第42話 どこでも行けるって信じていた
朝の“たかとお”は、まだ静かだった。
雪解け水の流れる音がかすかに聞こえ、玄関の灯りがぽうっと温かく光っている。
ロッティは予定より少し早く着いてしまい、
入り口脇で手袋を外していた――そのとき。
「もういや! こんな店、継ぎたくない!」
ひかりの叫び声が、中から響いた。
息が止まる。
玄関の戸が少し開いていて、中の様子が見えた。
ひかりが、泣きそうな顔で立っていた。
父の大介さんが必死に言い返し、母の真理子さんがその間に割って入っている。
「ひかり、お前がやらなきゃ誰がやるんだ!
お母さんもずっと頑張ってきたんだぞ!」
「だからって、私が同じことをしなきゃいけないの?!」
その声は震えていた。
ロッティは思わず足をすくませる。
その瞬間――ひかりの視線がちらりと戸口を向いた。
ロッティは反射的に目をそらし、柱の陰に身を引いた。
次の瞬間、ひかりは涙をこらえたまま玄関を飛び出していった。
雪の舞う朝の道に、彼女の足跡がくっきりと残っていく。
店の中に入ると、空気は重かった。
真理子さんは俯き、大介さんは深いため息を落とす。
「ロッティちゃん、聞こえたか」
ひかりの祖父・貞蔵さんが、喫茶コーナーから暖簾をそっと割って顔を出した。
「……はい。すみません」
「家の恥を聞かせてしまったな」
貞蔵さんは穏やかに笑った。
「いえ、そんな……」
「いいさ。いずれ分かることだ」
その瞳の奥には、かすかな諦めの色が揺れていた。
「この村はな、若いもんがどんどん出ていく。
もう、誰も戻っちゃ来ない。
ここも、わしらの代で終わってしまうかもしれん」
ロッティは黙って聞いていた。
胸の奥に、驚きとも寂しさとも呼べない感情が広がっていく。
「だから、ひかりを縛りたくはないんだ。
だが、大介たちにしてみれば……残ってほしいと思うのも、本音じゃ」
家族が大切なものを守ろうとしながら、すれ違ってしまう。
その痛みが、じわりとロッティに伝わった。
アメリカで、母と衝突した自分の姿がふと重なる。
――ひかりも、あのときの私みたいに苦しんでいるの?
胸の奥がきゅっと締めつけられた。
――わたしに、できることはあるんだろうか。
***
その日の放課後。
柔道部の道場。
いつもより早く暗くなった窓の外で、風が吹き抜けていた。
「はい、もう一本!」
乱取りの最中、ロッティは相手に崩され、背中から倒れた。
立ち上がる気力が抜けて、天井をぼんやり見つめる。
畳の冷たさが背中に広がる。
――ひかり……
あの叫び声と泣き顔が、何度も思い出される。
「ロッティ」
久美先生がそっと近づいた。
「どうした? 集中してないな」
声は優しいが、言葉は真っ直ぐだった。
ロッティの動きは鈍く、足は思うように前に出ない。
「ちょっと休もうか?」
「……すみません」
道場の隅でしゃがみ込み、乱取りを続ける翔たちを眺めるだけになる。
柔道にも、ひかりのことにも、どちらにも向き合えていない気がして――とても情けなかった。
――悩んでるだけじゃ、前に進めない。
深く息を吸い、ロッティは立ち上がった。
「お願いします!」
声に力を込めて、久美先生に向かっていった。
***
部活帰り。
夕日が山の向こうに沈みかけていた。
ロッティは一人で“たかとお”へ向かう。
扉を開けると、真理子さんがひとりで店番をしていた。
手にしたコーヒーカップから湯気が揺れる。
「ひかり、二階にいるよ」
小さくそう言われ、ロッティは階段を上がった。
「……来ると思った」
部屋に入ると、ひかりが窓のそばで座っていた。
顔は上げず、でも声はロッティに向けられていた。
「ごめん、勝手に……」
「いいよ。どうせ、誰かと話したかったから」
沈黙が落ちる。
ロッティは、どんな言葉から話すべきか迷っていた。
ひかりは、窓の外の山並みを静かに見つめていた。
「私ね」
ぽつりと、ひかりが口を開く。
「小さいころ、家族で水神岳に登ったことがあるの」
「水神岳?」
「うん。ほら、見えるでしょ。村で一番高い山」
ロッティは、ひかりの指さす方向を見た。
連なる山の中で、てっぺんが尖った山が見える。
山頂にはうっすらと雪がかかっていた。
「あの頂上からね、村が全部見えるの。
山の向こうには青蘭市があって、遠くに海も見えた」
「……海?」
「うん。あのとき思ったんだ。
“世界って、こんなに広いんだ”って。
どこにでも行けるって、本気で信じてた」
ひかりの声には、懐かしさと、少しの悔しさが混ざっていた。




