第6話 フォトンの降る夜
三時間ほど走り、車はようやく柴田家に到着した。
瓦屋根の二階建て。軒下の風鈴が、夕暮れの空気に澄んだ音を響かせている。
「じゃ、私はこれで。玲子先生が待ってるから」
「ありがとうございました」誠が頭を下げる。
「飲みすぎないでくださいね。明日、学校ですよ」
久美の言葉をエリカは慌てて否定した。
「ち、違うってば! 夕食をご一緒するだけよ!」
顔を真っ赤にしたエリカはスクーターにまたがり、マフラー音とともに去っていった。
そのとき、玄関から「ただいまー」と少年の声。
背の高い男の子が入ってきた。
「おかえり、翔。ほら、新しい留学生の子よ」
翔はロッティを見るなり、わずかに固まる。
「Charlotte, this is my son, Sho.」
《シャーロットさん、息子の翔です》
「Hi…」
小さく手を振ると、翔は「……ども」とだけ言って、逃げるように自室に消えた。
「ごめんなさいね、彼は照れ屋なの」
「テレヤ?」
ロッティは聞き慣れない言葉を、そのまま胸にしまった。
***
その晩の食卓には、ちらし寿司、唐揚げ、煮物、ケーキまで並び、小さな宴会のようだった。
翔が「うわ、すげー」と手を伸ばした瞬間、久美がピシッと止める。
「こら、まだ歓迎の挨拶してないでしょ」
誠がジュースを掲げた。
「Charlotte, welcome to our Shibata family!」
《シャーロット、ようこそ柴田家へ!》
「カンパーイ!」
「イタダキマス!」
ロッティは箸を一本だけ握り、煮物に突き刺そうとする。
「こうやって持つのよ」
久美がそっと手を添え、指の動きを見せる。
ロッティは力点と支点の関係を瞬時に理解し、ぎこちなくも煮物を挟んで口に運んだ。
「Oh! I did it!」
《できた!》
その瞬間、翔が思わず拍手する。
「Sho, thank you!」
「い、いや……」
翔は照れ隠しのように唐揚げへ箸を伸ばした。
「ダイジョーブ。原理わかれば、カンタンです!」
そして突然、英語で早口になる。
「Think of chopsticks as a scanning probe microscope! 」
《箸を走査型プローブ顕微鏡だと考えるの!》
「The tip is the tracer, here is the fulcrum—atomic resolution! 」
《先端がトレーサーで、ここが支点。原子分解能よ!》
……沈黙。
「Did I mess up again?」
《また、やらかした?》
久美は苦笑し、誠は箸を置いて「えっと……すごいね」と言うしかない。
翔は小声で「な、何の話?」と呟いた。
「……とりあえず、食べようか」
誠の言葉を合図に、ようやく空気が和み、笑いが戻った。
ロッティはまだ日本の空気に慣れない。
けれど――この家に漂う温かい笑いは、ケンブリッジでは感じたことのないものだった。
ジュースの泡が静かに弾ける音。
理解されなくても、拒絶はされない。
その事実が、胸の奥をじんわりと温めた。
***
歓迎会が終わり、ロッティは自室に戻った。
机に立てた博士の写真に向かい、そっと呟く。
「Doctor... I finally made it. I can’t wait to see you again.」
《博士……やっと来ました。早くお会いしたい》
障子を少し開けると、満天の星。
光の粒が、静かに降り注いでいた。
「How beautiful... The sky is full of photons showering down. 」
《なんて美しい……空いっぱいにフォトンが降りてくる》
彼女は小さく息を吸い、布団に潜り込む。
――If everything is governed by law, then beauty must have a reason.
《すべてが法則に従うなら、この美しさにも理由があるはず》
その理由を考える前に――まぶたがすとんと落ちた。
光子の降る夜。
ロッティの中で、「論理」と「感情」が、静かに干渉を始めていた。




