には、既に人間としての原型を留めていなかった。不思議と痛みは感じなかった。


「ねぇ真昼。あたしたち、何になろうか?」


 彼女はわかりきったことを聞く。

 おそらくはこれが最後。言い終えた時、言葉を喋る機能を真昼は失う。

 だからちゃんと口を動かして、言い間違えないようにする。


「――マヒマヒに。強く、強く……どこまでも、泳いでいこう」



 次の瞬間、昏い海の水面に、一匹の魚が飛び跳ねた。

 朝日を伴う太陽のようでいて、正午真上にあるそれでもあるように光輝く鱗を見せながら、マヒマヒは夜を泳いで行った。

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