第22話 ちゃんと届くよ
調理実習室の窓から、冬のやわらかな光が差し込んでいた。
ロッティは一人、調理台に向かい、真剣な顔でボウルを抱えている。
「どうして急に、最初から一人で作りたいなんて言い出したの?」
ひかりが不思議そうに首をかしげた。
「……わたしも、誰かのために、何かをやりたいんだ」
「それって、亜香里ちゃんのこと?」
ロッティは黙って頷き、溶き卵をボウルに注ぎ込む。
「だめだめ、全部入れたらダマになるって。少しずつ、ね」
泡立て器がカシャカシャと響き、ロッティの手元は忙しい。
「そこ、固まってるよ。もっと全体を見て混ぜて」
ひかりの指摘に頷きながら、小麦粉をふるい入れ、ゴムベラで切るように混ぜる。
「……そう、その感じ!」
何とか初めての生地作りを終えたころ、ひかりが言う。
「じゃあ、冷蔵庫で30分寝かせて、型抜きね」
そして――
焼き上がったクッキーが皿に並ぶ頃には、室内に甘い香りが広がっていた。
ロッティは小さく息をつき、ほっと笑った。
小さなことだけど――
亜香里ちゃんのために、クッキーを焼けたことが嬉しかった。
***
マラソン大会の前日。
学校の帰りに、ロッティは陽太と一緒に亜香里の家を訪ねた。
しかし玄関で祖母に告げられたのは、思いがけない言葉だった。
「さっき、亜香里の様態が急に悪くなってね。診療所に運ばれたのよ」
驚く間もなく、二人は診療所へ走った。
着いたとき――
亜香里は顔をゆがめ、苦しそうに咳をしながら担架で救急車へ運ばれていくところだった。
「亜香里!」
思わず駆け寄るが、救急車のドアは閉まり、サイレンとともに走り去っていった。
ロッティはその場に立ち尽くし、胸が苦しくなるほど締め付けられた。
その直後、車が停まり、陽太の父親が降りてきた。
「陽太、乗れ」
「私も……行っていい?」
ロッティが恐る恐る聞くと、陽太が迷わずロッティの腕を取った。
「来て。大丈夫だから」
こうして三人は、救急車の向かった病院へ急いだ。
***
治療室の前。
玲子先生も同乗していて、陽太の母親が深く頭を下げていた。
「先生の判断が早かったから助かりました。本当にありがとうございます」
陽太と父も、何度も礼を述べる。
しばらくして、主治医が現れた。
「もう大丈夫ですよ」
その一言で、空気が一気に安堵へと変わった。
やがて亜香里がベッドに乗せられ、病室へ運ばれていく。
少し呼吸は荒いが、表情は落ち着いていた。
「お兄ちゃん……明日、応援に行けなくなってごめんね」
「そんなの気にするな。まずは早く治さないと」
陽太は優しく頭を撫でる。
「でも……亜香里が応援行かなくても、ちゃんと優勝する?」
「絶対優勝してくる」
その声はまっすぐで、強かった。
ロッティは持っていた袋を差し出す。
「これ……元気になったら食べて」
「わー! クッキーだ! ロッティちゃんが作ったの?」
「……うん。あんまり上手じゃないかもしれないけど」
「やったぁ! アイ・ラブ・クッキー! ヤミーヤミー!」
その笑顔に、みんなの顔がふっと緩んだ。
***
「じゃあ母さん、私は一旦家に戻って入院の準備してくるよ」
陽太の父親はロッティに向き直り、丁寧に礼をした。
「ロッティさんも、今日はありがとう。家まで送るよ」
帰り際、亜香里がロッティを呼んだ。
「ロッティちゃんも応援してるからね! だから一番とってね!」
ロッティは困った顔で笑った。
「ありがとう。でも無理だよ。お兄ちゃんみたいに速くないもの」
「大丈夫! ロッティは速いよ!」
「もう陽太ったら、亜香里ちゃんに何言ってるの」
ロッティがむっとすると、陽太は照れたように笑った。
「この前のお返し」
病室に、温かい笑い声が広がった。
***
マラソン大会の朝。
透き通る冬空の下、冷たい風が校庭を吹き抜けていく。
ロッティは登校しながら、白い息を見つめた。
昨日、亜香里が言った「応援してる」という言葉。
それが今も胸の奥に残っている。
――亜香里ちゃんの応援に……応えたい。
校庭にはテントが並び、PTA がストーブの前で談笑している。
小学生の部が終わると、中学生の番だ。
男子は大橋まで往復7キロ。
女子はその途中で折り返す5キロ。
円城寺校長の挨拶が終わると、準備体操が始まった。
やがて小学生が走り出し、中学生は軽く体をほぐしながら待つ。
「ロッティ、絶対一番とるぞ」
陽太の言葉に強く頷く。
スタートラインに立つと、陽太が横で前を見据えていた。
昨日の病室で見た亜香里の笑顔がよみがえる。
――わたしも……応援に応えるために走りたい。
胸の奥でそっとつぶやき、深く息を吸う。
「位置について――ヨーイ」
久美先生の声が空気を張りつめさせる。
心臓が高鳴る。
「バンッ!」
号砲が鳴り、全員が一斉に踏み出す。
冬の風を切り、足音が校庭を震わせた。
視界の先には、長い長い道が続いている。
――ここからが、本当の挑戦だ。




