第51話 君ならそう言うと思った
朝の川べりの道に、春の光が差し込んでいた。
雪解けの川の匂い。枯れ草の隙間から顔をのぞかせた蕗の薹。
向こう岸の茂みでは、鶯がまだ少しぎこちない声で鳴いている。
ロッティは春の風に髪を揺らしながら、スマホの画面を見つめた。
昨夜の博士の声が、まだ耳の奥に残っている。
――ギフテッド教育プログラムに入れる。
けれど、それ“だけ”が私の未来ではない。
胸に浮かんできたのは、水守で過ごした日々。
仲間と笑い、泣き、挑戦した時間。
そこで得たのは、“特別な教育”ではなく、
自分の世界を切り開く勇気だった。
「わたし……自分の道を選ぶ」
小さな声は春風に溶け、
その瞬間、胸の奥で進学への決意が静かに固まった。
***
道の向こうから、一台の車がゆっくりと上ってきた。
運転席から降り立ったのは、山村慎一郎博士だった。
「博士!」
ロッティが駆け寄る。
博士はその笑顔を見て、目を細めた。
「すっかり日本の春が似合うようになったね、ロッティ」
「博士……! 水守まで来てくださってありがとうございます」
「君の卒業を見届けに来たんだ。
あの日、泣きながら“飛び出していった”少女が、
どう成長したのか見たくてね」
ロッティは胸が少し熱くなる。
それでも、まっすぐ博士の目を見て言った。
「博士、私はもう……ギフテッド教育を必要としていません」
博士の表情が、静かにやわらいだ。
「そうか」
「はい。私は、もう“特別な教育”に頼らなくても、やっていけます」
春風が二人の間を抜けていく。
道端のつくしが、陽に透けて揺れていた。
博士はゆっくりとうなずく。
「それが――ギフテッド教育の最終到達点だよ。
君はもう、“天才少女”を卒業したんだね」
ロッティはふっと微笑んだ。
「ようやく分かりました。
博士があのとき言った『ここで、自分の道を進め!』
という言葉の意味が」
博士は静かにロッティを見つめ返す。
ロッティは胸に手を当てた。
「わたしの“ここ”は……
アメリカでも、博士のそばでもなく、
わたし自身の中にありました。
わたしの“想い”そのものが、わたしの“ここ”だったんです」
博士は嬉しそうに頷いた。
「君は、本当の居場所を見つけたんだね」
ロッティは一歩踏み出し、まっすぐに告げた。
「博士、私……M.I.T. の飛び級入学に挑戦します!」
博士は思わず笑みをこぼした。
「今の君なら、そう言うと思った。
――君ならできる」
ロッティは強く頷いた。
冷たい風が頬を撫で、山並みに薄桃色の霞がかかっていた。
***
卒業式の朝。
講堂には、村中の人が集まっていた。
円城寺校長の声は、少し震えていた。
「……水守中学校、最後の卒業生の皆さん。卒業おめでとうございます」
拍手の波が広がり、
あちこちで涙を拭う姿が見える。
翔も、ひかりも、沙羅も、美央も――みんな泣いていた。
ロッティの目にも、静かに涙がにじむ。
花道の向こう、来賓席には――
アメリカから来日した父マイケルと母エリザベスの姿。
マイケルは大きなハンカチで何度も目頭を押さえていた。
エリザベスは娘にそっと微笑みを向ける。
「She's grown up, Michael.」
《ロッティは成長したわ、マイケル》
「Yeah... She really has. She's no longer 'little Lottie'.」
《ああ、本当に。もう“ロッティちゃん”じゃないんだな》
***
卒業式のあと、クラスは最後のホームルームを迎えた。
窓から射し込む春の光が、教室を淡く照らす。
久美先生が前に立ち、深く息を吸った。
「逃げてもいい。倒れてもいい。
でも、あなたたちは何度でも立ち上がれる。
大事なのは――そこから先です」
教室のあちこちから、すすり泣きが聞こえる。
「どうか皆さん、自分自身の力で世界を切り拓いていってください!」
ロッティは静かに頭を下げた。
――ありがとう、先生。
心の中で、英語でもう一度つぶやく。
「Thank you... for teaching me the strength to open the world.」
《世界を切り拓く力を教えてくれて、ありがとうございます》
窓の外では、校庭の桜の蕾が、
今にもほころびそうに揺れていた。
――季節はめぐる。
けれど、この日の光だけは、
きっと永遠に心に残るだろう。




