第46話 早くみんなに追いつきたい
春の陽ざしが柔道場の窓ガラスに反射していた。
畳の匂い。
洗い立ての道着。
そのすべてが、ロッティの胸を少し高鳴らせる。
ロッティは三年生になった。
柔道部も新しい年度を迎え、そして今日――新入部員が入ってくる。
「一年、田村涼子です! よろしくお願いします!」
明るくよく通る声が柔道場に響く。
小柄なのに芯の強さが伝わる目つき。立ち姿だけで、ただ者ではないとわかる。
魁人がひそひそと耳打ちした。
「涼子って、去年の小学生の県大会で入賞してた子だぞ」
「男子より強いです。僕、いつも負けてました……」
悠が気まずそうに言う。
ロッティは思わず息を呑んだ。
――そんな強い子が入って来たんだ……。
翔が前に出て、穏やかな声で告げる。
「今日からうちの仲間だ。男女三人ずつ、これでチームが揃ったな」
男子は翔・魁人・悠。女子は沙羅・ロッティ・涼子。
自然と笑みが広がる。
――これで、試合に出られる……!
胸がぽっと熱くなった。
***
大会に向け、練習が本格化する。
「はい、そこ! 引き手をしっかり!」
久美先生の声が飛ぶ。
柔道場の空気はいつもより熱気を帯びていた。
ロッティは涼子と組んで打ち込みをしていた。
「いきます!」
「う、うん!」
次の瞬間――視界から涼子の姿が消えた。
足がふわりと浮き、視界がぐるりと回転する。
どん、と背中が畳に落ちた。
「先輩、大丈夫ですか!?」
涼子が駆け寄る。
「へ、平気……! いい投げだったよ」
笑ってみせたものの、胸の奥には苦いものが広がっていた。
――先輩らしくカッコよく決めたかったのに。
本気でやっても、ぜんぜん敵わない……。
だが、涼子の目はまっすぐだった。
技への迷いがなく、純粋に一生懸命なのが伝わる。
「すごいね、涼子」
「ありがとうございます! でもロッティ先輩の受け身、すごくきれいです!」
「えっ……まあ、受け身だけは、いっぱいやらされたから……」
――褒められてる?
ささくれた気持ちが、ほんの少し和らいだ。
「はい、休憩ー! しっかり水分取って!」
久美先生の声が響く。
沙羅がタオル片手に近づいてきた。
「涼子ちゃん、やっぱ強いね」
「うん……さすが県大会入賞……」
「マジで強い。あたし、あんなに投げられたら泣く自信ある」
沙羅が茶化し、ロッティも思わず笑ってしまう。
「でもさ、ロッティだってすごいよ?
この一年でめちゃ上達したし。もう正直、あたしより強いよ」
「えっ、そんなこと……!」
「ほんとほんと。でも、身長差ついちゃったけどね」
沙羅は自分の手を水平に動かして示す。
ロッティはこの一年でぐんと背が伸びた。
「でも、胸はまだ負けてないけど」
そう言ってロッティの胸をツンツン。
「ひゃっ!」
ロッティの声に翔と魁人たちが「何ごと?」と振り向く。
ロッティは慌てて口を押さえ、真っ赤になった。
沙羅の笑い声が、春の風に乗ってやわらかく響いた。
***
練習後。
ロッティは畳の上にへたり込む。
「おい、大丈夫か? 最近、飛ばしすぎだぞ」
翔が顔を覗き込む。
「ううん、平気だよ。大丈夫」
慌てて立ち上がり、笑顔を作る。
「無理して怪我したら意味ないからな」
その真っ直ぐな気遣いが、なぜか胸の奥に染みる。
「うん、気をつける」
翔が「ちゃんと休めよ」と言って背を向けると、
ロッティは思わず声をかけた。
「あの、その……この腕の角度、これで合ってる?」
「え、どこ?」
「ここ。投げるときの――」
翔は軽く笑い、ロッティの腕をとる。
「こうだよ。ほら」
背後からそっと腕を導かれた瞬間、心臓がどくんと跳ねた。
――ちょ、ちょっと近すぎ……。
汗の匂い。近い息づかい。
翔の声が、耳のすぐそばで低く響く。
「そう、それ。力が入りやすい」
「……うん」
翔の手が離れたあとも、指先の感触がしばらく残った。
「じゃ、後は反復だな」
そう言って道場から歩いていく。
ロッティは、その背中を目で追い続けていた。
***
夜、柴田家。
焼き魚と味噌汁、久美先生特製のだし巻き卵が食卓に並ぶ。
ロッティと翔が揃って箸を取っていた。
「涼子ちゃん、どう? あの子、強いでしょ」
久美先生が笑いながら聞く。
「はい。すごく強いです」
ロッティは素直に答えた。
「あなたも随分柔道らしくなってきたわ。
最初は投げられるたびに目を白黒させてたのにね」
「そ、そんな……!」
「いや、あれは本当に白黒してたぞ」
翔がからかう。
「もう、翔まで……!」
ロッティは口を尖らせたが、すぐ笑ってしまう。
久美先生はうれしそうに頷いた。
「そうやって笑えるのが大事なのよ。柔道は心の稽古でもあるからね」
ロッティは箸を持ちながら小さく頷く。
翔が湯呑を置いて言った。
「明日も朝練な。寝坊すんなよ」
「うん!」
最近、翔は道場だけでなく家でも自然に話しかけてくれるようになった。
それがロッティにはうれしかった。
窓の外で、春の夜風が木を揺らす。
揺れる影を見ながら、ロッティは胸にそっと手を置いた。
――もっと強くなりたい。早く、みんなに追いつきたい。
新しい一年が、静かに幕を開けた。




