氷の薔薇は砕け散る
公爵令嬢シルビア・メイソンの人生は順風満帆だといえた。
流れるような白銀の髪に、湖を閉じ込めたような青い瞳。その美貌に『氷の薔薇』と二つ名を付けたのは誰だったか。
そして生まれ持っての地位と、『第一王子ローワンの婚約者』という肩書が、ますますその美貌と立ち振る舞いに拍車をかけ、このまま順調に王妃となるのだろう、と信じて疑わなかった。
シルビアは王宮の廊下を、両親の後に続いてしずしずと歩いていた。
時折すれ違ってこちらに礼をする使用人や騎士たちの視線を、心地良く感じながら。
ルキシュ王立学園最終年最終学期。王宮からの呼び出しには少々驚いたが、時期的に結婚のことだろう、と見当をつける。
(でももう遅いわ。だって私には……)
内心でこっそりとほくそ笑む。
卒業パーティでローワンに婚約破棄を突きつけられるが、冷静なフリをして『承りました』と答えよう。その場を立ち去ろうとすると呼び止められ、振り向くと……。
などと他人が知ったら『頭がおかしくなったのか?』と真剣に心配されそうなことを考えるシルビア。が、彼女は頭がおかしくなってなどいない。一応。
何故なら彼女は『日本』という国の『転生者』。生前の彼女はどこにでもいる……悪くいえば夢見がちな、18歳の少女だった。受験に失敗し、予備校通いの日々を送る中、彼女の心を安らげていたのは、一冊の小説だった。
そのタイトルは『冤罪を着せられて婚約破棄されたのに! どうして隣国の王太子に溺愛されてるの!?』。あらすじはタイトルが全てを物語っているが、彼女はこれにハマって繰り返し繰り返し読みこんだ。登場人物の台詞はもちろん、文章を空で言える程に。
そして何時しか彼女は、小説の主人公であるシルビア・メイソンと自分を同一視するようになった。自分はこの世界の人間じゃない、本当は公爵令嬢シルビア・メイソンであるのだと。それは現実からの逃避だと他者から諭されればまだ救いがあったのかもしれないが、彼女はそれを口に出すことはなく、頭の中で妄想するだけに留めていた。よって不幸にもその妄想は暴走してしまい、留まることを知らず、半ば憑りつかれた状態になったところで彼女は前世を終えた。
そうして大好きな小説の世界、しかも主人公のシルビア・メイソンに転生したと気付いた時の彼女の歓喜は、言うまでもないだろう。
(ああ、楽しみ。だって私の人生はこれからだもの。小説では婚約破棄されたところからスタートだったから、焦れったかったわ)
まだ見ぬ将来に胸を弾ませている内に、扉へと辿り着いた。
使用人たちが開けてくれるのに合わせ、足を踏み入れる。室内では既に国王陛下、王妃、そしてローワンが待っていた。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません」
揃って最上位の礼を取れば、陛下は「構わぬ」と頷いて、座るように促した。それに答え、両親と共にシルビアはソファへと腰をかける。
陛下が重々しく口を開いた。
「さて、卒業間近の忙しい時期に呼び立てて申し訳ない。しかし、卒業後にはローワンの立太子儀式が控えておる」
予定通り、陛下はローワンを王太子とすることを決めたのだ。
「それに伴い……ここからはお前の口から告げよ」
促され、ローワンは「はい」と頷いてシルビアを真っすぐに見据えた。
「シルビア」
名を呼ばれ、シルビアは「はい」と返事をして、その瞳を真っすぐに見返す。
どのような言葉を言われたとしても、自身の心は揺れ動くことはない。今までもずっとそうだったから。
そう、彼とは物語の進行上『必要だから』婚約しただけ。そこに情だの愛だのが存在する筈はない。
だから静かに、だが内心では小さく嗤いながらローワンが口を開くのを待つ。
「君との婚約は破棄とさせていただくよ」
瞬間、息が止まった。
え? なんで? どうして? いえ、婚約破棄はその通りだけど、時期が早過ぎる、それ以前に場所だって違う。
あれこれと混乱するシルビアを他所に、父が口を開いた。
「な、何故ですか、殿下!? シルビアにどのような不手際が」
「不手際だらけですよ、メイソン公爵。シルビア嬢は王太子妃としてふさわしくない。何故、親である貴方が把握していないのですか?」
ぐっ、と言葉に詰まるメイソン公爵に溜息を吐き、ローワンは言葉を続ける。
「まずやるべき王太子妃教育を満足にこなせない。王妃になるにはマナーやダンスだけではなく、教養が求められる。基本的な勉強はもちろんだが、王妃たる立場にある故の専門的なこと、また近隣諸国である最低3国の言葉や文化を学ぶ必要がある。これらは内政だけではなく外交をスムーズにするために不可欠な勉強だと私の婚約者となってから、幾度となく教えられた筈。なのにシルビア嬢の成果ときたら、今日に至るまで半分も進んでいないと報告を受けていますが?」
初耳だったのか、メイソン公爵と夫人の顔が青ざめた。
「シルビア、王太子妃教育は『問題ない』と言っていたが、あれは嘘だったのか?」
「よく体調を崩していましたが、それは教育が厳しいからだと思っていました。まさか……」
シルビアは何も答えない。いや答えられなかった。
よく『体調が悪い』などと言ってのらりくらりと王太子妃教育をサボっていたのは事実だからだ。自分は『この国』の妃にならないから、という言い訳まで付けて。
生前勉強嫌いだった性根は、生まれ変わっても直らなかった。だから受験に失敗するのだろうが。
「もう一つ、学園での態度も見られたものではない。身分を笠に着て、他人を見下す言動が多いと。具体的にいえば容姿や身体的特徴に対しての暴言が20回以上、実力や素質に対するものが40回以上、日常内のふるまいに対するものが60回以上、これらは一か月内に行われたとのことだ」
「……冤罪ですわ。どなたがそのようなことを仰られているの?」
負けじと言い返すも、ローワンの表情は変わらない。
「複数の被害者が教師に訴えたのだよ。そこから王家密偵の『影』の調査が入った結果だ。教師からも再三指導が入ったにも関わらず、言動を改めなかったそうだね。私からも『身分で人を判断してはいけない。国は人がいなければ成り立たないのだから』と進言したのだが……無駄だったようだ」
「何ということを……!」
「公爵家の者としてなんと恥ずかしい……」
公爵夫妻は顔を手で覆って嘆くしかなかった。自分たちの教育が間違っていたと知って。正しくは間違っていたのではなく、公爵夫妻はきちんと貴族の心構えを教育していたのだが、シルビアがそれを身に付けようともしなかっただけなのだが。
それにローワンは少しだけ痛ましい顔をしたが、淡々と言葉を続ける。
「以上のことから、君は王妃にふさわしい人物ではないと判断した。この書類にサインを」
静かに差し出された書類には、既にローワン、そして陛下と王妃のサインがあった。
王家の決意は揺るがない、と判断した公爵夫妻は沈痛な面持ちでサインをした。続けてシルビアもまた、努めて冷静にサインをする。
(ま、まあ、いいわ。時期が早くなっただけで予定通りよ。この国を出るか追放されれば胸を張って隣国に嫁ぐことが)
「それから、君が『仲良くしていたと思っている』グレン・ベネット殿のことだが」
ローワンの言葉に、背筋が凍り付いた。
どく、どく、と心臓が痛い程に鳴る。
まさか、まさか。
「彼は隣国トーラッツからの留学生だが、その身分は王太子だ。君が何故知っていたのかは分からないが、それが目当てで言い寄ったのだろう?」
「い、言い寄ったなど、そのようなことは!」
「ランチを強引に共にする、事あるごとに話しかける、放課後もしくは休日に『2人きり』になろうと誘う……婚約者である私の誘いを断ってまで、君がしてきたことだ。これで言い寄っていない、と言われても説得力がないよ」
「そ、れは……ローワン様はお忙しい、と思いましたので……」
「確かに忙しい日々を過ごしてはいたよ。だけど、婚約者である君のことを蔑ろになどするつもりはなかった。手紙や贈り物は、ちゃんと君に届いていたのかな? お礼どころか言葉もなかったから、心配していたのだけれど」
ローワンは、ふ、と寂しげに目を狭めた。
確かに折を見て手紙や季節の花、ドレスやアクセサリーや小物が届いていたが、シルビアは『どうせ無駄になるのに。ご機嫌取りに必死ね』と嘲笑って何も返さなかった。お茶会などの誘いも最初の内だけ、しかも渋々といった態度を隠さずに。
「君のことは僕なりに大切に想って……いや、想おうとしていた。だけど、これだけのことをされてはもう無理だ」
零れたミルクは元には戻らない。
シルビアは己のしでかした所業に、がくがくと震えた。
確かにここは自分が好きだった小説の世界なのだろう。だけど、ここで生きていくのだから、それは『現実』へと変わる。
物語であれば結末は用意されているが、『現実』は己の行動次第で幾らでも変わる。今更ながらそのことに気が付き、シルビアはぎゅっ、と拳を痛い程に握り締めた。
「最後に勘違いをされては困るから言うけれど、ベネット殿には正規の婚約者がいる。卒業後すぐに帰国し、立太子の儀式を済ませた後に結婚をするとのことだ」
それに『物語』としての未来は潰えたのだと嫌でも実感する。
「……申し訳ありませんでした」
シルビアは深々と頭を下げて、謝罪する。これが、今の自分に出来る精一杯のことだから。
「謝罪は結構。さあ、お客様がお帰りだ。案内して差し上げろ」
淡々とそう告げられ、唇を噛みしめて立ち上がる。
これからは、償うことも許されない、真っ暗な道を歩むことになるだろうけれど。
(それでも私は、この世界で生きていくしかない)
シルビアはそう決意を固め、足を踏み出した。
(終)