白い足跡(小鳥さん全開)
「ことりさん」――
あの名前を口にして以来、胸の奥で何かがうずいていた。
誰かの名前なのか。
僕の中だけの妄想なのか。
あるいは、ずっと前に会ったことがある“何か”の記憶なのか。
わからないまま、旅は続いた。
今回は南へ向かう。
日本海を離れ、山あいを通って長野を抜ける。
途中、ぽつんと佇む小さな温泉街に立ち寄った。
平日の昼間。観光客の姿はまばらで、路地には静寂が降りていた。
古びた旅館の並ぶ通りを歩いていたとき、一軒だけ「空室あり」と書かれた宿が目に入った。
――今日は、ここに泊まろう。
受付には人の姿がなかったが、奥から年配の女将さんが現れて、にこやかに迎えてくれた。
部屋は二階。鍵を受け取り、畳の部屋で荷物を置く。
窓の外には、雪解け水が流れる細い川と、向こうの山の裾野。
春の匂いが、かすかに風に混じっていた。
風呂に入り、食事を終えて、布団に入ったのは夜の九時過ぎだった。
疲れていたせいか、すぐにまどろみに落ちていく。
――コツ、コツ、コツ。
まただ。
誰かの足音。
今度は廊下を歩く、それも素足のような、ぺたぺたとした音だった。
でもそれだけじゃない。
部屋の外で、誰かが――止まった。
ドアの向こう側。
気配が、立っていた。
息を殺して耳をすませると、今度は畳を歩く音が……。
……え?
鍵は……閉めたはず。
僕はそっと目を開けた。
部屋の明かりは消えていて、月明かりが障子からかすかに差し込んでいる。
……何も、見えない。
でも、いる。
ふすまの向こうから、じっとこちらを見つめる“気配”。
(……ことり、さん?)
なぜか、またその名前が頭に浮かぶ。
その瞬間――ふすまの下、影がスッと横切った。
それも、足だった。
白くて細い、女の人の足首。
その足跡が畳の上にポタポタと、濡れた跡を残している。
まるで、川から上がってきたみたいに、水を滴らせながら。
(やばい……)
心がそう叫ぶより早く、身体が金縛りのように動かなくなる。
背中が汗でびっしょりと濡れていた。
足音は、ゆっくり、ゆっくりと、布団の方へと近づいてきた。
(見えないのに、近づいてくるのがわかる)
(ああ、来る……!)
そこで僕は、いつものように呪文を唱えた。
「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」
声に出せないので、心の中で何度も、何度も。
すると……足音が止まった。
静寂が戻ってくる。
……と、思った。
けれど――その“何か”は、僕の枕元に、座った。
畳が沈む気配。重み。冷気。
そして、耳元で……声がした。
「みつけた。」
パチッ、と目が覚めた。
朝だった。
窓の外から差し込む光。鳥の声。
さっきまでのことは……夢だったのか?
でも、布団の横の畳に、ポツポツと水の跡が残っていた。
恐る恐るふすまを開けて外に出る。
誰もいない廊下。女将さんの姿もない。
フロントまで降りて、チェックアウトの準備をするが、呼んでも誰も来ない。
仕方なく、カウンターに鍵を置き、玄関から外へ。
その時、背後から小さな声がした。
「……ありがとう」
まただ。
ことり、さん……なのか?
でも、返事はなかった。
ただ、宿のすぐ横の川を見たとき、僕は息を呑んだ。
川辺に、女の人の後ろ姿があった。
白いワンピース、長い髪。
そして――川面に、浮かぶはずのない影だけが、足元に広がっていた。
僕が声をかけようとした瞬間、その姿はフッと霧のようにかき消えた。
そのあとには、ひとひらの桜の花びらだけが、川の上を静かに流れていった。
今でもあの宿がどこだったのか、思い出そうとすると、頭の中がぼやけてくる。
けれど、あの足跡とあの声だけは、妙に鮮明に焼き付いている。
あれは、いったい何だったのだろうか。
“ことりさん”は、いったい何者なのだろうか――。




