旧試験型動力炉研究所 III
早朝の研究所は、まるで深い海の底にいるかのような静寂に包まれていた。だが、その静けさの内側では、誰もが息をひそめ、今日という日を待っていた。人類の未来をかけた最終実証実験の日。管制室には、選ばれたごく少数の研究員だけが集まっている。彼らの顔には、歴史の証人となることへの興奮と、拭いきれない緊張が浮かんでいた。
時任黎明は、管制室の中央に立ち、最終的なチェックを行っていた。彼の動きは無駄がなく、すべてが流れるようにスムーズだった。その姿は、まるで何十年もこの実験を繰り返してきたかのようだった。彼の完璧な自信は、周囲の張り詰めた空気を和らげるどころか、より一層の重圧として研究員たちの心にのしかかっていた。彼らは皆、時任の言葉を盲目的に信じていた。時任が「大丈夫だ」と言えば、それは絶対なのだ。
その最中、御厨隆は、管制室の片隅で、自分の端末に表示される膨大なデータを睨みつけていた。昨日、時任に最後の警告をしたが、聞いてもらえなかった。彼は、それでも諦めきれずに、昨晩から徹夜で再シミュレーションを繰り返していた。しかし、何度計算しても同じ結果に行き着く。
小さなノイズ。しかし、その「ノイズ」は、パラメータが変動するたびに予測不能な振る舞いを見せ、やがて巨大な磁場の歪みへと増幅される可能性を示唆していた。それは、時任が言うような「些細なもの」では決してなかった。それは、破滅への予兆だった。
「先生、準備は整いました。いつでも開始できます」
若手の研究員の一人が、尊敬の眼差しを時任に向けながら告げた。時任は小さく頷き、コンソールに手を置いた。
「…起動開始」
時任の静かな一言が、静まり返った管制室に響き渡る。御厨の心臓が、警鐘のように不規則に脈打った。
実験が始まった。管制室の巨大なホログラムディスプレイに、量子コアの稼働状況を示すグラフが映し出される。量子空間からエネルギーを取り出すためのゲートが開き、量子コア内部で淡い青い光が脈動を始めた。
最初はすべてが順調に進んでいるように見えた。グラフは時任の理論値と寸分違わずに推移し、研究員たちの間に安堵と興奮が広がっていく。
「見てください、先生!理論値に完璧に収束しています!」
「素晴らしい!やはり、先生の計算は間違っていなかったんだ!」
しかし、御厨は歓喜に沸く同僚たちの中で、一人だけ冷や汗を流していた。彼の端末の再シミュレーション結果が、その完璧なグラフの裏側に隠された、恐るべき真実を告げていたからだ。量子コアの出力が上昇するにつれ、磁場の歪みがわずかに増加し始めている。まだ肉眼では捉えられない、極めて微細な、しかし無視できない兆候だった。
「時任くん!待ってくれ!磁場の歪みが理論値からずれている!」
御厨の悲痛な叫び声が響く。だが、時任は振り返りもせず、冷静な声で言い放った。
「心配ない。それはシステムの些細なバグだ。御厨さん、あなたはデータに囚われすぎている。人間の目で見て、何も問題はないだろう?」
時任は冷静に言い放った。若手の研究員たちは、時任の言葉に戸惑いながらも、実際に目で見て異常がないことを確認すると、それ以上何も言えなかった。彼らの心の中では、天才への信頼と、科学者としての義務感が激しくぶつかり合っていた。
御厨は、そのやり取りを離れた場所から見ていた。彼の顔は青ざめ、額に冷や汗が滲んでいた。彼は、時任の言葉が事実を無視した、ただの願望に過ぎないことを理解していた。しかし、この場にいる誰もが時任を信じ、彼の独裁的な決定に従っている。
「先生!このままでは…!コアの温度が急上昇しています!」
若手研究員の声が、それまでの歓喜から恐怖へと変わる。ディスプレイに表示されたグラフが、急激に跳ね上がり始めた。量子コアの淡い光が、一瞬、強烈な白光へと変わる。そして、その光は、歪みながら赤く変色していった。
「なんだ…これは…?」
「まさか…そんなはずは…!」
研究員たちの顔から血の気が引いていく。時任は、初めて動揺の表情を見せた。彼もまた、この現象が自身の計算の範疇を超えていることに気づいたのだ。
「馬鹿な…。ありえない。私の理論は完璧なはずだ…!」
時任の叫び声が虚しく響く。管制室の警報システムがけたたましい音を立て始めた。
「警告!量子コア、臨界点突破!磁場の歪み、上昇中!制御不能!」
緊急警報が鳴り響く。御厨は、何かが起こることを予感し、必死に脱出を促そうと叫んだ。
「みんな!早く脱出しろ!このままでは…!」
だが、彼の言葉は、凄まじい轟音にかき消された。量子コアを中心に、空間がまるでガラスのようにひび割れ、砕け散る。
その瞬間、御厨の視界が歪んだ。管制室の景色が、まるで水面に映った蜃気楼のように揺らぎ、次の瞬間には、すべてが闇に塗りつぶされた。
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次回もまた、港町でお会いしましょう。




