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第29話 やってみたいです

調理実習室には、バターと砂糖の甘い匂いがこもっていた。


「焼けた!」


ロッティは真剣な顔でストップウォッチを止める。

ひかりがオーブンを開けると、きつね色のクッキーが顔を出した。


「16分25秒。これがベストタイムです」


「ねぇ、それ料理というより実験だよね」


ひかりが呆れ笑いをする。

ロッティはきょとんと首をかしげた。


「クッキーも化学反応です。精密さが命」


そんな他愛もないやり取りをしていたとき――

ガラッと勢いよくドアが開いた。


「ひかりー! いたいた!」


柔道着姿の沙羅が、全力で飛び込んできた。


「またクッキー食べに来たの?」


「ち、違うって! 久美先生いないし、一人じゃ練習できないの!」


「だからって、毎回甘い匂いに釣られて来ないでよ」


ひかりがため息をつく。

沙羅は焼きたてのクッキーをひとつ奪い、もぐもぐと頬張った。


食べ終えると、急に真顔でひかりを見つめる。


「今日はちょっと“お願い”があって!」


「お願い?」


「うん。ひかり、柔道の試合に出て!」


「……は?」


ひかりの動きが止まる。

ロッティも驚いてひかりの顔を見た。


沙羅は、もう一枚クッキーを齧りながら言った。


「翔がさ、どうしても団体戦に出たいって言ってるの。

新キャプテンになって、ずっと考えてたんだって」


「翔が?」


「うん。去年の団体戦が忘れられないらしい」


「でも、団体戦って女子は出られないじゃん。まさか男子のふり?」


「ち、違う違う! そんなわけないでしょ!」


必死な否定に、ロッティは思わず笑ってしまった。




***




ひかりは少し落ち着いてから尋ねる。


「だったら、どうするの?」


「混合戦っていうのができたらしい。男女三人ずつの六人チームで出るんだって」


「へぇ、そんなのあるんだ」


ひかりは少し驚いた顔になる。


「久美先生が『どうしても出たいなら、これに出たら?』って」


「初めから男子団体に一年生を誘えばいいのに」


「全員断られたんだって」


「翔、人望ないね〜」


ひかりが冗談まじりに笑う。


「それで、女子は私しかいないの。ひかり、お願い! 一緒に出て!」


「……どうせ魁人と出たいだけでしょ」


「ち、ちがうもん!」


沙羅の顔がまっ赤になる。


「魁人がいると頑張れるだけだよ!」


「それ、本音って言うんだよ」


ひかりが呆れたように笑った。

ロッティは二人のやり取りが微笑ましくて、静かに眺めていた。


「でも、女子三人必要なんでしょ? あと一人は?」


沙羅は頭を抱える。


「そこなんだよな〜。一年を誘ったけど『畳で転がるのはムリ!』って」


そう言って沙羅が生活部の女子を見渡すと、女子たちは一斉に首を振った。


「もう、しょうがない! 二人だけでも見学に来てよ。

雰囲気見たら気持ち変わるかもしれないし!」


沙羅は二人の手を取るようにして、勢いのまま廊下へ飛び出した。

ロッティの口の中には、クッキーの甘さと沙羅の真剣さが奇妙に混ざり合っていた。




***




柔道場。

むっとする畳の匂い。

沙羅の後について入ると、すでに練習が始まっていた。


「はっ!」


掛け声と同時に、翔の体が宙を切り――

どすん、と鈍い音を立てて畳に落ちた。


ロッティは目を丸くした。


「どうして……あんなに大きい人を投げられるの?」


ひかりが小声で説明する。


「バランスだよ。力で押すんじゃなくて、相手の重心をずらすとね」


その瞬間、ロッティの頭の中にベクトル図が浮かぶ。

けれど、目の前の動きは図よりずっと複雑で、美しかった。


「頭で考えても、分からないよね」


声をかけてきたのは久美先生。

柔道着姿で、にこりと微笑んでいた。


「力はぶつけるんじゃなくて、流れを読むもの。

頭で考えるのが得意なら、身体でも考えてみなさい」


ロッティはしばらく黙り――

やがて小さな声で言った。


「力の流れ……どうなっているのか、知りたいです」


「えっ!? 本当!?」


沙羅が弾けるような声をあげる。


「ロッティとひかり、入部決定ー!」


「ちょ、ちょっと待って! 私も!?」


「もちろんひかりも一緒!」


そのとき、翔がこちらをちらりと見た。

ひかりは、ほんの少しだけ、こくんと頷いたように見えた。


「もう、大会までだからね……」


「やったー!」


沙羅が喜びのあまり、ひかりに飛びついた。




***




帰り道。

ひかりがぼそっと言う。


「……なんか、巻き込まれた気がする」


ロッティはくすっと笑った。


「でも、楽しみ。身体で考えるって、面白そう」


ひかりは深いため息をつき、けれど楽しげに笑った。


「ロッティってほんと、変わってる」


その声には、ロッティをそのまま受け入れる優しさがあった。


山の向こうに夕陽が沈んでいく。

柔道場の方からは、まだ「はっ!」という掛け声が響いていた。

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