第32話 負けるのが前提
道場の空気が、いつもより少しピリッとしていた。
梅雨明け前の蒸し暑さが、畳の下にまでじわりと染み込んでいる。
みんながランニングを終えて戻ると、久美先生が道場に入ってくる。
「集合!」
翔が声を張り上げ、全員が集まる。
「礼!」
「よろしくお願いします!」
「えっと、今日は――」
久美先生の言葉を、魁人がぶっきらぼうに遮った。
「混合戦、勝てる見込みないのに出るんすか」
空気が止まる。
汗の匂いと湿り気だけが、ゆっくり流れていく。
「ロッティは負ける前提で、ひかりも久しぶりで動き悪いし」
ロッティは瞬きをした。
自分の名前が出たとわかったけれど、言い返せない。
沙羅が額の汗を道着でぬぐいながら笑う。
「まーまー、魁人。そんな言い方しないの。あたし泣いちゃうよ?」
「勝手に泣いてろ」
そっけない言い方だが、その声の奥には苛立ちが混じっていた。
「出るだけ出ますけど、俺、個人戦に集中したいんで」
そう言って、魁人は悠を引っ張り、乱取りを始めた。
翔が追いかけようとするが、久美先生が手で制す。
――残ったのは、ロッティ、ひかり、沙羅、そして翔。
「先生……」
ひかりが不安そうに久美先生を見る。
「あなたたちはいつも通り練習して。翔とロッティはこっち」
久美先生は翔とロッティを道場の隅で組み稽古につかせた。
***
数日後。
いつものように魁人と悠が乱取りを始めようとしたとき――
「魁人、ロッティと組んで」
魁人の動きが止まる。
「は? なんで俺が素人の相手?」
「いいから。早く」
「いや、でも――」
「“でも”は禁止。やりなさい」
久美先生の一言に、魁人は眉間にしわを寄せながらも従う。
ロッティは少し緊張していた。
魁人の目つきは鋭く、まるで試合のようだ。
「……構えろよ」
「う、うん」
魁人が前に出ると、ロッティは思わず体を引いた。
手が伸びてくると、すぐに払って距離をとる。
「おい、逃げんなよ!」
「逃げてない、ちゃんと構えて――」
「それ構えてねーっての!」
久美先生が腕を組みながら見ている。
ひかりも沙羅も、息を呑んで二人を見つめていた。
三分ほどして、魁人がしびれを切らした。
「先生、これじゃ練習になんねぇっす。試合にも――」
その瞬間。
ロッティが一歩踏み込み、外側から魁人の足に足を伸ばした。
「やっ!」
魁人の足を払うのと同時に、ロッティ自身の体も倒れる。
「……え?」
魁人の身体がわずかに浮き、二人とも畳に倒れ込んだ。
どすん――その音が道場に響く。
「小外刈り!」
誰もが固まった。
久美先生がゆっくり言う。
「惜しい。技ありね」
「は、反則だろ! 今の入り方!」
魁人が慌てて起き上がる。
「じゃあ魁人。今のが反則なら、どう直せばよかったか教えてあげて?」
「は?」
「得意でしょ、その戦法」
沙羅が慌てて手を挙げる。
「あ、あたしも魁人と練習したい!」
魁人の腕に絡みつく。
「こっ、こら! くっつくな!」
魁人がそれを振りほどく。
「冗談してないで、あんたは、ひかりと組みなさい」
「えぇ~!」
そのやりとりに、道場の空気が少し和んだ。
***
久美先生は翔の方を見る。
「翔、悠の相手お願い。重量級対策ね」
「了解」
悠は張り切って「お願いします!」と頭を下げる。
翔は「力抜けよ」と優しく声をかけた。
沙羅はまだ魁人の方をちらちら見ている。
「ほら、行くよ」
ひかりが沙羅を引っ張っていく。
魁人がぽつりと言った。
「先生、やっぱ個人戦に集中したいです」
久美先生は魁人を見据える。
「だめ。チーム戦は協力戦よ」
「……わかりました」
ロッティは魁人と組み、再び構えた。
***
「そんなに逃げてたら、指導取られて終わりだぞ」
「……じゃあ、どうすれば?」
「だから、お前も“出す”んだよ」
ロッティが恐る恐る手を出すと、魁人にぐっと引き込まれ、
一瞬で倒された。
「ほら、こうやって出すと、相手は切るだろ」
「切る……?」
「手を払うんだよ。翔と練習してただろ」
言われた通り、相手が出してきたら払う。
出してこなければ、こちらから出す。
その繰り返し。
「はい、今日はここまで」
久美先生の声が道場に響く。
魁人がぼそっと言った。
「早くできるようになれよ。じゃないと俺の練習時間減る」
「うん、頑張る」
魁人は少しだけ視線をそらしながら言った。
「それと……悪かったな。負け前提とか言って。
……せめて引き分け前提にしてやる」
そう言うと、魁人はみんなの方へ走って戻った。
――引き分け前提、か。
今はそのくらいかもしれない。
けれど、転び方を覚えたように――
“引き分け方”だって、きっとある。
ロッティは帯をぎゅっと締め直した。
魁人の後姿を見ながら、胸の奥に小さな自信が芽生えるのを感じていた。




