第30話 力の流れを知りたい
柔道場の更衣室。
雨上がりのむっとする湿気のせいか空気が重たい。
窓の外では、梅雨の雲の切れ間から淡い陽光が差し込んでいた。
沙羅に手伝ってもらって道着を身につける。
「帯がゆるいと、投げられたときに服がずれて痛いからね」
そう言って、沙羅がきゅっと帯を締める。
「……いたっ」
思わず声が漏れた。
「それにね、気持ちがしゃんとするんだよ」
パシッ、と背中を軽く叩かれる。
「ぐっ……」
確かに、気持ちが引き締まるような気がした。
「道場に入るときは、お辞儀をしてね」
「お辞儀って、誰に?」
「う〜ん……柔道の神様かな」
そう言って沙羅は笑った。
準備体操が始まる。
翔の号令で、まずは柔軟。
「すごい、ロッティって体柔らかいね」
「えへへ、そうかな」
「柔道は柔軟性がめっちゃ大事。期待できるよ」
そのあと、運動場のランニング。
ロッティは、翔を投げ飛ばす自分の姿を想像し、胸が高鳴った。
***
ランニングを終えて道場に戻ると、本格的な稽古が始まった。
中央では男子組が乱取り。
翔、魁人、そして一年の宮本悠。
「はっ!」
掛け声と同時に魁人が鋭く体をひねり、翔が宙を舞った。
どすん、と畳に落ちる音。
「やっぱり魁人、カッコいいわ……」
沙羅が息を飲む。
ひかりが小声で「もう、沙羅、目がハート」と突ついた。
「じゃあ、ひかりは久しぶりだから、まずは打ち込みね」
「わかった」
二人が練習に入る。
***
「ロッティ、こっちに来なさい」
久美先生に呼ばれ、ロッティは畳の中央に座る。
先生はきちんと姿勢を正し、真剣な目で向き合ってきた。
「まずは受け身。柔道の基本よ。何よりも怪我をしないことが大事」
「はい。衝撃エネルギーを分散する理論ですね」
「……まあ、そういうこと」
先生は苦笑しつつも、説明を続ける。
「腕で畳を叩いて力を逃がすの。頭を打たないように、顎を引いて」
ロッティは慎重に構えた。
「えいっ」
――ごつん。
背中から頭に痛みが走る。
「……っつ!」
「だから、腕だけで止めない。背中全体で受けるのよ」
「“感じる”って、具体的にどのベクトルに――」
言い終える前に、先生の鋭い視線がぴたりと止めた。
「はい、もう一回」
言葉より身体で覚えなさい、という目だった。
何度も転び、何度も叩かれ、手首も肘も赤くなる。
ロッティの目には、じわりと涙が浮かんだ。
「これ……いつまでやるんですか?」
「そうねえ、痛くならないようになるまでかな」
「でも、それじゃ“力の流れ”が分かりません」
「ロッティ」
先生の声がわずかに低くなった。
「自分の力もコントロールできない子が、
どうやって人の力をコントロールするの?」
普段は穏やかな久美先生が、真っすぐに見つめてくる。
叱っているのではなく、しっかり向き合っている目だった。
ロッティの胸が、熱くなった。
悔しさとも違う、大切なところを触れられたような熱。
***
「今日はここまで」
先生の声で、全員が集まった。
ロッティも急いで並ぶ。
「混合団体のメンバーが揃ったわね。
みんな、ケガだけは絶対にしないように」
「はい!」
「お疲れさま、気をつけて帰って」
「ありがとうございました!」
そして道場に向かって一礼。
まだ慣れない動作だが、ロッティにはどれも新鮮だった。
***
その日の夕方。
ロッティは自室の畳の上で、静かに後ろ受け身の練習をしていた。
「角度を三十度以内……腕で衝撃を分散……」
パンッ。
パンッ。
一定のリズムで畳に手を打つ音が響く。
その音が、翔の部屋まで届いたらしい。
廊下から声がした。
「ちょっと音が……」
「すみません。うるさいですか?」
「もっと強く叩くんだよ」
「えっ、強く? 痛いんじゃ……?」
「逆だよ。ちょっと見せる」
翔は部屋に入ると、ごろんと転がり――受け身。
バシッ!
鋭い音が響いた。
「すごい……大きな音……」
「早く上達してもらわないと困るからな」
そう言って、翔は照れ隠しのように早足で出ていった。
ロッティは、その背中を見送りながら胸が温かくなるのを感じた。
――翔、ありがと。
再び畳に座り直し、深呼吸をして受け身をとる。
思い切って畳を叩く。確かに痛くない。
練習を続けるうちに、“力の流れ”が
ほんの少しだけ身体に馴染んでいく気がした。




