第一章 四 次男坊・伊佐方
嘘か真か、常世離れした言い伝えによって語られ、手にした者の願いを叶えるという幻の柿ーーー『願い柿』。それと思しき果実の種を母の形見として受け継ぎながらもその種の情報を何一つ有していなかった浦須と、それに纏わる言い伝えを知り、種を見た途端に目の色を変えて求めた伊奈岐との『交渉』は、種の情報を惜しむことなく明かすことで誠意を示した伊奈岐に浦須が心を開き、種の譲渡を条件に商会の一員として身の上を保障することで結着を迎えることとなった。
そうして話がひと段落ついたのも束の間、集落から少し離れた小山にある商会の農園にいざ向かわんというところで、腹の虫の合唱が始まってしまい、ひとまずは近くの食事処で昼食をとってから向かおう、ということで話は纏まった。
「いやぁ、しかしお前さんのあのがっつきっぷりは大したものだったねぇ」
隣を歩く伊奈岐がつい先程の食事処での出来事を思い出して、楽しそうに笑う。
「あはは…。つい我慢が利かなくて…」
それに対して、浦須は少し申し訳なさそうに頭に手を当てながら、苦笑いを返した。
伊奈岐と入った食事処は昼時にごった返しに混み合うような大衆向けの食事処とは異なり、些か上等な所だったようだ。昼時で席は全席埋まっていたものの、食事を提供する従業員も食事をしている客もどことなく落ち着いていて、大声をあげて騒ぐような者は一人としていなかった。
そんな落ち着いた雰囲気の店内で注文したのは、掛けそばに麦飯と大根の漬物がついた定食だったのだが、それが提供された途端に浦須は気持ち多めに茶碗に盛られた麦飯を脇目も振らず掻き込み、熱いつゆに浸かったそばをズルズルと啜っては喉に流し込み、やがて盛大にむせて衆目を集める、という一幕があった。「そんなに慌てなくても、ご飯も、そばも逃げたりしないのにねぇ」と尚もころころと笑う伊奈岐に、「うぅ…」と浦須は顔を赤らめて唸ることしかできない。
「確かに、いくら腹減ってるからってお前、あれはさすがの俺も引いたぞ」
浦須の隣の伊奈岐、のさらに隣からおどけた声が飛んで来た。
「伊佐方さんまで…。勘弁してくださいよ」
「だから『いさかた』でいいって。『さん』も敬語もいらないっての。歳変わらないし。ーーーそれに次男坊だしな」
彼の名は伊佐方。伊奈岐商会の一員にして、経営者伊奈岐の実の息子でもある。伊奈岐には息子が2人、娘が1人いて、伊佐方はその中で末子ーー次男にあたる。
商家の次男坊とあって、跡を継ぐ長兄や経営に一部携わっているという姉と比べれば、習得しなければならない仕事や責務も少なく、割と自由奔放でいられるという。
その為か、伊佐方は規模もそれなりにある伊奈岐商会の家系に自らがあることを誇示したり、偉ぶった態度を取ることもない。あくまで自然体で、同年代の友人のように浦須に接してくるため、まだ会って暫くもない関係だが、浦須の心も徐々に絆されつつある。
「この子の人懐こさはそれはそれで美点さねぇ。それとお前さんが行く先の上司は娘の方さ。伊佐方は店の方に詰めてる。だからそんなに気を遣わなくてもいいよ」
まだまだ固さの抜けない浦須の様子に伊奈岐からも過ぎた遠慮は不要であると諭される。上司であり、実の母でもある伊奈岐が言うのだから本当に遠慮はいらないのだろう。それにしても、『気を遣うな』と『気を遣われている』のは我ながら何とも間が抜けているものだと、浦須は口の中だけで笑みを溢した。
「それじゃあ、……伊佐方はさっき俺たちがいた所で働いてるんだよね?店の仕事の方は大丈夫なの?道中の安全のためとはいえ、着いて来てもらうのも何か悪いなと思って」
「俺が少しの間抜けたくらいじゃ、どうってことはねーよ。それに商会の代表とその客人の道中の露払いも立派な仕事だぜ。まあ、駄弁ってるだけの気楽な仕事でもあるけどな」
気安い口調に改めた浦須は伊佐方が同行する理由を尋ねたが、当の伊佐方は気にしなくてもいいと気楽な様子で応えた。
体調が万全とは言えない浦須と、名のある商会のそれも女性の代表である伊奈岐の二人が連れ立って歩くのは不用心が過ぎる、ということでその場にいた伊佐方が同行を申し出てくれたのだが、彼の言う通り、その道中は至って安全なものだ。伊奈岐の立場上、用心に越したことはないのかもしれないが、良からぬことが起こるような気配は今のところ感じられない。
「ひと昔前まではこの辺りを根城にしてる賊がいるってことで、注意が呼び掛けられてたものだけど、最近ではぱったりと、だねぇ」
小首を傾げながら当時を思い出す伊奈岐だが、浦須にはいまいち実感が得られない話だった。
農園に向かう道は街道から外れると言っても人の足で踏み固められた野道を行くため歩き難さもない。周囲は平らな野原が広がり、時折、木々や茂みが疎らに生えているのを見かけるくらいで、少なくとも人目を忍ばなければならないような集団が身を隠すのには向いていないように思える。
もっとも、それは伊奈岐も同じように考えていたことのようで、
「ま、昔の話だよ。数年前に解散したって噂も聞くくらいだし、今はそんなに心配することじゃなくなったってことだねぇ」
怪訝そうに周りを見回す浦須の反応に同意する形で補足を加えた。昔こそ危険があったこの周辺の治安も今となっては談笑しながらゆったりと歩いて進むことができる。それだけこの周辺の治安の改善に努力があったということだろう。そう一人ごちて頻りに頷く浦須を見遣った伊奈岐は浦須とは反対の方向に首を傾けて、
「それより、お前さんが岩津の所に行くなんてちょっと珍しいことなんじゃないかい?」
両手を頭の後ろで組みながら歩いている隣の伊佐方に声を掛けた。道中で聞いた話だが、農園の経営を取り仕切っている岩津はその敷地内にある家屋で寝泊まりをしているそうだ。何某かの用事があれば農園の外へ出掛けることもあるが、その機会も月に1、2度程であるらしい。そのため、店=実家で寝起きも仕事もその場で完結する伊佐方とは暮し向きが全く離れてしまっている。一般的な、生家を離れることなく生活を共にする姉弟と比べれば、顔を合わせる機会は圧倒的に少なく、疎遠な関係になってしまうことも無理からぬことだろう。
「そうでもないさ。ちょっとした用事もあって最近はちょくちょく姉さんの所にも顔を出したりしてるんだぜ」
しかし、それに対する伊佐方の返答は二人のそうした予想とは反していた。岩津が外に出なくても、伊佐方が出向いているのなら、なるほど。想像していた以上には姉弟間の交流はあるようだ、と浦須は直ぐに納得した。一方の伊奈岐も「ちょっとした用事ねぇ」と小さく呟いた後で、
「姉弟仲良しなら、それはいいことさ」
片目を瞑って視線を投げ掛けた先、伊佐方の表情が変わっていないことを見届けたところで、それ以上追及することをやめた。
「ーーーお、見えて来たぜ。浦須、あれだ」
そうこう話をしながら歩いている内に目的地の農園が見えて来た。
伊佐方が指差した先、浦須がこれから世話になる農園はしかし、浦須が想像していたよりも広大な土地を領していた。
二階建ての大きな建物ーーー恐らく農園の経営者である岩津が居るであろう建物が、柵で覆われた広大な農園の真ん中に建ち、その隣に一階建ての建物が一棟、周辺に物置小屋のような粗末な造りの建造物が2、牛小屋が1ずつ点在している。
そして何より、作物を育てている畑や果樹の多さだ。
畑の数は10面以上を数え、作付けが行われていないものを除くと、一面ごとに種類の異なる作物を育てているようだ。その種類も見覚えのあるものからないものまで様々で、例えば右手前側にある畑の内の一つには大根の葉が青々と茂り、少し盛られた黒い土の上に白い肌を覗かせているが、その大根畑の隣の畑には地面から茎を真っ直ぐに伸ばし、先端に植物の芽のようなものを付けた、浦須が初めて見る作物が植えられている。
その他にもねぎ、玉ねぎ、ふきなど浦須でも知っているようなものから、見たことがない形・色をした葉や花をつけた植物が種類問わず様々に育っており、
「…結構大変なんじゃないか、これ」
農業には門外漢の浦須にもこれだけの種類と数の作物を育てるのはきっと苦労が絶えないのだろうと、素人ながらに抱いた感想を呟く。
ただ浦須はそれから、呼吸を一つ置いて、
「それでも、俺はここで恩を返さなきゃいけない」
これからその場所で働く者としての覚悟を、ゆっくりと吸った息を静かに吐いて固めた。
「ーーーおおぉ。奥様、ようこそおいでになりましたのう」
「やあ、じいや。ご苦労さんだねぇ」
門を潜り農園に足を踏み入れた3人を最初に出迎えたのは、衣服や肌に土埃を付けた白髪の好々爺だった。
日に焼けた浅黒い肌に年を経る度に重ねたであろう皺を刻んだ顔。齢にして古希を過ぎていそうなご老体ではあるが、農園に入った浦須たちに気づくまで畑仕事に勤しみ、出迎えるために駆け寄ったその足取りは軽やかなものだ。
「よっ、じいや。俺も来てるぜ」
伊奈岐に続いて、伊佐方も親しげな様子で『じいや』と呼ばれる老人に声を掛けた。
「おぉ。伊佐方坊ちゃんも、ようこそですのう」
声を掛けられ、伊佐方に気づいた白髪の老人は伊奈岐と同様、いやもしかしたらそれ以上に目尻の皺を一層増やした表情で伊佐方の来訪を歓迎した。
「じいや、じいや。『坊ちゃん』はいい加減やめてくれよ。恥ずかしいから。ていうか前から『坊ちゃん呼び』は勘弁してくれって言ってるよね!?」
朗らかな声と表情の老人に対して、伊佐方はしかめっ面で不服を表明する。
「おぉ。いかんいかん。そうでしたのう。歳を取ると色々忘れっぽくなって困ってしまいますのう。申し訳なかったですのう、伊佐方坊ちゃん」
「……言った側からもう忘れちまってるじゃねーか…」
自分の訴えがまるで通じていない様子の老人に、伊佐方は肩を落として項垂れた。「ほっほっほ」と穏やかに笑う老人には暖簾に腕押しの話だったようだ。
少なくとも暫くの間は『坊ちゃん呼び』されることが決まってしまった伊佐方に、浦須が心の中で合掌していると、
「じいや、今日はお客さんを連れて来てるんだよ。岩津にも会わせるつもりだから、先に伝えておいてもらえるかい?」
伊佐方と老人のほのぼのとしたやり取りを見守っていた伊那岐が、農園にやって来た目的の一つである浦須の肩に手を置いたまま老人に言伝を頼んだ。
「おぉ。お連れの方もここまで足を運んでいただいて。ご苦労さまですのう」
浦須を見た老人は変わらぬ穏やかな笑みを浮かべて、来客を歓迎した。水を向けられた浦須は微笑む老人に会釈を返す。
すると、老人は「うん、うん」と頷いてから、後ろを振り返り、
「ばあさんやぁーっ!ばあさんやぁーっ!こっちへおいでーっ!」
嗄れているが不思議とよく通る声で、遠くで腰を下ろしながら作業している人影を呼んだ。老人の声に気がつき、顔を上げた人影は年配の女性であったが、こちらも傍らの白髪の老人と同様、勢いよく駆け出してこちらまでやってきた。
「奥様、いさ坊、それにお連れのお若い方も、ようこそですじゃ」
「やあ、ばあや。ばあやも相変わらず元気そうでなによりだよ」
到着するや否や、目の前の老婆は3人の顔を順繰りに見回しながら、にっこりと笑顔を浮かべて挨拶をした。
伊奈岐が『ばあや』と呼んでいるこの老婆は、隣に立ち並ぶ『じいや』と同じく、白く染まった髪に日焼けした浅黒い肌が対照的な70過ぎ位の見た目をした紛う事なきお年寄りだ。それぐらい歳を取れば足腰も弱くなり、立ち上がったり、歩いたりするだけで難儀に感じるのが普通だと思うが、ただ、これもまた『じいや』同様に、こちらに駆け寄ってきた姿は見た目の年齢にそぐわない力強さのようなものがあり、息を切らしている様子も見て取れない。
「ほんと、じいやもばあやも元気だよな。ていうか元気よ過ぎて俺は最近妖怪の類じゃないかと疑って、ーーあだっ!?」
驚く浦須に共感するように軽口を叩く伊佐方だったが、その軽口は伊佐方の頭に落とされた拳骨によって、中途で止まる。
「これ、いさ坊。こんなにも幼気な婆さんを妖怪呼ばわりとはなんたることじゃ。ーーはぁ…。まったく近頃の若者は常識を持っておらんで困ったものですじゃ。のう、じいさん?」
当の下手人の老婆は伊佐方を諌めてから、少々わざとらしく嘆息し、困り顔を作って、傍らの老人に同感を求めた。
「ほっほっほ。常識外れの物言いは良くないですのう、伊佐方坊ちゃん」
「常識外れに常識説かれるのは納得いかねー!」
小芝居に興じる老婆とそれにまんまと乗っかる老人の様子に、伊佐方は地団駄を踏んで抗議の声を挙げる。
その後、再び振り落とされた老婆の拳骨によって伊佐方は黙らされることとなったが、浦須もまた伊佐方と同じようにこの老夫婦の壮健ぶりに驚いていたため、どちらかと言えば打たれた伊佐方に同情している。ーーーもっとも、同じように打たれたくないので口にするつもりはないが。
「それでは、奥様。わしは先にお嬢様の所へ参りますので、ごゆるりといらっしゃってくだされ。伊佐方坊ちゃんと、お連れの……」
伊佐方に対する『可愛いがり』がひと段落し、伊奈岐に頼まれた用事のために先を急ごうと体の向きを変えかけた老人は、ふと浦須を見たまま動きを止める。怪訝な様子の老人に、浦須はやがて「ああ」と得心して、
「浦須と言います」
まだ名前を言ってなかったことを思い出して老人に名乗った。
「ーーおおぉ、浦須殿。ではまたすぐ後にお会いいたしましょう」
浦須の名乗りを受けた老人は今度こそ変えかけた背中をこちらに向け、「ふぅ」と軽く一息吐くと、地面を力強く蹴り出してその場を後にした。
「うわ…」
そうして走り出した老人を見てみれば、これがまた中々の快走だ。健康な若者と比べても引けを取らない、あるいは下手をするとそれよりも速く走っているような、そんな錯覚を抱いた浦須の口から驚嘆混じりの溜息が漏れて、
「……あれは、ちょっと妖怪かもしれない」
頬を引き攣らせた苦笑いで、次第に遠くなる老人の後ろ姿を見送った。