桜舞う交差点
桜が舞い散る四月の午後、29歳の沙織は、婚約指輪が光る左手をそっと握りしめた。半年後には、優しい婚約者である拓海との結婚式が控えている。ウェディングドレスの試着も終え、招待客リストもほぼ完成した。誰もが羨むような順風満帆な未来が、すぐそこまで来ているはずだった。
それなのに、なぜだろう。この数週間、胸の奥に澱のように溜まる、漠然とした不安が消えない。拓海との関係は、穏やかで安定している。彼の隣にいると、いつも安心できた。だが、その「安心」が、時として「物足りなさ」に変わる瞬間があることを、沙織は誰にも言えずにいた。結婚という人生の大きな節目を前に、独身時代の自由が失われることへの漠然とした恐れ、共同生活への不安、そして何より、拓海との間に感じる価値観の小さなズレが、彼女の心を静かに蝕んでいた。世に言う「マリッジブルー」というやつだろうか。沙織は、この不安を「幸せでなければならない」という周囲の期待の裏返しだと、自分に言い聞かせていた。
そんな矢先、それは本当に偶然だった。
いつもの帰り道、賑やかな駅前の交差点で、信号待ちをしていた沙織の視界に、懐かしい背中が映り込んだ。すらりと伸びた背筋、少し癖のある髪。心臓が跳ね上がった。まさか、と目を凝らす。彼だ。三年前、沙織自身の過ちで別れた元彼、蓮。あの日以来、一度も連絡を取らず、会うこともなかったはずなのに。
蓮は、隣に立つ友人と楽しそうに話していた。沙織は反射的に身を隠すように、近くのカフェの看板の陰に滑り込んだ。鼓動が速い。まるで、時間が三年前のあの日に引き戻されたようだった。
三年前、沙織と蓮は、些細な喧嘩がきっかけで別れた。当時、沙織は仕事で大きなプロジェクトを任され、心に余裕がなかった。蓮はそんな沙織を気遣い、支えようとしてくれたが、沙織は彼の優しさを素直に受け止められず、むしろ重荷に感じてしまったのだ。自分の感情をうまくコントロールできず、蓮に八つ当たりをしてしまうこともあった。蓮は何度も話し合いを求めたが、沙織は「今は仕事に集中したいから」と一方的に距離を置き、最終的に別れを切り出した。蓮は「君を幸せにできない」と悲しそうに言ったが、沙織は自分の感情を優先し、彼の言葉に耳を傾けなかった。別れてから、沙織は自分の言動を深く後悔した。完璧主義の傾向があった沙織は、一度の失敗が全てを台無しにしたと感じ、過度な自己批判に陥っていた。
蓮がこちらに顔を向けた。沙織は息をのむ。彼の視線が、一瞬、沙織の隠れた場所を捉えた気がした。いや、気のせいだ。彼は沙織に気づくはずがない。そう思った矢先、蓮が友人との会話を中断し、まっすぐに沙織のいる方向へ歩み寄ってきた。
「沙織?」
その声は、三年前と何も変わっていなかった。少し掠れていて、けれど芯のある、沙織が一番好きだった声。
「蓮……」
沙織は、隠れる意味を失ったことに気づき、ゆっくりと顔を上げた。三年の月日は、彼をより一層魅力的にしていた。あの頃の少年のような面影は消え、大人の男性としての落ち着きと、どこか憂いを帯びた雰囲気を纏っている。
「久しぶりだね。元気にしてた?」
蓮の優しい問いかけに、沙織は言葉に詰まった。元気、と答えるべきだろうか。婚約していることを、伝えるべきだろうか。
「うん、元気だよ。蓮も、変わらないね」
絞り出した声は、ひどく震えていた。蓮は、沙織の左手の薬指に光る指輪に気づいたようだった。彼の表情が一瞬、硬直したように見えたが、すぐに柔らかな笑みに変わった。
「そっか。よかった。……結婚するんだね。おめでとう、沙織」
その言葉は、あまりにも穏やかで、あまりにも優しかった。沙織は、祝福の言葉を聞いて、胸の奥が締め付けられるのを感じた。彼が怒るでもなく、悲しむでもなく、ただ純粋に祝福してくれたことが、沙織の心を深く抉った。三年前、沙織が彼を傷つけ、関係を終わらせたという罪悪感が、彼の祝福によって、より一層鮮明に蘇ったのだ。
蓮の祝福は、沙織にとって皮肉なトリガーとなった。彼が幸せそうに見えたからこそ、沙織は「失ったものの大きさ」を痛感したのだ。もし彼が苦しんでいる様子だったら、沙織は罪悪感を感じつつも、別れの現実を受け入れられたかもしれない。だが、彼の穏やかな祝福は、沙織が過去の関係を「完璧だった」「失ってはいけないものだった」と美化する傾向をさらに強めた。
沙織は、自分の過ちで終わらせた関係だからこそ、蓮への未練を深く抱えていた。あの時、もし自分が違っていたら、もっと良い関係が続いていたはずだという「もしも」の思考が、彼女の心を支配する。蓮との関係は、沙織の心の中で「未完了のタスク」として残り続けていたのだ。ツァイガルニク効果のように、達成できなかったことほど強く記憶に残り、その価値が過大に膨らんでしまう。
拓海との関係は、確かに安定している。親密性(お互いの親しみの深さ)とコミットメント(一生やっていくと決めること)は高いが、蓮との間にあったような情熱(性的欲求を含む興奮の強さ)は、もうそこにはない。心理学者スタンバーグの「愛の三角理論」で言えば、拓海は「友愛タイプ」(親密性・コミットメント高、情熱低)、蓮は「夢中愛タイプ」(情熱高、親密性・コミットメント低)だったのかもしれない。沙織は、拓海との現実的な「安定」と、蓮との「情熱」という、二つの異なる価値観の間で引き裂かれていた。
拓海との結婚準備が進むにつれて、沙織は「本当にこの人で良いのか」「この結婚は間違っているのではないか」という疑念を募らせていた。蓮との再会は、その不安をさらに増幅させた。マリッジブルー(結婚前の漠然とした不安や心細さ)が未練を正当化する口実となり、未練がマリッジブルーを悪化させる負のループに陥っているかのようだった。
沙織は、拓海に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。彼を裏切るような感情を抱いている自分自身が許せない。三年前の過ちを繰り返すことへの恐怖と、再び「関係を壊した側」になることへの罪悪感が、彼女の心を締め付けた。
夜、拓海が隣で穏やかな寝息を立てている。沙織は、そっとベッドを抜け出し、リビングの窓辺に立った。窓の外には、満開の桜が月明かりに照らされ、幻想的に浮かび上がっていた。
蓮を選ぶのか。それとも、拓海を選ぶのか。
蓮との復縁は、過去の「未完了のタスク」を完了させ、「逃した魚」の幻想を現実のものにしようとする試みかもしれない。しかし、美化された蓮と、現実の彼とのギャップに直面するリスクも伴う。もし、三年前の根本的な問題が解決されていないのなら、復縁は「同じ過ちを繰り返す」結果となるだろう。
拓海との結婚を続けることは、安定と安心をもたらす。だが、心の奥底に燻る情熱の欠如を、沙織は受け入れられるだろうか。このまま結婚すれば、沙織は社会的な期待に応えることができる。しかし、それは彼女自身の真の幸福なのだろうか。
沙織は、どちらの選択も、決して簡単な道ではないことを悟っていた。これは、単なる恋愛の選択ではない。過去の自分とどう向き合い、清算するのか。未来の自分をどう築くのか。自己の過ちを乗り越え、真に自立した選択をすることこそが、彼女に求められているのだ。
桜の花びらが、風に舞い、窓ガラスにそっと触れては、また夜空へと消えていく。沙織は、その儚い美しさを見つめながら、静かに目を閉じた。彼女の心の中で、二つの未来が、激しくぶつかり合っていた。そして、そのどちらを選ぶにしても、彼女はもう、過去の自分を言い訳にはできないことを知っていた。
翌日、沙織は蓮に連絡を取った。
「蓮、少し、話せないかな?」
蓮からの返事はすぐに来た。「いいよ。いつにする?」
沙織は、拓海との結婚準備で忙しい日々の中、無理やり時間を作った。カフェで向かい合った蓮は、相変わらず穏やかな笑顔を浮かべていた。その笑顔を見るたびに、沙織の胸は締め付けられる。
「あのね、蓮……三年前のこと、本当にごめんなさい」
沙織は、震える声で切り出した。俯いたまま、言葉を紡ぐ。「あの頃、仕事に夢中で、蓮の優しさを重荷に感じてしまって……自分の感情をコントロールできなくて、ひどいことをたくさん言ってしまった。蓮が何度も話し合おうとしてくれたのに、私は逃げてばかりで……本当に、最低だった」。
蓮は、何も言わずに沙織の言葉を静かに聞いていた。その沈黙が、沙織の罪悪感をさらに深くする。
「別れてから、ずっと後悔してた。蓮を傷つけたこと、そして、蓮を失ったこと……。完璧主義な私は、一度の失敗が全てを台無しにしたって、自分を責め続けてたの」。
沙織は顔を上げ、蓮の目を見つめた。
「偶然、この前会って、蓮が私の結婚を祝福してくれた時、本当に嬉しかった。でも、同時に、まだ蓮のことが忘れられていないって、はっきりと気づいてしまって……」。
沙織は、今の拓海との関係における不安、マリッジブルーの症状、そして蓮への未練が複雑に絡み合っていることを、正直に打ち明けた。
「拓海は、本当に優しくて、私を大切にしてくれる。安定した関係で、結婚生活を築くには最高の相手だと思う。でも、蓮といた時の、あの情熱が……」。
沙織は、言葉を選びながら、今の自分の心の揺れを全て蓮にぶつけた。それは、誰にも言えなかった本音だった。
蓮は、沙織の言葉を最後まで優しく聞いていた。彼の表情は、少しも変わらない。
「沙織が、そんな風に思ってくれていたなんて、知らなかった」
蓮は、静かにそう言った。そして、ゆっくりと口を開いた。
「沙織が、あの時、仕事に集中したかった気持ちも、俺には理解できるよ。俺も、あの頃は若かったから、沙織の気持ちを汲み取ってあげられなかった部分もあった」。
蓮の言葉に、沙織はハッとした。彼は、沙織を責めるどころか、自分にも非があったかのように言っている。
「でもね、沙織。俺は、沙織が拓海さんと結婚することを、心から祝福しているよ」。
蓮は、沙織の左手の指輪をそっと指差した。
「拓海さんは、沙織を本当に大切にしてくれる人なんだろう。沙織が今、感じている不安は、結婚を前にすれば誰にでもあることだ。俺と沙織の関係は、もう過去のことだ。あの頃の俺たちは、未熟だった。だからこそ、別れることになったんだ」。
蓮の言葉は、沙織の胸に深く響いた。彼の言葉には、一切の未練や後悔が感じられなかった。彼は本当に、過去を乗り越えていたのだ。
「沙織は、拓海さんと幸せになるべきだ。それが、今の沙織にとって一番良い選択だと、俺は思う」。
その夜、沙織は蓮と夜を過ごした。
それは、まるで三年前のあの日に戻ったかのような、甘く、そして切ない時間だった。蓮の腕の中で、沙織は心の奥底にしまい込んでいた情熱が、確かにまだ残っていることを知った。彼の温もり、彼の匂い、彼の声……全てが、沙織の心を揺さぶった。
だが、夜が明ける前に、沙織はそっと蓮の腕を抜け出した。彼の寝顔を、目に焼き付けるように見つめる。そして、音を立てないように、部屋を出た。
蓮の言葉が、沙織の心に深く刻まれていた。「拓海さんと幸せになるべきだ」。
この一夜は、過去への決別であり、未来への覚悟だった。蓮との情熱は、確かに沙織の心の中にあった。だが、それはもう、過去の記憶として、大切にしまっておくべきものなのだと、沙織は悟った。蓮は、沙織の背中を押してくれたのだ。
沙織は、朝日が昇り始めた街を一人歩いた。空は、淡いピンク色に染まっている。彼女の心は、まだ少し痛むけれど、不思議と清々しかった。過去の未練に囚われるのではなく、今、目の前にある未来と、拓海との約束に、真剣に向き合おう。それが、蓮が教えてくれた、そして沙織自身が選ぶべき道なのだと。
数週間後、沙織は拓海に、正直な気持ちを打ち明けた。蓮との再会、そして、それによって再燃した過去への未練、マリッジブルーの不安、全てを。拓海は、驚きながらも、沙織の言葉を最後まで真剣に聞いてくれた。彼の顔には、傷つきと困惑が浮かんでいたが、それでも沙織の手を握りしめ、言った。
「話してくれて、ありがとう。正直、ショックだけど……沙織が俺に隠さずに話してくれたことが、嬉しい。俺は、沙織を信じたい。そして、沙織が抱えている不安も、一緒に乗り越えたい」。
拓海の言葉に、沙織の目から涙が溢れた。彼の揺るぎないコミットメントが、沙織の心を強く打った。蓮との一夜は、過去の清算であり、拓海との未来への確かな一歩だったのだ。
結婚式まであと三ヶ月。沙織は、拓海と共に、一つ一つの準備に心を込めた。ウェディングドレスを選ぶ時、招待状の文面を考える時、以前感じていた漠然とした不安は、もうそこにはなかった。代わりにあったのは、拓海と共に新しい人生を築いていくことへの、確かな喜びと期待だった。
結婚式当日、純白のドレスを身に纏った沙織は、拓海の隣に立っていた。祭壇へと続くバージンロードを歩きながら、彼女はこれまでの道のりを振り返った。過去の過ち、後悔、そして偶然の再会がもたらした心の揺れ。しかし、それら全てが、今の自分を形作っているのだと、沙織は静かに受け入れた。蓮との再会は、彼女が本当に大切にすべきものが何であるかを、改めて教えてくれたのだ。それは、情熱だけではない、信頼と安定に裏打ちされた、確かな愛だった。
拓海と目を合わせる。彼の優しい笑顔が、沙織の不安を全て溶かしていく。彼女は、もう過去の自分を責めることはない。蓮との一夜は、彼女が「逃した魚」の幻想を現実のものとして受け止め、そして手放すための、最後の儀式だったのかもしれない。
誓いの言葉を交わし、指輪を交換する。その瞬間、沙織の心は、かつてないほど穏やかで満たされていた。彼女は、過去の自分を許し、今の自分を愛し、そして未来へと続く道を、拓海と共に歩むことを、心から決意していた。
桜の花びらが舞う季節は過ぎ、新緑が眩しい季節が訪れていた。沙織の人生もまた、新たな季節へと移り変わっていく。過去の影を乗り越え、自らの意思で選んだ未来は、きっと、彼女が望む以上の輝きに満ちているだろう。