軍服の人
東北の町に引っ越してきて、もうしばらくが経った。
理由は特にない。
都会の喧騒に疲れて、ただ静かな場所で暮らしたかっただけだ。
アパートは古いが、特に問題もなく、仕事と部屋を往復するだけの穏やかな日々。
それが、何よりありがたかった。
最初は、ほんの違和感だった。
部屋の隅。
寝ているときにふと目を開けると、誰かが足元に立っていた。
――誰?
暗がりの中、はっきりと見えたわけではないが、
その人が“軍服”を着ていたのは妙に鮮明に記憶に残っている。
映画やドラマで見たような、古い時代の軍服。
ぴしりとした姿勢で、ただ無言でこちらを見下ろしていた。
……気のせいだろう。
そう思って、やりすごした。
霊的なものには、多少なりとも慣れているつもりだったから。
だが、数日経っても、その“お兄さん”は姿を消さなかった。
それどころか、少しずつ近づいてきた。
ある夜。布団に入った私の耳元に、くぐもった声が響いた。
「……こっち、おいでー」
耳元で囁かれたそれは、どこか甘えるようでいて、背筋に冷たいものを走らせた。
冗談じゃない。
私は、絶対に行かない。
そう心に誓っても、夜になるたびに彼は現れた。
立っているだけ。
時折、声をかけてくるだけ。
でも、その“立っているだけ”が、恐ろしく不気味なのだ。
日中、アパートを離れている時は何もない。
ただ、夜。寝室。足元。
そして、3か月が過ぎた頃だった。
彼は、手を伸ばしてきた。
「おいで」
その声は、明らかに私を“向こう”へ誘っていた。
……向こうって、どこだ。
あの声に応じてしまったら、私はどこへ行くのだろうか。
それを考えた途端、全身に冷たい汗が噴き出した。
私は、何も応えなかった。
返事をせず、目を閉じたまま、ひたすら無視した。
それ以来、お兄さんはまだ毎晩のように現れるが、
なぜか“それ以上”はしてこない。
呼ぶだけ。
立っているだけ。
ただ、それだけが、ずっと続いている。
……
何を伝えたいのかは、いまだにわからない。
でも、一つだけ、はっきりしていることがある。
あの声に応えたら、きっと、戻れない。