第49話 これがわたしたちの柔道
体育館の空気は、むわりと肌にまとわりついた。
畳のにおいと汗の匂いが混ざり、喉の奥にかすかな苦味を残す。
天井のファンは回っているのに、空気は重いまま動かない。
それでも歓声と応援が重なるたび、場の空気が震えて見えた。
地区大会当日――天気予報は「この夏いちばんの暑さ」と言っていた。
「ついに始まったね」
沙羅の声が少しだけ上ずっていた。
ロッティは頷く。膝の上で握りしめた拳は、汗でしっとり濡れている。
去年のあの日も、この場所で戦った。
負けた痛みより――つなげられなかった悔しさ。
その棘は今も胸の奥でくすぶっている。
――今年は、途切れさせない。
開会式。
整列した翔が観客席を振り返る。
その視線の先で、ひかりが小さく頷く。
たったそれだけなのに、ふたりの間にだけ通じる合図のようで、ロッティの胸がちくりと痛んだ。
***
会場は人で埋まり、畳の上では全力のぶつかり合いが続く。
水守中は順調に勝ち進んでいた。
「一本! それまで!」
翔の背負い投げがきれいに決まる。
「ひゃ~……ほんとに決勝戦まで来ちゃったよ!」
沙羅が半分驚き、半分嬉しそうに声を上げた。
「当然だ。俺も翔も、涼子も負けなしなんだしな」
魁人の声はいつもより頼もしい。
「いよいよ決勝戦。みんな、悔いのないように戦って!」
久美先生の声に、部員全員が畳へ飛び出した。
***
決勝の相手は、強豪・桜華学園。
一戦目。
涼子は相手をまったく寄せつけず、序盤から鋭い攻めを続けた。
呼吸を乱さぬまま、崩し→投げが自然につながる。
「一本!」
畳を跳ね返る音とともに、会場がざわめく。
戻ってきた涼子の顔は、誇らしさに満ちていた。
スコアは 2-0。
二戦目。
悠は体格差に押されながらも一歩も下がらない。
苦しい場面でも、勇気を振りしぼって組み手を取り直す。
観客席から「悠、いけーっ!」と声が飛ぶ。
最後まで攻め続けたが、結果は引き分け。
試合後、悠の肩が小さく震えていた。
――悠も、止まらずに攻めたんだ……。
スコアは 3-1。
三戦目。
沙羅は相手の圧に押し込まれ、寝技の猛攻にさらされる。
必死に体をひねり、腕を逃がし続けたが――
四方固めの形を崩せず、そのまま一本負け。
スコア 3-3。追いつかれる。
畳の上で涙をぬぐう沙羅に、魁人が静かに立ち上がった。
「あんなの柔道じゃねえ。力だけで潰しやがって」
その背中には、仲間を思う怒りがゆらめいていた。
四戦目。
桜華学園は、魁人対策に“去年の個人戦優勝者”を当ててきた。
魁人は攻めた。
しかし相手は癖を完全に読んでいる。
組み負けた一瞬の隙を突かれ、苦手な寝技に引きずり込まれた。
残り数秒で有効を奪われ、優勢負け。
歓声が遠のき、控え席の空気が一段重くなる。
スコアは 3-5。
そして五戦目――ロッティの出番。
畳を踏んだ瞬間、ざらりとした感触が足裏を刺す。
その感触だけが、ぐらつく心をかろうじて現実につなぎとめてくれる。
――最悪、引き分けでも……翔が勝てば代表戦に持ち込める……
一瞬だけ、そんな逃げの考えがよぎった。
ロッティは首を横に振った。
――普段どおり。体が覚えているままに。最後まで、やり切る。
「始め!」
審判の声と同時に、相手が間合いを潰すように飛び込んでくる。
激しい組み手争いとなる。
それでもロッティは一歩も退かない。
自然と腰が入り、相手の袖を捕らえる。
――今。
腰を切り返し、流れに身をまかせる。
「せいっ!」
自分でも驚くほど滑らかな動きだった。
相手の体が宙を弧描き、畳に叩きつけられる。
「一本!」
体育館が、一瞬だけ静止する。
次の瞬間、爆発のような歓声が押し寄せた。
沙羅が泣きながら拍手している。
久美先生が、深く頷いた。
――やり切った。
胸の奥の何かが、すうっとほどけていく。
スコアは 5-5。
***
最終戦。
試合が始まると、会場の空気がいっそう張りつめる。
相手に組ませてもらえず、翔は次第に疲労をにじませていく。
肩が上下し、呼吸が荒い。それでも目だけは前を見ている。
「翔、無理すんな! 優勢でいい!」
魁人の声が飛ぶ。
だが、翔は止まらない。
無理にでも攻め続ける。しかし動きに焦りが見える。
「翔……がんばれ!」
ロッティは叫ぶ。
けれど、そこにいるのは“いつもの翔”ではなかった。
両者は、組んでは崩れ、組んでは崩れる。
結局、引き分けでスコアは、6-6。
代表戦へ突入。
翔は控え席に戻り、肩で大きく息をしていた。
観客席から降りてきたひかりが、そっとタオルを差し出す。
「翔! 最後まで見届けるからね!」
「おう……見とけよ。ひかりの分も戦う」
大きく息を吸うと、畳の上に飛び出した。
***
再び畳に戻った翔から、力みがすっと抜けていた。
動きがしなやかに、柔らかく変わっていく。
――戻ってる。“受けて返す”翔の柔道に。
相手が仕掛けた瞬間、翔の体がくるりと回転する。
流れに乗せて重心を崩し――
「一本!」
会場がどよめき、歓声と拍手が渦になる。
ロッティは思わず口元を手で押さえた。
膝をついた翔の背中を、夏の光が照らしていた。
「優勝……してしまった」
沙羅が涙混じりに笑う。
魁人が不器用に翔の肩を叩く。
悠が泣き笑いしている。
ひかりも、久美先生も、みんな笑って泣いていた。
体育館の窓から射し込む陽光が、畳の上で揺れる。
ロッティはその光の中で、そっと目を閉じた。
――最後まで、やり切れた。
その実感が、胸いっぱいに満ちた。
「これが、わたしたちの柔道」
声にならない呟きは、夏の空気の中に静かに溶けていった。




