海を越えた山
私は、小さな漁港の町で生まれ育った。
海のある風景が日常に溶け込みすぎていて、「海を見てどうなのよ?」なんて言われても、正直なところ、自分でも「それがどうしたのよ?」と思う。
そんな私が、子どもの頃に犯した、ちょっとした冒険……いや、不法侵入の話をしようと思う。
町の海岸沿いに、もう何年も使われていない古い旅館が一軒ぽつんと建っていた。窓は板で打ちつけられ、入口は金網で封鎖されている。地元では、ちょっとした肝試しスポットだった。
もちろん、子どもというのは怖いもの見たさの塊みたいな生き物で、大人に見つかることをスリルと呼び、悪さを冒険と呼ぶ。私も、そんな子どもだった。
ある日、金網をよじ登って、旅館に侵入した。
ただそれだけのことなのに、心臓はバクバクして、まるで映画の主人公にでもなった気分だった。
そして中に入ったら、もう満足。目的は達成された。あとはこっそり帰るだけ──そのはずだった。
ところが、田舎のくせに、よりによってその時だけ人影が近づいてきた。
「やばい、見つかる!」
私は慌てて旅館の裏へと回り込んだ。そして、息を呑んだ。
──広い。
驚くほどの広さだった。旅館の裏手に、サッカーグラウンドが三面は取れそうな開けた空間が広がっていたのだ。
「こんな場所、あったっけ……?」
見慣れた町のはずなのに、初めて見る景色。けれど、子ども心に「ここを抜けて山を越えれば、家に帰れる」と思った。
そうして、私は山を登り始めた。裏山なんて大したものじゃない、せいぜい一時間あれば超えられる──そう思っていた。
けれど、山は終わらなかった。
何度登っても、終わりが見えない。時計を見れば、もう午後の三時。朝の十時に旅館に入ったのだから、もう五時間も経っている。
怖くなった。
どれほど歩いても景色は変わらず、空は高く、木々は黙って私を見下ろすだけだった。
もう、帰れないのかもしれない。
その時の私は、たぶん泣いていたと思う。
でも──そのあとに見た景色だけは、今でも鮮明に覚えている。
夕方が近づき、やっと山の頂上にたどり着いたとき。
そこには、海が広がっていた。
私は海を背にして山を登ってきたはずなのに、目の前には水平線が広がり、夕日に照らされて黄金色に輝いていた。
ふと振り返ると、そこにも海があった。
背中にも、目の前にも海。しかも、頂上に近いその場所には、まるで湖のように閉ざされた海と、そこに浮かぶ大きなヨットがあった。
──海というには高すぎる。
──湖というには広すぎる。
その風景は、どこかこの世のものではなかった。
静かで、あまりに美しく、私はただ立ち尽くすしかなかった。
……そのあとの記憶がない。
どうやって帰ったのかも、誰かに助けられたのかも、まったく思い出せない。ただ、気がついたら家にいて、旅館の裏にあったグラウンドも、あの海も、誰に聞いても「そんなものはなかった」と言われた。
後に、大人になってGoogleの地図で調べてみても、旅館の裏には木々が生い茂るだけで、広場もなければ登山道もない。あの旅館自体、すでに解体されて跡形もなかった。
──あの日、私はどこへ迷い込んだのだろう?
もし、あのおかしな空間に入った瞬間から、どこか別の場所に繋がっていたのだとしたら。
もし、あの場所が本当に「この世のものではなかった」としたら。
今でも、あの風景を絵にできたらと思う。幻想的で、光に満ちて、どこか懐かしくて哀しい海。
絵心があれば──きっと、何かの賞が取れたかもしれない。
けれど、あの風景を描くすべもなく、私はただ、心の中にあの日の海をしまっている。