第39話 それぞれの道が広がる
夏が過ぎ、山の風は少し冷たくなった。
木造校舎の廊下には、ひぐらしの声がしっとりと染み込んでいる。
文化祭が終わり――ロッティにとって、新しい挑戦の季節がはじまろうとしていた。
「……というわけで、わたし、正式に柔道部に行くね」
放課後の調理実習室。
机の上には焼き菓子の粉が散らばり、エプロン姿のひかりが手を止めた。
「決めたの?」
「この前の大会でさ……なんか、もっと強くなりたいって思ったの」
「そうなんだ……」
ひかりの返事は短い。
笑ってはいるけれど、その奥に影が落ちたような気がした。
その表情が胸にちくりと刺さる。
「ひかりも、一緒にやらない? 柔道。翔も沙羅もいるし」
ひかりは首を横に振った。
「私? いや……無理だよ」
「なんで?」
「生活部の次の部長、私に決まってるんだ」
「え、もう?」
「うん。先生に頼まれたの。責任、放り出せないし」
その言葉に、ロッティは返す言葉を失った。
柔道部へ向かう自分。生活部を任されるひかり。
――道が、分かれた。
「そっか。ひかり、かっこいいね」
「かっこいい? 部長が?」
「うん。リーダーって感じ。……わたしも負けてられないなって」
ひかりが少し笑う。
「ロッティ、もう十分頑張ってるじゃん」
ロッティは照れくさく首をかしげた。
「でも、困ったな……」
「何が?」
「ひかりがいないと、選手が足りないし……」
「来年の新入生に期待だね」
「よし。来年は絶対、新入生を柔道部に入れてみせる!」
「おお、宣言したね」
「でも、ダメだったらお願いね!」
「う〜ん、どうしよっかな〜」
「そんな〜、いじわる言わないでよ」
ロッティがひかりの手にすがると、ひかりはくすっと笑いながらポンポンとロッティの頭を叩いた。
***
ロッティは柔道部へ戻った。
畳の匂い、響く掛け声、受け身の音――
すべてが新鮮で、懐かしい。
「ロッティ、構え!」
「はいっ!」
組んだ瞬間、翔の腰が沈む。ロッティの足が浮き、
どすん――と畳へ落ちる。
「痛っ……!」
「受け身、遅い!」
「ちょっと、早すぎる!」
「ほら、もう一回!」
翔に腕を掴まれ、ロッティは立ち上がった。
翔の声は厳しい。でも、優しさがちゃんと混ざっている。
怒られているのではなく、見てくれている――
それを感じるたびに、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
「よし、ちょっと休憩!」
翔の声に、沙羅がその場にへなへなと座り込む。
「ロッティ、もう無理。エネルギー切れ!」
「え、もう?」
「ね、ひかりのところ行こうよ。涼しいし、甘い匂いするし」
「練習中だよ?」
「だーいじょーぶ。久美先生も出て行ったし」
「すぐ帰ってくるってば」
「いいから〜!」
沙羅に引っ張られ、ロッティは苦笑しながら柔道場をあとにした。
***
調理実習室の扉を開けると、甘いバターの香りがふわっと広がった。
「わ、いい匂い……」
「おじゃましまーす!」
沙羅が元気よく叫ぶ。
「ちょ、沙羅!? 練習は?」
ひかりが振り返る。
髪はきれいにまとめられ、頬には小麦粉。
柔道場とはまるで別の世界に立つ、ひかりの姿がそこにあった。
「休憩中〜。ひかり部長、ちゃんとやってるね〜」
「当たり前でしょ!」
「あ、シフォンケーキ焼いてる! 食べていい?」
「ダメ。“働かざるもの食うべからず”」
「え〜〜」
「サボってる人には食べさせません」
ひかりは言いながら、小さく笑った。
そこへ一年生が相談に来る。
「あの~、生地ってこんな感じでいいですか?」
「うん、いいと思う。あとは型に入れて焼いてね」
「ありがとうございます!」
一年生の背中にさらに声を掛ける。
「焼く前に空気抜くんだよ。忘れないで」
「は~い!」
一年生が振り返り、元気に頭を下げた。
ロッティは感心したように呟いた。
「すごい、ひかり。なんか……ちゃんと部長してる」
「“なんか”って何」
「いや、ほら、翔みたいに部員まとめてるし」
「……それ、褒めてる?」
「もちろん!」
「そっか、ありがとう」
ちょうどそのとき、オーブンのタイマーが鳴った。
ひかりが取り出したシフォンケーキから、湯気がふわりと立ちのぼる。
「わ、絶対おいしいやつ!」
沙羅が手を伸ばして「アチッ」と引っ込める。
「もう、熱いに決まってるでしょ」
今度は、ひかりが切り分けたケーキを慎重につまみ、フーフーと息を吹きかけて冷ます。
「食べたら練習戻るんだよ」
「は~い」
三人の笑い声が、部屋いっぱいに広がった。
***
沙羅が調理実習室の時計を見て、慌てた。
「ヤバ! もうこんな時間!」
「急いで帰らなきゃ! じゃあね、ひかり!」
ふたりは慌ただしく調理実習室を飛び出す。
走りながら、沙羅が言った。
「ひかり、頑張ってたね」
「うん。なんか、責任ある顔してた」
ロッティは胸の奥に、ひかりの横顔を思い浮かべた。
――ひかりは、ちゃんと“ここ”で立っている。
わたしも、柔道部という“場所”で、立てるだろうか。
不安はある。でも、進もうと決めた。
ふたりの前には、それぞれの道が広がっている。
並んで歩けない日があっても、同じ空の下で――。




