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海母

 アーク・プラザの上空に現れたワタツミの巨大な水の塊は、まるで生きているかのように蠢き、不気味な海鳴りのような音を響かせていた。その圧倒的な存在感に、結城、神楽、呉羽は一瞬、言葉を失った。


「信じられない…これが、教主の言っていた『古き調和への回帰』…?」


 呉羽の震える声が、静寂を破った。彼のタブレットの画面は、異常な数値と警告を点滅させている。ワタツミから発せられる波動は、これまでの『影』の比ではない。それは、この街全体をゆっくりと、しかし確実に飲み込もうとしているかのように感じられた。


 その時、結城の頭の中に、教主の声が再び響いた。


『どうした? その顔は、何を恐れている? お前は、大切な者を目の前で守れなかった。お前の無力さゆえに、何も変えられなかったのだ』


 教主の声は、結城の脳内で、桜が『影』に襲われ、倒れる瞬間の光景を鮮明に再現した。無力だったあの日の自分、何もできなかった後悔。教主の声は、その痛みを何度も、何度も言葉で突きつけてくる。


『この街は、すでに『母なる海』の波に飲まれつつある。抗うことは無意味だ。我らと共に、あるべき「根源」へと回帰するのだ』


 結城は顔を歪め、教主の声に抵抗する。桜を守れなかった無力感は、確かに彼の心を蝕んでいた。しかし、今度こそ、目の前の人々を、この街を守り抜くという強い意志が、その恐怖を押し返そうとしていた。


 その時、神楽が隣で苦悶の表情を浮かべ、その場に膝をついた。


「…この感情、まるで海…。街中の悲しみや憎しみが、全部ここに集まってきてる…」


 神楽は、ワタツミから発せられる波動が、人々から放出される負の感情と共鳴し、その力を増幅させていることに気づいた。


「呉羽…。この波動、人々の感情を吸い取って、どんどん大きくなっている…」


 呉羽は、神楽からの情報を受け取ると、タブレットの画面を凝視しながら叫んだ。


「なるほど!ワタツミは、人々の負の感情を動力源としているんだ!教主の精神干渉は、その感情を増幅させるためのトリガー…!」


 その時、タブレットの画面の隅に、凛のホログラムが現れた。


「マスター。神楽さんの観測結果と、私の解析結果が一致しましたですぅ。教主の声は、ワタツミの波動と同期している可能性が高いですぅ。もし波動を乱すことができれば、教主の干渉も弱まるかもしれませんですぅ」


 凛の電子音声は、いつもの快活な口調だったが、その言葉には、データでは説明できない不確かな事態に対する、微かな焦りがにじみ出ていた。


 呉羽は、凛の解析結果に基づき、ワタツミの波動を乱すためのプログラムを急いで構築し始めた。


「結城!ワタツミの波動を乱すには、この場所で最も強い波動を放つ存在を、一時的に無力化するしかない。頼む、時間を稼いでくれ!」


 呉羽の言葉に、結城は無言で頷いた。彼の瞳は、もはや恐怖に揺れていなかった。あるのは、守るべき人々、そして友への強い決意だけだった。


 結城は、教主の精神攻撃を振り払い、呉羽と神楽を背後にかばいながら、巨大なワタツミの水の塊を仰ぎ見た。空を覆う水のうねりは、ただ静かに彼らの上に広がっていた。

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