異相交錯 II
夜の闇に沈むオフィスビル。裏口の鉄扉を抜けた途端、湿った冷気が三人を切り裂いた。埃と焦げた電線の匂いが、地下へ降りてきた者の肺にまとわりつく。
「くそ、中はまるで迷路だ。地下の配管が異常に複雑だぞ」
呉羽はタブレットの光を頼りに進路を照らす。ここは、単なるビルの地下室ではない。時任が、本来郊外にあった旧研究所の残された技術を、この場所で再起動させた影響で、空間そのものがねじ曲げられている。
「りんたん、悪いけど、内部の施設マップと、エネルギーの流れを最優先で解析してくれないか?時任の装置、中枢がどこにあるか特定したいんだ」
『マスター、了解ですぅ!でも、本当にこのルートで大丈夫ですぅ?施設の配置が、私が解析したデータと微妙に違いますぅ……。空間が歪んでいるせいで、座標が安定しませんですぅ!』
凛のホログラムが、不安そうに揺らめく。データで世界を把握している彼女のシステムが、物理法則の根本的な乱れに直面し、焦りが滲んでいた。
「解析結果と違っていても、ここを進むしかない。これは時任の仕業だ。彼は物理構造だけじゃなく、空間そのものを弄っているんだろう。」
呉羽は神経をすり減らしながら、神楽に視線を送った。神楽は桜に背中を支えられながら、通路の闇を凝視している。その瞳には、すでに涙が浮かんでいた。
「ごめん、呉羽……。頭の中に、何重にも……違う時代の映像が、響く……。ここ、もともとこんな場所じゃない。壁が……消えて、また現れてる」
神楽が小さく呻くと、通路の壁の質感が一瞬、古びたコンクリートから、苔むした岩肌へと変化したように見えた。神楽の視界に入った残滓が、現実の空間に干渉し始めている証拠。それは、本来郊外にあった旧研究所の断片的な残滓かもしれない。
「神楽、つらいだろうけど、頼む。残滓の濃度を教えてくれるか?君の感覚だけが頼りなんだ」
呉羽は気遣うように声をかけた。
「この先……右に曲がって、すぐ……急に濃くなってる。……あそこに、装置の残響がある」
神楽は途切れ途切れの声で、通路の先を指した。その表情は、極度の精神疲労で青白い。
「桜さん、神楽は君に任せるよ。」
呉羽は短く言い、通路を曲がった。
突き当たりの壁は、他の場所と同じに見える。しかし、呉羽のタブレットのマップには、その壁の奥に巨大なエネルギー反応を示す赤信号が点滅していた。
「この壁の奥だ。ここに時任の装置がある。旧研究所の残骸から再構築された核だと思う」
呉羽は壁に触れる。冷たい、ただのコンクリートだ。
『マスター、空間の残滓を解析しましたですぅ!この壁は旧研究所の構造と重なっています!隠し扉のコードを見つけました!これは、旧研究所の非常用ロックですぅ!』
凛にコマンドを提示され、呉羽は震える指先で、タブレットにコードを入力した。
壁の一部が、低く重い音を立てて内側に沈み込み、さらに奥へと続く鉄製の階段が姿を現した。そこからは、青白いプラズマの微光と、さらに強烈な低周波の唸り声が漏れ出ていた。
「行こう!」
呉羽は振り返らずに、階段を駆け下りた。
「待って、呉羽くん!」
桜は神楽を支えたまま、階段の入り口で立ち止まった。彼女の意識は、正面で一人戦う結城の状況へ向いていた。
「結城の状況が気になる。彼は大丈夫だろうか?」
桜の不安は的中していた。結城の囮作戦は、時任の大規模な実験開始によって、すでに危機的な局面を迎えていたのだ。
正面玄関では結城が警備員に声をかけ、注意を引きつけようとしていたその瞬間、空間の異常は顕著になっていた。
「すみません、裏で不審な動きを――」
結城が言葉を続けようとした直後、彼の視界のすべてが一瞬だけ、ノイズのように白く歪んだ。 次の瞬間、警備員は、結城の言葉を聞く直前の、結城が口を開こうとする、まったく同じ表情と体勢に戻っていた。
結城は、たった今言ったばかりの自身のセリフを、二度口にしていることに気づいた。警備員は、直前の視界の歪みを感じたためか、突然、顔をひきつらせた。
「す、すみません。どうかしましたか?」
警備員は、何かに驚いたように周りを見回している。周囲の雑踏も、一瞬、ざわめきが止まったように見えた後、再び動き出す。
(なんだ、これ……!また、位相がズレたのか……!だけど、動揺している暇なんかないな!)
結城が内心で分析を続けていると、今度は警備員の顔が、一瞬、別の男の顔に歪んだ。それは、数十年前の作業服を着た、疲弊した顔。すぐに元の警備員に戻る。
(ヤバい、どんどん状況が悪化してる!)
その歪みは結城自身にも影響を及ぼし始める。
突然、結城の右腕に、古傷の痛みが蘇った。とうの昔に治ったはずの、骨の奥まで響くような鈍い痛みだ。結城は思わず、腕を掴んだ。顔が歪む。
痛みに意識を奪われた一瞬、彼の足元の空間が、不自然に波打った。彼のスニーカーが、まるで水面に触れたかのように沈み込む。
警備員は、結城の異常な様子を見て不安そうに尋ねた。
「す、すみません。どうかしましたか?」
その瞬間、地下から強烈な唸り音と青白い光が閃き、空間全体を揺らした。結城は思わず目を見開いたが、すぐに表情を引き締めた。警備員は、突発的な異音と光に、完全にパニックに陥った。
その異常なエネルギーに呼応するように、結城の能力【理法解離】が、彼の意識とは無関係に発動した。彼の存在が、この場所の異変の暴走を防ぐ「抑止力」として機能し始めた。
バチッという、目には見えない極小の力が弾ける音。結城の身体を中心に、不安定な位相は自動的に修復され、安定を取り戻した。
結城は、警備員の混乱を逃すことなく利用し、パニックを装って言った。
「今の音と光、何ですか!? すぐに警察を呼びましょう!」
警備員は、自身の混乱と結城の言葉、そして地下の異音に押し切られ、パニックになり、指示されるままにその場を離れた。結城は警備員が視界から消えたのを確認し、急いでビルの中へと踏み込んだ。
(呉羽たちも、無事でいてくれ……)
自分の能力が、時任の広範囲な「歪み」の力の前では、局所的な安定剤にしかならない。状況の悪化は想定以上だ。言いようのない焦燥感が結城を襲う。
ビルの数ブロック離れた場所に停車した特対課の調査車両内で、五幡 泉は、眉一つ動かさずにモニターを凝視していた。彼らが角鹿市に来たのは、アビス騒動後から発生している特異現象の継続監視のためだった。
「井口、今の波形を解析してください。この特異現象に呼応し、観測された安定要素は、現象を押し留める働きをしているようです」
「了解っす。しかし、現場監視の結果、安定要素が現象を複雑化させている可能性もあるっす。この存在を、このまま黙視する判断でいいんすか?」
五幡は静かに、しかし冷静な声で言った。
「この安定要素こそが、『抑止力』です。井口、現段階での我々の任務は、特異現象の監視と解析。観測データを優先することが、行政として最善の措置です。彼の能力は、今、この不安定な状態を維持する『抑止力』として機能していると考えます。観測は全地点で継続、本部へ応援要請を入れてください。しかし、現場への直接的な干渉は行えません。これが、行政として最善の選択だと判断します」
彼女の冷たい視線の先には、特異現象の解析データが点滅していた。五幡の言葉は、まるで感情の介在しない行政文書を読み上げるかのように、淡々と締めくくられた。




