第16話 気持ちが知りたい
放課後の教室。
ロッティは期末テスト後の補習授業を受けていた。
秋の日差しが、教室の空気をゆるやかに温めている。
藤原亜紀先生が手帳を閉じ、教壇に立った。
「今日は、国語と音楽です。質問があったらいつでもどうぞ」
ロッティは国語のプリントを両手で押さえ、眉を寄せて読み込んでいた。
「…『てふてふ』 means butterfly?」
《『てふてふ』って、蝶ですか?》
誰にも聞こえないほどの小さな声。
隣では、美央が“表は音楽のプリント、裏に数学の問題集”という二段構えで、シャーペンをくるくる回している。
紙には名前だけがぽつんと書かれていた。
亜紀先生がすかさず言う。
「美央さん、受験科目以外もちゃんとしなさいよ。内申に響くわよ」
「は〜い。でも私、私立行くんで」
返事は雑で、手元の数学はちゃっかり続いていた。
そのとき、ロッティが勢いよく手を挙げる。
「『あした』は……tomorrowで合ってますか?」
「ここでは『朝』の意味ね」
「Oh, I see.」
《なるほど》
数秒も経たないうちに、また手が上がる。
「この『いとをかし』は、どんなお菓子ですか?」
「お菓子じゃないの。“interesting”って意味よ。古文なの」
「Interesting… cake? …I got it! フォーチュンクッキーですね!」
隣で美央が吹き出し、亜紀先生は肩をすくめた。
「ロッティ、いったんお菓子から離れようか」
ロッティは気にせず、言葉を分解し始める。
「'Ito' means very... and 'Okashi' means interesting!」
《“いと”は“とても”、“をかし”は“面白い”》
「So 'Ito-Okashi' means very interesting.」
《だから“いとをかし”は“とても面白い”》
亜紀先生は苦笑しながら、詳しい解説を続けた。
***
突然、美央が手を止め、不満げに言った。
「先生、古文なんてやる意味あるんですか?」
「日本人の気持ちを理解するため、かしら」
「でも、ロッティは外国人ですよ?」
一瞬、教室の空気がぴんと張る。
ロッティが迷いなく手を挙げた。
「私、みんなのキモチを知りたいです」
亜紀先生が少し驚く。
「気持ち?」
ロッティは胸に手を当て、はっきり言った。
「Yes. I'm not good at understanding feelings.」
《はい。わたし、人の気持ちを理解するのが苦手です》
美央の目が大きく揺れる。
「You're not good at that?」
《苦手なの?》
「So I couldn't make friends in the U.S.」
《だから、アメリカでは友達ができませんでした》
暖房の風がかすかに音を立てた。
「But translation apps can't understand... they don't understand your feelings.」
《でも、翻訳アプリだけじゃ、気持ちは分かりません》
美央は、何か言い返したそうに口を開きかけたが、
結局そのままプリントへ視線を落とした。
亜紀先生は少し歩き、美央の机の横で立ち止まる。
「ねえ、美央さん。ロッティさんの国語、少し見てあげてくれる?」
美央はびくっとして、裏に隠していた数学の問題集を慌てて閉じた。
「えっ、でも私、音楽の補習で……」
「どうせほとんど終わってるでしょ?」
観念したように、美央は席を移動した。
ロッティは嬉しそうに体をそちらに寄せ、目を輝かせた。
***
美央はロッティのプリントを指でとんとん叩く。
「この詩、『雪は心を映す鏡』ってあるでしょ」
「Why mirror? Snow isn’t reflective.」
《なぜ鏡? 雪には何も映りません》
美央は、少し考えて言った。
「比喩よ。気持ちを映すって意味」
ロッティはその言葉をゆっくり繰り返す。
「Reflect… feelings…」
《気持ちを映す……》
そして、静かに目を細めた。
「Ah… the heart reflects in cold white…」
《心が、冷たく白く映る……》
ふと、美央が笑う。
「あなたって変わってるけど…なんでも一生懸命ね」
ロッティは顔を上げる。
「What did you just say?」
《今、なんて言いました?》
「なんでもない」
その笑みは短かったが、やさしい温度があった。
やがて時計は十六時を指す。
「はい、今日はここまで。おつかれさま」
亜紀先生が机の引き出しから、小さな缶を取り出した。
フタを開けると、一口サイズのクッキーがぎっしり。
ロッティの目が輝く。
「It's a good system! The brain needs sugar.」
《とてもいいシステムです! 脳には糖が必要です》
「でも、みんなには内緒ね?」
ロッティと美央は、顔を見合わせて笑った。
湯気のような笑いが、部屋の空気に溶けて広がった。




