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第43話 逃げ出してはいけない

夕暮れの空が紫紺に染まり、山の稜線に残る雪の白さが際立っていた。


「わたしも……あの山からの海、見てみたい」


ロッティが小さくつぶやくと、ひかりは振り返り、少し笑った。


「春になったら一緒に登ろうか。今はまだ、雪が残ってるから」


「うん、楽しみ」


「ねえ、ロッティの町からは、海は見えるの?」


ロッティは少し考えてから答えた。


「海は……ボストンまで行けば見えるかな」


「どこの海?」


「大西洋。その向こうはヨーロッパ」


ひかりは窓のそばに身を寄せ、外を眺めた。


「ボストンから海を渡ってヨーロッパか……行ってみたいな」


その息が、窓ガラスを白く曇らせた。


 


***




ひかりはひと呼吸置いて、また口を開いた。


「昔はね、となり町へ行くには、水神岳みなかみだけの峠を越えなきゃならなかったの」


「大変だったんだね」


「うん。でもそのぶん、山を越えて来る人が多くて、この村にも人がいっぱい来てくれた。うちのお店も、すごく流行ってたんだよ」


ひかりはふうっと息を吐き、それから続けた。


「でも、青蘭市との間に橋ができて便利になったら……旅館には誰も来なくなった。

なのに、お父さんもお母さんも『守らなきゃ』って言う」


ロッティは黙って聞いていた。


「……あ〜あ。こんな狭い世界から飛び出したい」


その言葉に、ロッティは静かに息を吸った。


「わたしは、飛び出したよ」


ひかりが顔を上げた。


「家出のこと?」


「うん」


ロッティは少し照れたように肩をすくめた。


「日本に来るとき、怖くなかった?」


「アメリカにいるのが嫌だった。だから……怖いって思う前に動いたの」


「嫌だった?」


「ずっと先生だった山村博士がいなくなって、

 『ここにはもう私の居場所はない』って……そう思った」


「だから家出したんだ」


ロッティは小さく笑った。

ひかりも、つられてふっと笑う。


「……私も飛び出したい」


「でもね、ひかり」


ロッティは、ひかりの目を見つめながら言った。


「飛び出してもいいけど、逃げ出してはいけないと思う」


ひかりは息をのんだ。


「飛び出すのは、何かに縛られないため。

 逃げ出すのは、自分から目をそらすこと」


その言葉にひかりは、ゆっくり頷いた。


ひかりの目が、うるんだ。


ロッティの胸も、ぎゅうっと熱くなる。


「ひかり……」


しばらく黙っていたひかりが、ぽつりとつぶやいた。


「……わたしも家出しようかな」


「えっ!?」


「広い世界に行きたい。誰にも縛られない場所へ」


「だ、だめだよ! そんな――」


「冗談だってば」


ひかりは涙を袖で拭い、笑った。

その笑顔は、ほんの少しだけ軽くなっていた。


しかし――

ロッティはまだ、この言葉の“本当の意味”を理解していなかった。


 


***




次の日。

朝の教室は、どこかざわついていた。


ストーブの温まりきらない空気の中、誰かが言った。


「……ひかり、今日まだ来てなくない?」


ロッティは思わず顔を上げた。

ひかりの席は空っぽのまま。

カバンも置かれていない。


昨日のひかりの笑顔が、胸の奥でかすかに揺れた。


――冗談じゃなかった?


不安がじわりと広がる。


二時間目の英語。

エリカ先生が “If I were you” と書いたところで、真田教頭が慌てた様子で入って来た。


「エリカ先生、至急……」


「え? 今授業中――」


「早く」


「わ、わかりました。みんな、自習しててね……」


ただならぬ雰囲気だった。

教室は一瞬で静まり返る。

先生が出ていくと同時に、陽太がそわそわし始めた。


「なんかあったのかな……」


そして、我慢できずに席を立った。


「ちょっと職員室、覗いてくる!」


「やめなさいよ、自習中よ!」と美央が言いながらも、顔は不安で強ばっていた。


ざわつくクラス。

ロッティの胸も落ち着かなかった。


数分後、陽太が息を切らして戻ってきた。


「ひ、ひかりが……!」


「え?」


「行方不明だって! 朝、家を出たきり連絡がつかないんだ!!」


教室がどよめいた。

美央は「うそ……」と青ざめ、真琴が「家出……?」とつぶやいた。


ロッティの手からペンが転がり落ちる。


――まさか、本当に……。


気づけば、椅子を蹴って立ち上がっていた。


クラスメートの声も聞こえない。


ロッティは、そのまま教室を飛び出した。

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