第37話 心の重心はどこにある
翌日の部活、調理実習室。
ロッティは机に肘をつき、ぽつりとつぶやいた。
「……ねえ、ひかり。もし、あなたならどうする?」
向かいで切り紙をしていたひかりが、はさみを止めて首をかしげた。
「どうするって?」
「博士のプロジェクトに参加するか、それとも――ここに残るか」
ひかりは少し眉を寄せた。
「うーん……難しいね。ロッティは翔のこと、気にしてるんでしょ?」
「……うん。わたしのせいで、翔が団体戦に出られなかったから」
「じゃあ、また混合戦に出たいの?」
「わからない……」
ロッティの声は小さく、風に吸い込まれるように消えていく。
ひかりははさみを置き、ロッティの正面に向き直った。
「でもさ。もしロッティが“翔のため”に残ったら、翔は喜ばないよ」
ロッティはぱちりとまばたきをした。
「え……?」
「“自分のせいで残った”なんて知ったら、逆に怒るよ、あいつ」
声の奥には、ひかりらしい芯の強さがあった。
ロッティは視線を落とした。
ひかりの言葉が心の中に沈んでいく。
「……もう、わたし、自分がどうしたいのか分からない」
ひかりは少し考え込むように間を置き、それから静かに言った。
「うん。まだ分からなくていいと思うよ。焦らなくて。
でもさ、“翔のため”とか“博士のため”って理由だけで選んでも……きっと、だれも幸せになれないんじゃないかな」
その言葉が、ロッティの胸の奥にすっと落ちていった。
博士の顔、翔の顔、部活のみんなの顔が、次々と浮かんでは消えていく。
***
校舎裏を抜けると、道場から大きな声が聞こえてきた。
「やあっ!」
「もう一回!」
ロッティはそっと道場に入り、ドアのそばで静かに正座して練習を見守った。
畳の上では、翔と魁人が激しく組み合っている。
汗が飛び、足さばきは鋭い。
久美先生の声が響く。
「魁人、腰が高い! 翔、そのまま引きつけて!」
どすん、と鈍い音。魁人が転がる。
翔は息を切らしながらもすぐに手を差し出し、魁人がそれを笑ってつかむ。
その光景を見て、ロッティは胸がぎゅっと締め付けられた。
――わたしだけ、止まっている。
みんなは、もう前へ進んでいるのに。
「……また、やりたくなったの?」
久美先生が気づき、ロッティへ声をかけた。
ロッティは慌てて立ち上がる。
「い、いえ……その、少しだけ懐かしくなって……」
久美先生はくすっと笑った。
「まだ一ヶ月も経ってないのに、“懐かしい”なんて言うんだ?」
ロッティは頬をかいた。
「それで、どう? 力の流れは分かった?」
久美先生の問いに、ロッティは少し考えて答えた。
「……バランス。重心をどう動かすか、だと思います」
「そう。でも、それが分かっていても勝てないのが柔道よ」
久美先生は遠くを見るように、少し視線をそらした。
「でも、心の流れは分からない」
ロッティが小さく呟くと、久美先生はロッティの目をじっと見つめた。
「プロジェクトのことで、悩んでるんでしょ?」
「……はい」
「どうしたいの?」
「……自分でも、分からないんです」
「そう。自分でも分からないか」
ロッティは小さくうなずいた。
久美先生は優しく微笑んだ。
「だったら、“心の重心”がどこにあるのか考えてごらん」
「心の重心……?」
「ええ。相手への気持ち、仲間への気持ち、自分への気持ち――
どれが一番重くて、どこに置いているのか。
それを間違えるとね、どんなに強くても簡単に崩れてしまうの」
「……崩れる、か……」
「柔道と同じ。どっちへ傾いているか分かれば、次に動く方向が見えてくるわ」
ロッティはその言葉を、胸の中でそっと繰り返した。
***
夕食後。
部屋の灯りを落とし、布団に包まる。
外では、虫の声がかすかに揺れている。
――心の重心。
久美先生の言葉が、静かに頭の中をめぐった。
目を閉じると、あの日の記憶が鮮やかによみがえる。
会場の熱気、ひかりたちの声、久美先生の叱咤――そして。
「守らずに攻めた。……それでいいよ」
試合のあと、翔が言ってくれた言葉。
――あの時……
相手の引き手がふっと緩んだ。
身体が勝手に前へ出た。
視界が回る。
畳に背中が叩きつけられる音。
「一本!」という声。
魁人の言葉も思い出す。
『他の技も、教えとけばよかったな』
胸がちくりと痛む。
「もし、他の技も知っていたら……
相手の返し技を、あんなふうに受けなかったかもしれない。
もっと、最後まで戦えたのかもしれない……」
――わたし、まだ終わってない。
――もう一度……みんなと戦いたい。
ロッティが本当に望んでいるものが、少しずつ輪郭を持ちはじめる。
心の重心が、ゆっくりと定まっていく。
布団の中で、ロッティはぎゅっと拳を握った。
胸の奥に、小さな熱が灯る。
――もっと強くなって、もう一度あの畳に立ちたい。
みんなで、もう一度――戦いたい。
その瞬間、胸のもやがすっと晴れた気がした。
ロッティは小さく息を吐き、決意を胸に刻んだ。
「……わたし、やっぱり、もう一度やりたい」
ロッティの瞳には、静かで確かな光が宿っていた。




