第19話 痛くても泣かないもん
冬の冷たい風が校庭を吹き抜ける。
吐く息は白く、グラウンドの砂は凍りついたように硬い。
耳の先がじんじん痛み、指先はかじかんで思うように動かない。
「長距離、マジだるい」
「最悪、寒すぎるって」
クラスのみんなが、口々に文句をこぼす。
「寒がってばかりいると、余計にケガするわよ!」
久美先生がパンパンと手を叩き、明るい声で言った。
「しっかり体を動かして、筋肉を温めなさい。走る前の準備運動、忘れないこと!」
その声に押されるように、生徒たちはしぶしぶストレッチを始めた。
ロッティも、こわばった背筋を伸ばしながら肩を回す。
「ロッティ、一緒に走ろうぜ」
陽太が隣に立ち、自然な笑顔を向けた。
「えっ、わたしと?」
「うん。ロッティ、速いって知ってるし」
どうやら、初登校の日に走ったことを覚えているらしい。
あのときはただ必死だっただけで、長距離とは話が違う。
「わたし、長距離は初めてで……」
「大丈夫。俺がペースメーカーやるから」
ロッティは少し迷ったが、こくりとうなずいた。
***
「まずは校庭十周ね。よーい、はじめ!」
久美先生の笛が鳴り、生徒たちが一斉に走り出す。
冬の空気が肺に突き刺さる。
靴底が砂を蹴る音が乾いて響く。
吐く息は白く、リズムに合わせて揺れる視界が少しだけ眩しい。
「ロッティ、いい感じだぞ!」
「はぁ…はぁ……まだ、いける……」
陽太のペースに合わせて、必死に足を前へ運ぶ。
何周か回ったところで、ロッティは後続を避けようとしてコースの外側へ大きく踏み出した。
その瞬間、足がもつれた。
バッ――。
「きゃっ…!」
「ロッティ!」
膝を地面に打ちつけ、じんとした痛みが一気に広がる。
見ると、膝小僧から血がうっすらにじんでいた。
久美先生が駆け寄り、心配そうな顔を向ける。
「大丈夫? けっこう擦りむいてるわね」
「俺、保健室に連れて行きます!」
陽太が支えようとすると、久美先生は首を振った。
「今日は養護の先生が南中に行ってるの。保健室より診療所へ。玲子先生がいるから」
「診療所……?」
不安そうに見上げるロッティに、久美先生は優しく微笑んだ。
「大丈夫。もう連絡しておくわ」
スマホを取り出す先生を後に、陽太はロッティの腕をそっと支え直す。
「行こう。すぐ診てもらえるから」
ロッティは小さくうなずき、彼の腕に頼りながら歩き出した。
冬の風が、二人の背中を押すように吹き抜けた。
***
診療所は校門から歩いて十分ほどの場所にあった。
古い木造の建物で、曇った窓ガラスの向こうにストーブの明かりが揺れている。
ドアを開けると、柔らかな消毒液の匂いがふわりと鼻をくすぐった。
「……あ、お兄ちゃん!」
待合室で車椅子に座っていた小さな女の子が、驚いて目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。
「えっ、亜香里?」
陽太が思わず声を上げる。
車椅子を押す女性が、ロッティに優しく会釈した。
「母ちゃんと妹の亜香里」
少し気恥ずかしそうに陽太が紹介する。
「はじめまして。ロッティです」
「初めまして。陽太からお話は聞いてますよ。とっても優秀なんですってね」
ロッティは首を振ったが、ほんのり頬が温かくなった。
「陽太はしゃがみこんで亜香里に視線を合わせながら話しかけた。
「定期健診、今日だったんだ」
母親は、その様子を穏やかに見つめながら、ふとロッティの膝に当てられたタオルに目を留めた。
「その怪我……どうしたの?」
「体育で転んでしまって……」
「まさか、陽太のせいじゃ――」
「あ、違います! わたしが勝手に転んで、陽太くんが連れてきてくれたんです」
慌てて否定すると、母親は安心したように微笑んだ。
診察室のドアが開き、看護師さんが車椅子の二人を中へ案内する。
ロッティは待合室の椅子に座り、ひりひりと痛む膝を押さえた。
陽太は隣で心配そうに覗き込んでいる。
***
しばらくして亜香里と母親が診察室から出てきた。
入れ替わるように「ロッティさん、どうぞ」と呼ばれる。
診察台に座ったロッティの膝を、玲子先生が丁寧に観察する。
「はいはい……打撲と擦り傷ね。骨には問題なし。すぐ治るわよ」
そう言って、消毒液を含ませた綿を膝に当てた瞬間――
「ひゃっ……!」
「ちょっと、大きな声出さないの。びっくりするじゃない」
「す、すみません……」
玲子先生は淡々とカルテに入力を進める。
「じゃ、腫れが引くまで湿布と……松葉杖ね。太田さん、用意お願い」
「はーい」と返事がして、看護師が奥へ下がっていった。
***
診察室を出ると、陽太が少し安心した顔で迎えてくれた。
「ロッティちゃん、痛がりねぇ」
亜香里が可笑しそうに笑う。
どうやら悲鳴は全部聞こえていたようだ。ロッティは恥ずかしくて耳まで赤くなる。
「亜香里は強いよ。痛くても泣かないもん!」
亜香里が胸を張る。
「泣いてもいいんだぞ、まだ小さいんだから」
「やだ! 絶対泣かない!」
頬をぷくっと膨らませて怒る亜香里を、陽太はやさしい眼差しで見守った。
診療所の外では、冬の風が電線を震わせる小さな音が響いていた。




