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第31話 人生だって転ぶこと多い

朝の空気は、雨上がりのせいか少し重かった。

体育館裏の湿った土の匂いが、畳のにおいに混じってほんのり立ちのぼる。


ロッティは昨日の受け身でできた青あざをそっとさすり、

道場の隅に座っていた。

そこへ沙羅がにこにこと歩み寄ってくる。


「おはよ、ロッティ! まだ痛い?」


「ちょっと……でも、昨日よりは痛くない」


「そうそう、そうやって慣れていくの。

柔道ってさ、“痛くない転び方”を練習するスポーツなんだよ」


「転ぶのを……練習?」


「うん。だってさ――人生だって、転ぶこと多いでしょ?」


ロッティはぽかんと沙羅を見た。

沙羅は「なーんてね」と笑い、帯をきゅっと結び直した。


そのとき、道場の扉が開き、翔が入ってくる。

少し湿った空気が彼の声とともにぴんと張る。


「整列!」


全員が一列に並び、礼。

畳に触れた掌に、雨の名残りのような冷たさが伝わった。


「今日は受け身の確認から。ロッティ、昨日の続きね」


久美先生の声に、ロッティはこくりとうなずく。

今日は、少しだけできる気がしていた。


「えいっ!」


後ろに倒れ、両腕で畳を打つ。

――パンッ!

昨日よりも澄んだ乾いた音が響いた。


「うん、今のいいよ」


久美先生が頷く。

ロッティの胸に、小さく温かい灯がともった。


数式でも理論でもなく、

“身体の中で見つかる正解”が確かに存在する――

そう思えた瞬間だった。




***




ロッティがやっとまともに転べるようになった頃。


「じゃあ次は組手の基礎ね」


「えっと、右手がここで、左手は……」


久美先生が道着のつかみ方を教える。


「そう。そして――こう」


軽く引かれた瞬間、倒れないよう踏ん張ったロッティの足を、

先生がすっと払った。


「えっ……!? いたっ!」


畳に落ちる衝撃に、思わず息が漏れる。


「ほら、受け身。忘れてるわよ」


差し出された手に支えられ、立ち上がる。


構えた次の瞬間、また体が浮き、畳に落ちた。

しかし今度は、スムーズに受け身がとれた。


――“転び方を学ぶスポーツ”


その意味が、少しだけ分かった気がする。


稽古が終わる頃には、道着は汗でずっしり重くなっていた。

けれど、その重さすら心地よかった。


「受け身は基本だからね。試合までに完全にできるように」


久美先生が言う。


「えっと……投げるのは?」


「二カ月くらいは受け身かな。ロッティの頑張り次第だけど」


「そんなぁ〜……」


ロッティがしょんぼりすると、先生は優しく笑った。


練習終了の合図。翔が号令をかける。


「礼!」


「ありがとうございました!」


頭を下げると、畳の湿気が体の熱をそっと包んだ。




***




道場を出ると、雨上がりの風がひやりと肌を撫でた。

蝉の声はまだ遠い。

けれど夏の匂いだけがゆっくりと近づいてきていた。


ロッティは手のひらを見つめながら歩く。

受け身の跡が赤く残っている。

痛いけれど、どこか誇らしい印だった。


――もっと上手になりたい。

翔にも、久美先生にも、ちゃんと認めてもらいたい。


心の中が少しせわしなくなる。


「ロッティ」


振り向くと、ひかりがタオルを肩にかけ、息を弾ませながら立っていた。


「今日の稽古、けっこう頑張ってたね」


「うん。まだ受け身しかできないけど、感覚が分かってきたの」


「ふーん。翔、家でも教えてくれるんでしょ?」


ひかりの口調は軽い。

けれど、どこか引っかかる響きがあった。


「うん。少しだけ。昨日も――受け身の音が小さいって言われて……手の角度を教えてくれて」


ロッティが身振りで再現すると、ひかりはふっと笑った。

しかし、その笑顔には微妙なぎこちなさがある。


「……えっとさ」


「うん?」


「……組手とかも?」


「うん、ちょっと照れてるけど」


「……照れてる?」


ひかりが瞬きする。


「それから、すぐ押し倒される」


「えっ!? 押し倒されるって!?」


ひかりの目がさらに丸くなる。


「ちがう、“押し倒される”じゃなくて……ただの“倒される”だ……」


「そ、そだよね……。“押し”がつくと意味違うし……」


ひかりはタオルで赤い顔をぱたぱたあおぐ。


ロッティは首をかしげる。


「ひかり、どうかした?」


「え? あ、ううん。なんでもないよ」


「でも、やさしくない」


「どんなふうに?」


「痛がっても『まだまだ』って言って、やめてくれない」


「そうだねぇ。あいつ、柔道だと容赦ないから」


ひかりの声は、さっきよりも少し安心した色を帯びていた。


「じゃあ、明日も頑張ろうね!」


そう言って、ひかりは家のほうへ歩き出す。

夕陽の中にその背中が溶けていく。


ロッティはしばらく立ち止まった。


――ひかり、なんだか少し変だった。


その「変」の正体はまだ分からない。

けれど胸の奥に、小さな波紋のような違和感だけが、静かに広がっていた。

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