表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/52

第32話 負けるのが前提

道場の空気が、いつもより少しピリッとしていた。

梅雨明け前の蒸し暑さが、畳の下にまでじわりと染み込んでいる。


みんながランニングを終えて戻ると、久美先生が道場に入ってくる。


「集合!」


翔が声を張り上げ、全員が集まる。


「礼!」


「よろしくお願いします!」


「えっと、今日は――」


久美先生の言葉を、魁人がぶっきらぼうに遮った。


「混合戦、勝てる見込みないのに出るんすか」


空気が止まる。

汗の匂いと湿り気だけが、ゆっくり流れていく。


「ロッティは負ける前提で、ひかりも久しぶりで動き悪いし」


ロッティは瞬きをした。

自分の名前が出たとわかったけれど、言い返せない。


沙羅が額の汗を道着でぬぐいながら笑う。


「まーまー、魁人。そんな言い方しないの。あたし泣いちゃうよ?」


「勝手に泣いてろ」


そっけない言い方だが、その声の奥には苛立ちが混じっていた。


「出るだけ出ますけど、俺、個人戦に集中したいんで」


そう言って、魁人は悠を引っ張り、乱取りを始めた。

翔が追いかけようとするが、久美先生が手で制す。


――残ったのは、ロッティ、ひかり、沙羅、そして翔。


「先生……」


ひかりが不安そうに久美先生を見る。


「あなたたちはいつも通り練習して。翔とロッティはこっち」


久美先生は翔とロッティを道場の隅で組み稽古につかせた。




***




数日後。


いつものように魁人と悠が乱取りを始めようとしたとき――


「魁人、ロッティと組んで」


魁人の動きが止まる。


「は? なんで俺が素人の相手?」


「いいから。早く」


「いや、でも――」


「“でも”は禁止。やりなさい」


久美先生の一言に、魁人は眉間にしわを寄せながらも従う。


ロッティは少し緊張していた。

魁人の目つきは鋭く、まるで試合のようだ。


「……構えろよ」


「う、うん」


魁人が前に出ると、ロッティは思わず体を引いた。

手が伸びてくると、すぐに払って距離をとる。


「おい、逃げんなよ!」


「逃げてない、ちゃんと構えて――」


「それ構えてねーっての!」


久美先生が腕を組みながら見ている。

ひかりも沙羅も、息を呑んで二人を見つめていた。


三分ほどして、魁人がしびれを切らした。


「先生、これじゃ練習になんねぇっす。試合にも――」


その瞬間。


ロッティが一歩踏み込み、外側から魁人の足に足を伸ばした。


「やっ!」


魁人の足を払うのと同時に、ロッティ自身の体も倒れる。


「……え?」


魁人の身体がわずかに浮き、二人とも畳に倒れ込んだ。

どすん――その音が道場に響く。


「小外刈り!」


誰もが固まった。


久美先生がゆっくり言う。


「惜しい。技ありね」


「は、反則だろ! 今の入り方!」


魁人が慌てて起き上がる。


「じゃあ魁人。今のが反則なら、どう直せばよかったか教えてあげて?」


「は?」


「得意でしょ、その戦法」


沙羅が慌てて手を挙げる。


「あ、あたしも魁人と練習したい!」


魁人の腕に絡みつく。


「こっ、こら! くっつくな!」


魁人がそれを振りほどく。


「冗談してないで、あんたは、ひかりと組みなさい」


「えぇ~!」


そのやりとりに、道場の空気が少し和んだ。




***




久美先生は翔の方を見る。


「翔、悠の相手お願い。重量級対策ね」


「了解」


悠は張り切って「お願いします!」と頭を下げる。

翔は「力抜けよ」と優しく声をかけた。


沙羅はまだ魁人の方をちらちら見ている。


「ほら、行くよ」


ひかりが沙羅を引っ張っていく。


魁人がぽつりと言った。


「先生、やっぱ個人戦に集中したいです」


久美先生は魁人を見据える。


「だめ。チーム戦は協力戦よ」


「……わかりました」


ロッティは魁人と組み、再び構えた。




***




「そんなに逃げてたら、指導取られて終わりだぞ」


「……じゃあ、どうすれば?」


「だから、お前も“出す”んだよ」


ロッティが恐る恐る手を出すと、魁人にぐっと引き込まれ、

一瞬で倒された。


「ほら、こうやって出すと、相手は切るだろ」


「切る……?」


「手を払うんだよ。翔と練習してただろ」


言われた通り、相手が出してきたら払う。

出してこなければ、こちらから出す。

その繰り返し。


「はい、今日はここまで」


久美先生の声が道場に響く。


魁人がぼそっと言った。


「早くできるようになれよ。じゃないと俺の練習時間減る」


「うん、頑張る」


魁人は少しだけ視線をそらしながら言った。


「それと……悪かったな。負け前提とか言って。

……せめて引き分け前提にしてやる」


そう言うと、魁人はみんなの方へ走って戻った。


――引き分け前提、か。


今はそのくらいかもしれない。

けれど、転び方を覚えたように――


“引き分け方”だって、きっとある。


ロッティは帯をぎゅっと締め直した。

魁人の後姿を見ながら、胸の奥に小さな自信が芽生えるのを感じていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ