予兆
激闘から数日、日常は脆いガラス細工のようだった。一度の衝撃でひびが入り、粉々に砕けてしまうのではないかという危うさが、その平穏を覆っていた。学校のチャイムも、廊下の喧騒も、結城にはどこか遠い世界の音に聞こえる。彼の脳裏には、いまだあの不気味な海鳴りが響き、平穏な世界との間に深い溝を刻んでいた。神楽も、呉羽も、表向きは変わらない。だが、三人の心には、あの夜の記憶が、鮮明な残像となって焼き付いている。
廊下には賑やかな話し声が響き、教室の窓から見える空はどこまでも青い。結城は、ふとした瞬間にあの海鳴りの音を幻聴のように感じ、周囲を見渡す。皆はいつも通りで、誰もその音に気づいていない。
そんなある日の昼休み、教室の入り口で、結城は思いがけない人物と目が合った。
御凪遥。
彼女は事故以来、ずっと休学していたはずだった。顔色はまだ少し蒼白だが、いつもの席に静かに座り、読書に耽っていた。結城は、彼女が戻ってきたことに安堵と同時に、胸の奥に引っかかる違和感を覚える。彼女が倒れたのは、自分たちが追っている怪異と無関係ではない。
放課後、結城は呉羽と神楽を連れて、御凪遥の元へと向かった。
「あの、御凪さん、久しぶり。体調はもう大丈夫?」
結城が声をかけると、御凪遥はゆっくりと顔を上げた。彼女の瞳は、昔と変わらず物静かだが、どこか遠くを見ているような、ぼんやりとした光を宿していた。
「…松島くん」
御凪遥は静かに微笑む。結城は、言葉を選びながら、慎重に問いかけた。
「無理に聞くつもりはないんだけど、もし少しでも覚えていることがあれば、聞かせてもらえないか…? その、倒れた時のこと」
結城の問いに、御凪遥は少し眉根を寄せ、考えるように首を傾げた。
「…ううん、あまりよく覚えてないの。ただ…」
彼女の言葉が途切れる。結城は、身を乗り出すようにして続きを促した。
「ただ…?」
「変な音が聞こえたような、気がする。とても深くて、重たい…海の底から響いてくるような、大きな音。それと、水の中にいるような…ふわふわした感覚…」
彼女はそう言うと、再び読書に視線を落とした。
結城と呉羽、神楽は互いに顔を見合わせる。御凪遥の言葉は、御食津の松原で聞いた「海鳴りのような音」を彷彿とさせるものだった。やはり、彼女の事故はあの怪異と繋がっていたのだ。
「…御凪さん、ありがとう。無理に思い出させてごめん」
結城が謝ると、御凪遥は再び顔を上げ、穏やかな笑顔を見せた。
「いいの。でも、松島くんも気をつけてね。あの音は、一度聞くと、もう忘れられないから…」
その言葉は、御凪遥の口から発せられたとは思えないほど、深淵な響きを持っていた。まるで、彼女自身がその音に取り込まれてしまったかのように。
帰り道、三人は沈黙したまま歩いていた。
「呉羽、彼女の話だけど、どう思う?」
結城の問いに、呉羽は腕を組み、深刻な表情で答える。
「推測だが、御凪さんは『影』のエネルギーに触れたことで、何らかの影響を受けているのかもしれない。あの『海の底から響く音』は、やはりワタツミの目覚めを告げる胎動のようなものだろう」
神楽は、黙って結城の隣を歩いていた。彼女は、御凪遥の言葉を聞いた時、自分の脳裏に浮かんだ残滓と、その「音」が重なる感覚に、恐怖を覚えていた。
そしてその日の夜、結城のスマートフォンにメッセージが届いた。
『緊急事態だ、結城! りんたんのセンサーが、市内の広範囲で異常な波動を検出した! これは…御凪さんから聞いた、あの音の観測結果と完全に一致する…!』
そのメッセージと同時に、再びあの深く重い海鳴りのような音が響き渡る。それは幻聴ではなく、現実の音だった。




