第一章 六 伊奈岐商会へようこそ
建物の2階、岩津の執務室に通された浦須は、意竺の下で使用人として働いていたこと、その主人から怒りを買って追い出されたこと、行き倒れた浦須を伊奈岐が助けてくれたこと、母親の遺品である不思議な柿の種を譲る代わりに浦須の身元の保証と農園の働き手として採用する交渉が成立していることを岩津に打ち明けた。
途中、伊奈岐から助け舟を借りながらの説明ではあったが、執務用の椅子に腰掛けた岩津は、上目遣いで適度に相槌を打ちながらも、浦須の話を遮ることなく最後まで聞いた上で、
「ーーーなるほど。事情はわかりました。私は構いませんよ。お母様も許していることですしね」
あっさりと浦須が農園で働くことを了承した。その事実と、彼女が口元を緩ませているのを見て、浦須は少しだけ張り直していた身の内の緊張をそっと解くことができた。
「それにしても大変でしたね、浦須さん」
浦須の話を一通り聞いた岩津が気遣わし気な表情で声を掛ける。伊奈岐たちと同様、どうやら岩津も浦須の話に対して同情的な受け取り方をしてくれているらしい。
それがわかり、嬉しいような、少し気恥ずかしいような思いで頭を掻きながら黙って頷きを返した。
「でも、あの意竺さんがそんなにもお怒りになるだなんて、ちょっと信じられないですね」
意竺と面識がある岩津は、その豹変振りや彼の激高する姿を想像できないと言う。ーーー無理もない。
意竺は普段は温和で紳士的な振舞いをするような男だ。それが怒髪天をつくような勢いで怒る姿など、それこそ同じ屋根の下で顔を見合わせることの多い使用人たちにとっても滅多に見ることがない。まして外部の者にそんな姿を見られることなど、ほとんど皆無と言っていいだろう。意竺のことを知っている外部の者が浦須の話を聞いたところで荒唐無稽のでっち上げと捉えるのが自然な考え方だ。
しかし、傍で話を聞いていた伊佐方は「姉さん姉さん」と半歩前に進み出ると、
「浦須の話が信じられないのか?浦須は悪い奴じゃねーよ。あんまり苛めてやるなって」
半ば諦めるように納得しかけていた浦須の代わりに伊佐方が自分の姉の発言を諫めてくれた。
「伊佐方…」
浦須のことを信用して庇ってくれる、そのことに大きなありがたみを感じる。
腕組みに歯を覗かせたいい笑顔を見せる伊佐方はまだ会って間もない浦須のことを信じ、友人のように接してくれている。ーーー友達想いで本当に気の良い男だ。
しかし、伊佐方に感心し切る浦須とは対照的に弟からの諫言を受けた当の岩津は不思議そうな顔でキョトンと首を傾げている。
「あら?伊佐方、あなた居たんですね。話しかけられるまで気づかなかったです」
そもそも伊佐方の存在にすら気づかなかったとそう嘯く姉のあんまりな態度に、伊佐方はしたり顔から一転、ガクリと腰を落としてから「おいおいおいおい」と額に手を当てて、
「いや、居ただろ!?下の階から顔も合わせてたじゃん!なに?俺って一々話しかけないと実の姉にも気づいてもらえないほど影薄いの!?」
「絶対気づいてただろ!」と声高に姉の不合理な態度を批判するが、一方の岩津は騒ぎ立てる弟に「うるさいですよ」の一言で、あとは両耳に手を当てながら鬱陶しそうに顔を背けてシラを切り続けている。ーーー姉弟の仲はあまり良くないのだろうか。いや、逆に仲が良いのか。
「おーい。聞こえてるかー。無視するなー。泣くぞー」と尚も食い下がろうとする伊佐方のことは一顧だにしない岩津であるが、「でも、そうですね、」と浦須の方を振り返り、
「愚弟の言う通り、浦須さんが悪い人じゃないことは私にもわかります。だから気を悪くしないでくださいね」
「愚弟て…」と伊佐方は姉の言いように口をへの字に曲げて不満気にしているが、その伊佐方と同様、岩津も浦須が悪事を働くような男とは思っていないようだ。
「俺は大丈夫ですよ。…でも、ありがとうございます」
「ーー?私は浦須さんに感謝されるようなことは何もしてませんよ?」
「いや、ここ最近疑われるような目で見られることが多かったから、俺のことをちゃんと見てくれてる人たちがいるってそれがわかっただけでもありがたくて…」
状況が状況だけに当事者ではない第三者が浦須に対して疑心を抱くことは自然なことのはずだ。にもかかわらずそんな浦須に手を差し伸べてくれた伊奈岐、仲間として受け入れてくれる伊佐方と岩津には本当に感謝の言葉もない。
そう思っている内に胸の奥から熱いものが込み上げてきて、その熱はやがて浦須の頬を伝う。
「あ…浦須さん……」
熱くなった目頭を腕で覆う浦須を見て少し驚いたように岩津が声を漏らした。突然の浦須の感涙に岩津は声を掛けるか逡巡したものの、結局声は掛けずに浦須が落ち着くまで静かに見守ることにしたようだ。
伊佐方も「しょうがねぇなぁ」と明後日の方向を見ながら肩を竦めて浦須に声を掛けることを控えてくれた。ーーーこういう気遣いの部分は姉と弟で似たり寄ったりなんだな。
「お前さんはもう私たち、伊奈岐商会の仲間さねぇ」
そう言いながら、伊奈岐は浦須の肩に手を置いた。
「伊奈岐さん…」
置かれた肩の方を振り向けば伊奈岐が慈しみの籠った目で浦須に頷き掛けていた。
沈黙を選ぶことで浦須への気遣いを示した姉弟とは違い、母親の伊奈岐は浦須の不安な心に寄り添うように声を掛けた。あえて声を掛けずにいてくれた岩津と伊佐方の気遣いもうれしかったが、こうやって親身に声を掛けられるとぐっとくるものがある。
ここ数日の間に取り零してしまった『信頼』『信用』『信愛』。自分を信じる者が離れ、他者から信じられることも他者を信じることもできず、あまつさえ自分自身までも信じられなくなっていた。
自分の中で欠乏していたそれらが満たされていく感覚に浦須の心は打ち震え、涙が溢れ出て止まらない。
「ーーー伊奈岐商会へようこそ。歓迎するよ、浦須くん」
感涙に頬を濡らす浦須の肩に手を置きながら、伊奈岐は静かに笑みを浮かべていた。
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「じゃあ、俺はそろそろ戻るぜ。浦須、何かあったら俺に言えよ。ちょくちょくここにも来るからよ」
浦須が感極まってしばらく、農園での用事を済ませた伊佐方が一人、農園を後にして商会の方に戻って行った。
去り際にも浦須のことを気にかけてくれた伊佐方とは今後とも仲良くしていくことができそうだ。もっと親しくなって『親友』とお互いをそう呼び合えるような間柄になれたら…それはとても素晴らしいことだと本心から思える。それぐらい浦須は伊佐方のことを好ましく思っているのだ。
「そんなに頻繁に来なくてもいいんですけどね」
伊佐方が去った後で姉の岩津は肩を竦ませて苦笑したが、「まあ、でも…」と片目を瞑ってみせ、
「弟は浦須さんのことをとても気に入ってるようですし、浦須さんにとっても同年代の男の友達がいるのは良いことなのかもしれませんね」
浦須にとって良い影響があるとして、伊佐方が農園を訪れることに理解を示した。
「伊佐方が来てくれるのはうれしいよ。きっと仲良くやっていける気がする」
「それはなりよりです。不肖の弟ですがどうぞ仲良くしてやってくださいね」
薄く微笑みを浮かべた岩津にお願いをされて、浦須は願ったり叶ったりと言わんばかりに大きく頷いて快諾した。
ちなみに言葉遣いは件の伊佐方と同様、「敬語はいらないですよ」と岩津からの申出があったため話し言葉に改めている。一方の岩津はというと、「これは口癖みたいなものですので」と口調を改めることを固辞している。
「ーーーそれじゃあ、そろそろ私の方の用事にも付き合ってもらうとするかねぇ」
浦須と岩津のやり取りがひと段落したのを見計らって、伊奈岐が徐に話を切り出した。
「あの種を植えるんですよね?…俺も付いて行っていいですか?」
「元よりお前さんには立ち会ってもらうつもりだったさねぇ。やっぱり気になるかい?」
伊奈岐が切り出した話に察しがついた浦須は自分もその場に立ち会いたいと頼んだが、それは「お母上の遺品だから当然だよねぇ」と頷く伊奈岐の取り計らいにより、元々の種の所有者である浦須立ち会いのもとで植えることになっていたらしい。それどころか、
「お前さんには私と一緒にこの種を立派に育て上げる世話係になってもらうのさ。岩津にも伝えて暫くここで寝泊まりすることになったからねぇ。よろしく頼むよ、浦須くん」
この珍妙な種の世話係に任命されてしまったようだ。さらに、伊奈岐も農園に滞在して同じく種の世話をするらしい。浦須は元々住み込みで働くことになっているので何も問題はないが、商会の当主である伊奈岐が少なくない時間、店を空けてしまうのは大丈夫なのだろうか。
「店の方なら大丈夫ですよ。お母様が居ない間はお兄様が代わりに切り盛りすることになっていますし、それにとても堅実な方ですから」
「…さらっと心を読んできたな。確か阿散多さん、だったっけ?」
頭に浮かんだ疑問をそのまま岩津に見透かされた浦須は顔を少ししかめてから、農園に行く道中で聞いた名前を思い出した。
「はい。お兄様は商会の次期当主として研鑽を重ねられています。浦須さんも商会に居る間に顔を合わせているんじゃないですか?」
岩津にそう言われて、浦須は商会で伊奈岐と話していた時のことを思い出す。
農園の位置を知らせるために外に出た伊奈岐を追う廊下の途中、何人かとすれ違った中で、黙ったまま鋭い視線を向けてくる大柄な男がいた。よくよく思い出してみれば、他の者とは異なる濃い青の着流しを着ていたその男がもしや、
「ええ。体格が良くて紺の着流しとなればお兄様で間違いないと思いますよ」
岩津の予想通り、浦須は岩津や伊佐方の兄である阿散多と対面していた。阿散多は3人兄弟の中では長兄にあたり、商会の次期当主として伊奈岐の跡を継ぐことになっている。そんな立場の者に浦須はまともな挨拶もせず、すぐに立ち去ってしまった。おまけに、
「なんか睨まれていたような気がするけど、俺なんか怒らせるようなことしちゃったのかな?」
「どうしよう…」と頭を抱える浦須に、岩津は「大丈夫ですよ」と少し笑い、
「お兄様の目つきの鋭さは生来のものですし、不当に誰かを怒ったりするようなことはありませんよ」
「そうだね。あの子は人の好き嫌いもあまりないし、とにかく真面目だからねぇ。まあ、目つきの悪さは父親に似ちまったかねぇ」
「お母様、せっかく私が言葉を選んだのに元も子もないじゃありませんか」
「あんたの言いようも大して変わりゃしないよ。お前さんもそう思うだろ?」
「…え、えーっと、それはその…」
ここで同意を求められても困る。怒ってるように見えてしまうぐらいには阿散多の目つきは鋭かったのだ。さすがに目つきが悪いとまでは思っていないが。
「ーーー奥様、準備が整いました。もう行かれますかのう?」
伊奈岐と岩津の二人から向けられた視線に浦須が目線を泳がせたじろいでいるところ、先程伊奈岐の指示を受けて建物の外に出ていた白髪の老人が外から戻り、部屋の入口のところから伊奈岐に声を掛けてきた。
「ありがとう、じいや。今行くよ」
それに伊奈岐はすぐに応じて部屋の外へ足を進める。
「私たちも行きましょう。幻の柿の播種、是非見届けなくては」
浦須の隣に並んだ岩津が片目を瞑ってから笑みを浮かべ、伊奈岐と同様、種植えをする場所へ向かう。
ここに来る前に聞いた伝承については、興味はあるが話が話だけに信じてはいない。だから幻がどうとかそんなことはどちらでも構わない。
ただ、やはり母の形見として渡されたその不思議な種がどのように芽吹き、育ち、そしてどのようにして散って消えていくのか、浦須には見届ける義務がある。
「どうしたんですか、浦須さん?」
「ーーいや、今行くよ」
後ろを振り返って声を掛けてくれた岩津に、浦須は小さく決意を固めてから後を追った。
この先に待つ、災厄が訪れる未来を知らぬままにーーー。
次話投稿は9/4(月)の予定です。
活動報告でも触れていますが、本作は毎週月曜日に1話ずつ投稿していく予定です。
状況次第で変わる可能性もあるので、その際はまた報告させていただきます。
感想・コメントも随時受け付けておりますので、お時間ある時に、気が向いたら、コメント頂けると作者は泣いて喜びます。