第一章 八 伊奈岐の願い
目が覚めるとそこにはまだ見慣れない天井があった。
『見たことがない』と言わず、『まだ見慣れない』と言ったのはその言葉の通り。
それを目にするのは今見ているのも含めて2回目と少ない。が、やがて寝て起きての直前直後、つまり、それを見て意識を途絶し、意識を取り戻してからそれが真っ先に目に入ることが当たり前のことになる、そのことを見越した期待の表れである。ーーーそう、浦須は期待をしているのだ。
意竺の屋敷で働いていた時は十数人の他の使用人たちと一緒に大部屋で寝起きをしていた。人数は多かったが、部屋の広さは十分とられていて狭いと感じることはなかった。いや、それ以前に幼少の頃からそこで生活をしていたから、顔を横に向ければ誰かの寝顔があるだとか、寝てる時に腕や足をぶつけられるだとか、いびきがうるさいだとか、そういうのを当たり前のことだと思っていた。さらに言えば、意竺の屋敷で働く以前も部屋割りなどあるはずのない手狭なボロ屋に母親と二人で暮らしていたので、自分一人だけの部屋が用意されるのは浦須にとって生まれて初めてのことだった。
ーーーそんな良い目を見て大丈夫だろうか
自分の部屋が与えられるなんてこれまで生きてきた中で最も高い待遇ーー破格の待遇と言ってもいい。そのことに期待を抱く一方で身丈に合わない高待遇を受けることに恐れ多さも感じている。それは部屋を与えられたことに限らず、伊那岐に拾われてからこれまで受けてきた彼女らの浦須への対応もそうだ。浦須のような厄介な立場の者を引き取り、寝食と仕事を与え、それでいて親身に寄り添ってもらえる。
「何から何までもったいない話だよな」
「もったいねぇなら俺がもらってやろうか?」
「ーーうわっ!?」
「よう、坊主。朝っぱらから元気いいな!」
呟いた独り言が返されたことに驚いて横に目を向ければ、すぐ隣で目つきの悪い見知らぬ男が身体を横向きにして寝そべっていた。あまりの驚きに大声を挙げて後ずさった浦須を見ながら、その男は何の悪気もなくへらへらと笑っている。
ーーー誰だ、この男は???
浦須の部屋、というより農園の敷地内にある離れに何の咎めもなく入り込んでいる。ーーとすると農園の使用人だろうか。
いや、農園の使用人は老人と老婆に今日浦須が加わって3人だと昨日岩津から聞いている。ーーであれば敷地に自由に出入りする事が許されている伊那岐商会の関係者、若しくは岩津や伊那岐と親しくしている誰かか。
あるいはもっと単純に物取りとか迷い人とか偶然にも誰にも見つからず、許しを得ないまま敷地内に侵入した不埒者なのか。ーーそれにしては堂々とし過ぎている気もするが。
「おーい。大声上げたかと思ったら今度はダンマリかい?おっさん無視されると悲しいぞ」
目の前の男が何者なのか考えを巡らせているとその男は手をひらひらと振ってみたり、顔を両手で覆って泣いた振りをしながら時折指の隙間からちらっとその可愛らしくもない三白眼を覗かせたりしている。
ふざけた男だと浦須は率直に思った。
「……じゃあ聞くけど、あなたは誰ですか?」
男の様子があまりにも緊張感に欠けていて身の内の警戒心が緩んでしまった浦須は男に直接何者なのか尋ねることにした。
「あーー俺?俺はただのおっさんだよ。いや、待った。気のいい男前ないいおっさんだな!」
男の態度に呆れて尋ねたその返事で浦須はより一層呆れ返ることになった。
「ああもうわかったわかった!おっさんが悪かったって!だからそんな碌でなしを見るような目でおっさんのこと見ないでくれよ!」
どうやら心中での呆れ返りが表情にも出てしまったらしい。男が降参と言わんばかりに両手を挙げながら詫びてきた。その上で浦須の質問に改めて答えた。
「ここにやたらと元気のいい爺さんと婆さんがいるだろ。おっさんはその爺さん婆さんと知り合いなわけよ。それでちょくちょくここに来て農作業手伝ってんの」
「岩津や伊那岐さんはあなたが来てるのを知ってるんですか?」
「さあ?それはおっさんにはわからないな。と言うよりおっさんには関係ない話だな。まあ爺さんと婆さんが許してるんだから大丈夫なんじゃね?」
「あ、そう言われるとそうかも…?」
岩津や伊那岐ではなく、老人と老婆の知り合いということらしい。敷地の管理者・所有者と考えられる岩津や伊那岐の許しを得てないのは問題な気がするが、老人と老婆の発言力が何故か高いようなので自分で言っておきながら男の言い分もその通りだと思ってしまった。
「それよりも外が賑やかになってるみたいだぞ。坊主も行った方がいいんじゃないか?」
男に言われて外に目を向けると、果樹が並んでいる場所、さらに言えば昨日種を植えた場所辺りに伊那岐、岩津、老人と老婆、つまり浦須を除く農園の関係者全員が集まっていて、何か話をしているように見える。
植えた種に何かあったのかもしれない。種の元々の持ち主でありその成れの果てを見届けると心に決めた浦須としては種に起きた変化を見過ごすわけにはいかない。
「……行くしかない、か」
この目の前にいる掴みどころのない男を放置して部屋を後にするのは気が引ける上、何となく仕向けられている気がして少々癪でもある。
ーーーだが、やむを得ない。
後ろ髪を引かれるような思いをしながらも急いで立ち上がった浦須は履物が置いてある玄関に向かおうとして、
「……」
「ん?」
「…俺は浦須です。あなたの名前は?」
部屋を後にする前に男の名前だけでも聞いて置こうと思った。
一応自分から名乗り出てちゃんと答えてもらえるように配慮もしたが、またはぐらかされるかもしれないと諦め半分でもあった。
「…………」
すると男は黙って浦須を、浦須の目を見据えた。何かを見定めるかのように。
「……はぁ〜」
ただ、その鋭い目つきが長く続くことはなかった。やがて気の抜けた溜息を吐いてから元の気楽な雰囲気に戻った男は、頭を掻きながら「どうすっかなー」と独り言を呟いた後で、
「積、、、いや、おっさんのことは『せきさん』とでも呼んでくれ」
どこか引っ掛かるような言い方をしたが、一応は呼び名を教えてくれた。
ただ、それ以上は答えるつもりがないのか「さあ、行った行った」と手を払う仕草をしているため、これ以上はいくら追及してもなしの礫となりそうだ。
「…まあ、いいか」
ちゃんと名前が聞けた訳では無いが、今回はこれで良しとしよう。それにいつまでもここで足踏みをしているわけにはいかない。
「俺にはやるべきことがあるんだ」
心に刻んだ使命感。それを確かめるように言葉に出した浦須は、『せきさん』と名乗った男に背を向け、今度こそ皆の元へ駆け出した。
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少年が外に出たことで一時的に主が不在となった部屋ーーーと言っても、少年は住み込みの使用人としてこの部屋を貸し与えられているので使用者が居なくなった部屋と言うのが正確か。
「んなこたぁどうでもいい」
誰もいないはずの部屋から件の少年とは別の中年と思しき男のぼやき声が漏れ聞こえる。
「あの坊主、浦須って言ったな」
ぼやき声は確かめるように少年の名前を口にした。
「チッ。あの種は坊主が持ってきたのか。ーーーどうりで」
奇異な見た目の植物の種が少年の持ち物であったことに、ぼやき声は舌打ちをして苛立ちを顕にした。
「はてさて、これからどうしたもんか……」
不信感から生まれた心のしこりを胸中に感じながら、ぼやき声は疲れた様に息を吐いて呟きを漏らす。そして、
「ーーーどうすれば彼女を救える……」
誰もいないはずの部屋で悲しみに暮れたぼやき声が小さく聞こえて、やがて聞こえなくなった。
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飄々とした奇妙な男との邂逅を終え、浦須はある一箇所を囲むように集う一同の元に合流した。
行方知れずとなり、今は亡き者とされている母から託された、普通とは異なる些か妙ちくりんな外見をした植物の種。
伊奈岐曰く、初なりを授かった者に繁栄をもたらし、その者の願いを叶えるという『願い柿』の種。
それが植えられている場所を囲んで話をしているとなれば、その種に何かが起きたと考えるのが道理だ。
そして浦須にはその『何か』の予想がついている。なにせ、
「一つ、其の種撒きし日より一夜を数えて芽息吹き、って言ってたからな」
「あら?浦須さんもいらしたのですね。丁度浦須さんのことも呼ぼうと皆で話していたところですよ。さあどうぞ、こちらへ」
浦須がやって来たことに気づいた岩津が微笑みを浮かべて手招きをした。この岩津の表情や行動、他の面々の様子から浦須の予想は確信へ変わった。そして招かれた先、岩津の隣に立ち並んだ浦須はそれを『事実』として目の当たりにする。
「本当に、芽、出したんだな」
小さな若葉をちょこんと2つ付けたかわいらしい新芽が黒い土の中から顔を覗かせていた。
「芽は思ったより、普通?」
「小さくて可愛いですよね」
見る人が見れば毒々しい印象を与える彼の種にしては至って普通の、もっともらしい芽吹きと言える。てっきり葉や茎が異様に大きいとか太いとか、種皮と同じように何らかの模様が浮かび上がるとか、そうした想像が浦須の頭の中で膨らんでいたのだが、子供の指程しかない大きさに瑞々しい若緑の儚い姿は、ごくごくありふれた植物の芽吹きという外にない。
「まあ、ここからとんでもない成長をするのかもしれないけど」
今はまだ発芽の段階だ。今後、成長に伴って特異な姿形に変わる可能性もある。浦須としては怖い物見たさで奇天烈な姿を見たいと思う反面、普通に育ってくれた方が手入れなどが楽で良いかもしれないとも思っている。
「やあ、浦須くん。よく来たねぇ」
今後の種の行く末に思いを馳せていると、にんまりとご満悦な様子の伊奈岐が浦須を歓待するように両手を広げて声を掛けてきた。ーーーそれもそのはずか。
伊奈岐はこの種を手に入れるために、浦須のような厄介者の身柄を引き取り、仕事や衣食住まで与えている。それは伊達や酔狂でやっている事ではもちろんなく、そうした面倒事を抱えたとしてもなお、見返りの方が大きいと判断したからだ。
ーーーどうしてそれ程の価値を見出すことが出来たのか?
確かにその種に纏わる伝承にはその者の願いを叶えるという非常に強大な魅力がある。さらに言えば、その存在が『真』であることを裏付けるかのように伝承と実際とで符号する点が次々現れている。本来なら夢物語として語られるような望外の理想。それが現実のものになる可能性が芽生えた、とそう考えるのも無理からぬことだ。ただ、
「それが願い柿だって決まったわけじゃない」
あくまでそれは可能性に過ぎない。そして現実離れしているからこそ実際に願いが叶えられるのを目にしない限り浦須にはとても信じられそうにない。
「おや?お前さんはまだ疑ってるみたいだね」
悪戯っぽく笑う伊奈岐が心中を推し量るように浦須の顔を覗き込んだ。
信じ切れないでいる浦須の心情を見事に言い当てた伊奈岐に対して、それでもそれを押し隠して「そんなことはない」と言うことも考えてはみたのだが、
「……やっぱりまだ信じられなくて」
頬を掻きながら結局、素直な気持ちを吐露することにした。
雇い主である伊奈岐の考えに異を唱えるのは無礼と捉えられてもおかしくはない。しかし、伊奈岐はそれを責めることもなく寧ろ「わかるよ」と頷きを返してから、これまでの出来事を思い返すように少し遠くへ視線を向けて語り始めた。
「私も大して信じちゃいなかったさ。栄華を誇るだの願いを叶えるだの眉唾な話じゃないかい。今でも自分で『何を馬鹿なことやってるんだろう』って思うこともあるんだよ」
伊奈岐もまた、浦須と同様に願い柿の伝承をあまり信じていなかった。そしてそれは現在も続いており、愚かなことをしているという自覚さえもあるらしい。
すると、伊奈岐は遠くに向けていた視線を目の前の、昨日植えたものとは別の、既に樹となり実をつけている果樹へ向けた。
「ここらに植えてあるのは願い柿と目されたものだったり、似たような風聞を持ったものなんだよ。各地に散らばる見聞を拾って、見つけては育て、見つけては育てっていうのをやってたんだけど、」
「……上手くいかなかった?」
「…裏切られた気になっちまったさ。信じた自分が馬鹿だったと何度自分を責めたことか」
自嘲する伊奈岐に浦須は声を掛けられないでいた。伊奈岐の行いを馬鹿だとは思わないが、あまりに現実離れした理想を追い求め続けるのは艱難辛苦、耐え難い苦痛を伴うことだと浦須は思う。
理想を手にするために足掻き、それでも必死に振り上げた手足は空を切り、無謀な挑戦を続けるうちに心と身体は摩耗し、ある時、諦めを悟る日が来る。
そうして諦める事を受容したその先に待つのは、圧倒的な徒労感、自身の非力を呪う自己嫌悪、そして望みが絶たれた事を知ってもなお胸の奥で燻り続ける執着の炎だ。それらは渾然一体となって精神を焼き焦がし、火傷の痛みが再度の挑戦を躊躇わせる。
その痛みのことを浦須はよく知っていた。
「それでも諦め切れなくてねぇ。ーーーそうしたらお前さんが現れてくれたじゃないか」
求める度に与えられる痛みに耐え、あるいは諦めた先に待つものへの恐怖に抗い、伊奈岐は諦めなかった。
「…これが『願い柿』だっていう確証はないですよ」
自分で言っておきながら、なんて意地の悪い、下卑たことを言うのかと浦須はすぐに発言を悔いた。これでは伊奈岐の直向きな決意を踏み躙っているのと同じだ。
「『確証』はないよ。でも私は信じているのさ」
だが、浦須の否定的な言葉を受けてもなお澱みなく答える伊奈岐の意志は揺るがない。ーーーだからこそ、あるはずなのだ。
「ーー伊奈岐さんは、一体何を願うんですか?」
これまで諦めることもなく求め続けることができたのは、それだけ強い望み、『願い』があったからだ。
浦須から尋ねられ、伊奈岐はそれに答えようと口を開き、
「それは、」
しかし、発しかけた言葉は区切られ、「おっと、いけない」と代わりに舌を出すと、
「願い事を人に教えたら叶わなくなるってもんだよねぇ」