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港町異聞録 ―幼馴染と怪異に振り回される日々―  作者: あったくん
第三章 『繰り返される日々』
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拠点

 葉月が佐藤に記録メディアを渡してから、数日が経過した。佐藤はあの夜以来、葉月と頻繁に連絡を取り合うようになっていた。時任の研究資料に関する質問は、日を追うごとに詳細になり、佐藤の知的な好奇心と、時任の危険な思想への戸惑いが入り混じっているのが、短いメッセージのやりとりからも見て取れた。


『先生の研究資料、拝見しました。驚くべき内容です。特に「時間位相の歪み」という概念は、我々のデータ管理技術の常識を覆すものです』


 佐藤は都内でデータ管理に関するコンサルティング会社を経営している。彼の会社は、クライアントの重要なデータを預かるため、郊外に自前のデータセンターも所有していた。その専門知識に裏打ちされた冷静な分析は、葉月にとって心強いものだった。しかし、葉月が時任の近況を伝えるたびに、佐藤の返信はどこか戸惑いを含んだものになった。師の生存を喜びながらも、その危険な思想に恐怖を抱いているのが、わずかな言葉の端々から伝わってくる。


 葉月は、佐藤の複雑な感情を理解できた。彼自身もまた、同じ葛藤を抱え続けていたからだ。しかし、時任の悲しみを目の当たりにした葉月にとって、もはやこの道を引き返すという選択肢はなかった。時任がかつて漏らした悲痛な叫び──『私は、同じ悲劇を繰り返させたくないんだ。あの日の、絶望を繰り返したくないんだ』──その言葉が、葉月の心に深く突き刺さっていた。それは時任の狂気でありながら、同時に、彼が追い求めた理想の根源でもあった。葉月は、その孤独な戦いを支えることが、自分の使命だと信じていた。


『先生の計画に、あなたのデータ管理の知識がどうしても必要です』


 葉月がそうメッセージを送ると、佐藤からの返信はすぐに届いた。


『わかってる。わかってるけど、これ、本当に…』


 その言葉は途中で途切れていた。葉月は、佐藤が何度も打ちかけ、そして送信をやめた言葉の塊がそこにあったような気がした。


 葉月は返信を待たず、時任のいる地下室へと向かった。


 地下室の重い扉を開けると、埃とカビの入り混じった空気が、葉月の鼻腔を刺激した。蛍光灯の明かりはチカチカと点滅し、剥き出しの配線が床を這い、モニターが何台も所狭しと並んでいる。時任は、その中央に陣取った古い椅子に座り、数十枚のモニターを操作していた。彼の指は流れるようにキーボードの上を滑り、ただ青白い光が彼の顔を照らしている。


「葉月君か。佐藤君との接触は順調なようだね」


 時任は、葉月の方を一瞥もせず、淡々と言った。


「はい。佐藤さんから、メッセージが届きました。彼の会社が持つデータセンターの地下を使えるかもしれません」


 時任は、葉月の報告にわずかに口元を緩めた。


「そうか。ならば、もうここには用はない」


 時任はそう言うと、手元にあった配線の束を床に放り投げた。乾いた音が薄暗い空間に響く。


「この場所も、もう手狭だ。これから実験を本格化させるには、もっと広い空間が必要になる」


 葉月は、時任の言葉に安堵した。これで、佐藤が明確に協力を表明したわけではないことを、時任も理解しただろう。しかし、時任は、葉月の心の動きを読み取ったかのように続けた。


「新しい拠点は、佐藤君が所有しているデータセンターの地下だ。時空間の歪みを安定させるには、周囲への影響を遮断する、強固な防音性と防振性が不可欠だからね」


 葉月は、時任が佐藤の決断を確信していることに背筋が凍るような感覚を覚えた。佐藤を巻き込んでしまったという罪悪感と、時任の狂信的な確信。その二つが葉月の心を重くした。


 葉月は、時任の指示に従い、地下室に散乱した研究機材を梱包し始めた。埃を被った古いデスクトップパソコン、無数のケーブル、そして、時任が研究に用いていた、特殊な形状の基板。それらを段ボールに詰め込むたび、葉月はケーブルを握る手のひらに、じっとりと汗がにじむのを感じた。


「先生、これ、どうしますか?」


 葉月は、机の片隅にあった小さなホログラム投影機を指差した。それは、時任が葉月にあの日の事故を再現して見せた、あの機械だ。時任は、ちらりとそれを見ると、ほんの一瞬だけ、その指先が震えたように見えた。しかし、それはすぐに消え、彼は何も言わず、ただ首を振った。


「そのホログラム投影機はもういらない。過去の『残滓』を観測する道具は、もう必要ない。我々は、これから未来を創るのだから」


 葉月は、時任の言葉に、わずかな安堵を覚えた。しかし、その安堵はすぐに、深い不安に変わった。過去を捨て、未来を創る。それは、時任の狂気が、次の段階へと進もうとしていることを意味していた。


 数日後、葉月と時任は、郊外のビルへと向かった。駅に隣接する駐車場でレンタカーを借り、ナビに従って車を走らせた。道中、葉月は何度もサイドミラーに映る自分の顔を見た。その表情は、ひどく疲れていて、まるで別人のようだった。


 ビルの一階ロビーには警備員が一人いるだけで、佐藤の姿はなかった。佐藤は彼らが来ることを知っていたはずだ。葉月は、その不在に、彼がこの計画に直接関わることから距離を置きたいという最後の抵抗なのか、それとも、時任の狂気から目を逸らしたいという弱さなのかを考えた。そして、エレベーターのボタンを押すと、時計を無意味に見て、秒針の音に耳を澄ませた。


 地下のエレベーターを降りると、ひんやりとした空気が葉月の肌を包んだ。旧地下室とは比べ物にならないほど広々とした空間には、すでに真新しい機材が運び込まれていた。それは、佐藤の会社がデータセンターで使用しているものと同じ、最新鋭のサーバーラックや計測機器だった。葉月は、その光景を前に、呼吸が止まるような圧迫感を感じた。佐藤が、明確な言葉を交わすことなく、この危険な計画を支える決意をしたことが、その場に運び込まれた機材によって、静かに、しかし決定的に示されていたからだ。


 時任は、満足げにその光景を見つめていた。彼の目には、かつての研究所の面影はなかった。あるのは、ただ、目的を達成するためだけに構築された、無機質で合理的な空間だけだった。


「ここは、我々が理想の世界を創造するための、最初の拠点だ」


 時任の声が、静かに響く。


「君が佐藤君を連れてきてくれた。彼のデータ管理の知識は、この計画をより強固なものにするだろう」


 葉月は、時任の言葉に、何も答えることができなかった。彼は、自分の手で、佐藤という一人の人間を、時任の計画という名の奈落へと突き落としてしまったのだ。


 時任は、葉月の沈黙を気にする様子もなく、新しいサーバーの前に立った。彼の指が、キーボードの上を滑らかに動き、モニターに無数のコードが流れ始める。


「これから、最初の実験を開始する」


 時任はそう言うと、葉月に振り返った。その瞳には、かつての温厚な師の面影は微塵もなく、ただ、無慈悲なまでの決意と、狂信的な光が宿っていた。


「【時間位相の歪み】を、安定化させる」


 時任の声が、空間全体に響き渡った。葉月は、その声を聞いた瞬間、息が詰まるのを感じた。手足の先からじんじんと冷えていく。これから始まる実験が、どれほど危険なものなのか。そして、この実験が、彼の人生を、そして世界を、どれほど大きく変えてしまうのか。葉月は、その予感に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

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