第 7 話 研究って何
山村留学、二日目。
今日から本格的に授業が始まる。
ロッティは真新しい制服の襟を整え、鏡の前に立った。
赤い髪を後ろでまとめてアップにする――気合を入れるときの髪型だ。
「翔、ロッティを学校までお願いねー」
久美の声が台所から響く。
階段を下りると、翔が玄関で待っていた。
視線が一瞬だけ合い、すぐにそらされる。
靴を履きながら、ロッティは静かに息を吸った。
翔は大股で歩き出し、ロッティは小走りで追いかける。
その背中から伝わる緊張が、こちらまで移ってくる気がした。
途中、ロッティはスマホを出し、翻訳アプリ越しに話しかけた。
「What do you research? 」
《何の研究をしていますか?》
「研究? なにそれ」
「Nani sore」がアプリによって
“Naresome” と誤認識された。
――“Naresome”… the psychology of meeting?
《ナレソメ……出会いの心理学のこと?》
翔の耳まで赤くなる。
それきり、二人は黙って坂を上った。
***
クラスの朝会。
八人しかいない小さな教室。
木の匂いの残る床。
ロッティは一番前の席で、ノートの端を折りながら待っていた。
「じゃあ、改めて自己紹介をお願いね。ロッティ」
エリカが優しく英語で促す。
ロッティは立ち上がり、深呼吸した。
「My name is Charlotte Grace Hart. Please call me Lottie.」
エリカが日本語で通訳する。
「シャーロット・グレイス・ハートさんです。ロッティと呼んでほしいそうです」
「I came from Massachusetts. I study quantum mechanics. 」
《マサチューセッツから来ました。量子力学を研究しています》
ざわっ。
「クオンタム?」
「メカニクス?」
「マンガの技?」
追及はそれ以上なかった。
誰も続きを聞こうとしない。
――Why…?
《どうして?》
胸の奥に、かすかな違和感が芽生えた。
***
朝会が終わると同時に、勢いよく机の前に女子生徒が飛び込んできた。
「Hi! You are ロッティ, right!?」
太陽みたいな声。人懐っこい笑顔。
「Yes…」
「I'm Sara! Takemoto Sara! ハジメマシテ」
英語と日本語が混ざっている。
けれど、その熱量が言葉より先に届く。
「ユア ヘア イズ ビューティフル。ライク……ストロベリージャム!」
――Strawberry jam… a compliment?
《ストロベリージャム……褒め言葉でいいのよね?》
「Thank you…?」
沙羅は楽しそうに笑う。
「私、柔道部なんだ! 柔道、好き?」
「……Ju…do? What’s judo? それ、どんな研究ですか?」
沙羅は固まり――
「ケンキュウ? あ、やば、先生来た! またあとで!」
風のように去っていった。
***
国語。
「しばらくは日本語の読み書きからね。みんなは昨日の続き読んでおいてー」
担任の藤原が、ロッティの机に日本語支援の教科書を置く。
「“あ”と“い”はこう書くの」
隣のひかりが指で紙をなぞり、ゆっくり見せてくれる。
ロッティは不慣れな鉛筆で、「あ」「い」「う」と書いていった。
「Thank you… Um…」
ひかりは微笑んで英語で言う。
「My name is Tōsaka Hikari. Hikariでいいよ」
ロッティの瞳がぱっと明るくなった。
「Thank you, Hikari.」
ひかりは照れたように笑い、ふわっと教科書の「え」の字を指でなぞった。
ロッティはその笑顔を見つめながら、胸の奥で小さな確信を抱いた。
――Maybe she will be my first friend in Japan.
《もしかしたら……日本で最初の友達になれるかも》
***
英語の授業。
「今日は、ロッティに英語で話しかけてみよう。簡単でいいからね」
教室がざわつく。
「What's your favorite food?」
「Do you like cats?」
「How old are you?」
次々と質問が飛び、ロッティは真面目に答える。
――So many observers… Is this social entanglement?
《観測者が多すぎる……これが社会的エンタングルメント?》
***
社会科。
「世界は曼荼羅のような構造をしているんだ」
円城寺校長の声に、生徒たちは机に突っ伏す。
ただ一人、ロッティだけが目を輝かせていた。
「This is… entangled structure.」
《これは絡み合った構造だわ》
ひかりが小声で言う。
「そんなに真剣に聞かなくていいよ? 授業と関係ないし」
翻訳アプリを見ながら、ロッティは首をかしげた。
――Relation itself is the law connecting all phenomena.
《“関係”こそ現象をつなぐ法則なのに》
***
数学。
真田教頭が一次方程式を書き、「じゃあシャーロットさん」と指名する。
ロッティは数秒で解いてしまった。
教室がざわめく。
さらに難しい問題――それも即答。
しん…と静まり返る教室。
――A simple system with a single solution.
《単一解の単純な系》
淡い満足感。だがそのすぐあとに、別の感情が浮かんだ。
――But this is too easy.
《簡単すぎる》
――Is this really a top secret project…?
《これ、本当に“極秘プロジェクト”なの?》
ロッティの胸に、静かな疑念が芽生えた。




