刻(とき)のまほろびと
新しい拠点の地下室に、無数のモニターとサーバーラックが設置されてから、三日目の夜だった。葉月は、時任の指示に従い、運び込まれた膨大な研究機材のセットアップを続けていた。旧地下室の埃っぽい空気とは打って変わり、この空間は冷却ファンとサーバーの駆動音で満ち、まるで生き物が脈打つようだった。
時任は、メインモニターの前に立ち、腕を組んだまま葉月を見守っていた。その視線は彼を通り越し、背後の機材群に注がれている。まるで、新しい「世界」の設計図を頭の中で描いているかのように。
「先生、これで……最後の機材の接続が完了しました」
報告する葉月の声には、わずかに緊張が混じっていた。時任はゆっくりと振り向き、静かに頷いた。
「ご苦労だった、葉月君。これでようやく、本格的な実験を始められる」
その声には抑えきれない高揚が滲んでいた。葉月の胸に、得体の知れない不安が広がる。これまでの研究は「過去の再現」に過ぎなかった。だが、これからは――「未来の創造」だ。
「先生……これから、何をするんですか?」
震える問い。時任はその言葉を待っていたかのように、口角を上げた。
「この不完全な世界を、より良きものに変えるのだ」
短い一言。それだけで十分だった。葉月は言葉を失う。師の思想は純粋すぎて、だからこそ恐ろしい。
時任の視線が、机の上の一枚のメモに止まる。葉月が趣味で書き留めていた和歌だ。彼はそれを手に取り、指先でなぞりながら目を通す。
麗しき まほろばの空
悲しきは 刻に滲みて 流れ行くこと
「……悲しきは、刻に滲みて、流れ行くこと、か」
時任は低く呟き、ゆっくり顔を上げた。葉月の歌を、自らの思想にねじ曲げて結びつけながら。
「君は、すでにこの真理に気づいていたのだな」
彼は葉月を見ず、モニターに視線を戻した。そこにあるのは、温厚な師の面影ではなく、狂信と決意の光だった。
「悲しみが時の流れに滲むような、不完全な世界は終わらせねばならない。真のまほろばを創る。そのために――我々が在るのだ」
声は静かだが、地下室全体に染み入るようだった。
「刻のまほろびと……」
時任はその名を口にした。まるで、物語の始まりを告げる鐘の音のように。
葉月は、血の気が引いていくのを感じた。自分が師の狂気によって、この物語の登場人物にされてしまったのだと悟りながら。
否定の言葉はもう出てこない。ただ、黙って頷くことしかできなかった。
新しい拠点には、時任の声だけが、冷たくも力強く響き渡っていた。




