第一章 三 願い柿
『願い柿』……聞いたことは、ない。
名前の通りなら、この種は柿の種なのだろうか。
焦げ茶色の表面に浮かぶ赤い斑点のような模様を綺麗に取り除き、それから二回りくらい小さく見れば、柿の種、のように、見える。ーーーその2点が明らかに特異なのでそう判断していいかはかなり怪しいところだが…。
そして『願い柿』という名前。浦須は特別柿のことについて詳しいわけではないので、そんな名前の柿があることを知らない。ただ、この名は柿の品種や銘柄を指すようなものではないような気がする。どちらかといえば、
「そうだね、それは商人の間で幻の柿と噂されている物の通り名だよ。品種自体は市場でもよく見かける富成柿の亜種だって言われてるみたいだけどねぇ。ーーそれで、その幻の柿には面白い噂話、いや言い伝えがあってね」
「…幻の柿?……言い伝え?」
何やら耳慣れない響きの連続に浦須は惚けた顔で反芻する。日常の中で口にしたり、耳にする機会が少ない、どちらかといえば物語譚のように絵空事を語る時に使われる言葉の数々だ。確かにこの種は『何の変哲もない』と言うには少々異形じみた見た目をしているが、価値もわからないただの植物の種でしかなかった物がそうした飾り文句で語られていることに浦須は困惑していた。
「……この種が、そんな………」
その一方でどこかこの種に対して何か特別なものであるのではないかという期待のような感情もまた浦須の中で生まれ始めていた。
すると、伊奈岐は一つ咳払いをしたあとで、開いた手の平を浦須に向けた。そうして、一間置いてから指折り数える。
「一つ、其の柿、甘味の極みにあり、肉質繊細緻密なり」
「一つ、其の柿、赤子の頭ほどの実をつけ、果汁口より溢る」
「一つ、其の種、粒大にして三回りを超え、種皮に赤き紋様を顕す」
「一つ、其の種撒きし日より一夜を数えて芽息吹き、二日をかけて幹伸長し、枝葉をつけ、さらに三日経ちし時、大樹をなし、朱き果実を実らす」
「一つ、其の果実生ること幾多に、数うること容易からず」
一つ、一つと指を折り5本を数えたところで伊奈岐は浦須に視線を向けた。それに応えるように浦須が伊奈岐と目を合わせると、伊奈岐は自身の握り拳からまた一つ指を立て、
「そして、一つ、其の初生り得し者、栄華を誇り、願い叶う」
6つ目を数えたところで、浦須の目が見開かれる。
「………もしかして、それがその柿の、」
「ああ、名前の由来だよ」
閃いた答えを口にしかけた浦須に対して、伊奈岐は鷹揚に頷いてから、その続きを引き取ることで肯定した。
「まあ、名前の由来にはなっているけど、実際に願いが叶うかどうかはわからないよ。他の言い伝えにしてもそう。最初のはともかくとして、それ以降のなんて中々信じられるものじゃないし、そんな柿は噂話の中にしか存在しない、商人の戯言に過ぎない。ーーーそう思われてきた」
名前の由来にこそなってはいるが、浦須とてそれが本当のことであると大した根拠もなく信じる気にはなれない。
『願いが叶う』というのは、恐らくは何かの喩えであったり、そんなものがあったら、という、それこそ誰かの願望によって産まれた妄言の類いでしかないのだろう。他の言い伝えについても、並みのものよりも多少、大きかったり、甘かったり、多産だったり、成長が早かったりしたものを誇張して表現しているに過ぎないのだろうし、そもそもそれらが真っ赤な嘘であるのかもしれない。
確かに、伊奈岐が指折り紡ぐこの種にまつわる『言い伝え』には浦須の胸を高鳴らせるものがあったが、嘘八百だと思えてしまう程には、現実離れした話だ。それは話を聞いている側の浦須はもちろん、話を切り出した伊奈岐もまた頭から信じているわけではないだろう。
だと言うのに、伊奈岐は『思われてきた』と言った。それは商人の戯言に過ぎないはずだった。
「ーー思われて、きた……けど、」
「お前さんだよ。お前さんが持つその種。言い伝えの姿形と同じだねぇ。それが意味することはわかるかい?」
尋ねられて、浦須は種を持つ右手に目線を落とした。
「この種がその言い伝えの柿で、言い伝えの内容は間違っていなかった、のか?」
現実にはあり得ない、存在するはずのないものを語る戯言でしかないはずの語り種。その中に、現実に存在する物が含まれているということは、該当する部分、種について言及されている部分が正しかった、ということだけではなく、言い伝えの全般的な信憑性を高めることになる。話の全てが荒唐無稽であれば誰も信じることはないが、その中の一部でも正しい情報が含まれていれば、もしかしたら、他の部分も正しいのかもしれない、という考えに至るのは自然なことだろう。
伊奈岐は浦須の推測に対して軽く頷きを返したが、「でも、それだけじゃないよ」と浦須の目を見据えながら、
「お前さんはこの種のことを知らなかった。恐らくだけど、これまでお前さんと関わりがあった誰かにも。……浦須君。お前さんのお母上はこの種のことを、本当の価値をわかっていたんじゃないのかねぇ?」
本当の価値ーーーそれは、一粒のただの植物の種が持つには過ぎた価値だ。手にした者に繁栄を約束し、願いを叶えるという摩訶不思議な柿。それと思しき奇妙な姿をした種。それらを語る所詮は『語り種』でしかなかったはずの言い伝えは、その種の実在によって頓に現実味を帯び始めた。
そして現実味が増せば、その話、種に対する見方も変わる。
「正しいかもしれない」「本当かもしれない」と少しでも思ってしまえば、それは種に対して『期待』を抱くことと変わらない。そして『期待』は価値を生み出し、やがてそれを求める者たちが現れる。その物を追い求める者が多ければ多いほど、その物がそう簡単には手に入れられない稀少な物であればあるほど、その物の価値は天井知らずに上がり続ける。
「この種が持つ本当の価値って……」
この種には数多の者を惹きつける魅力がある。その上、それは伊奈岐の口振りから察するに、浦須が持っている一つ以外実在が確認できていない。つまり、多くの者が求めるたった一つしか存在しないであろうこの種の価値はとても浦須には計り知ることのできない、途方もなく高いものになる。
そんな貴重な物を、ただの凡庸な若造が持っていると知られたらどうなるか。
「そんなの簡単だ」
当然それを知った者はあらゆる手段を用いてその種を手に入れようとするだろう。タダ同然で買い取られたり、知らずのうちに盗まれて無くなってしまうぐらいならまだいいが、事と次第によっては、危害を加えられたり、命を狙われることでさえあり得るかもしれない。
それ程までにこの種が持つ価値というのは極大で、とても浦須の身一つでは天秤が釣り合わないのだ。一命を勘定に入れないことくらい不思議ではない。最悪を考えるなら、種のことを何一つ知ることもなく、そもそも種が狙われていることにも気づかず、嬲り殺され、奪い取られることではないだろうか。
ーーーそのことが、母にはわかっていたというのか?
その種の呼び名、それに纏わる言い伝え、価値、影響力、危険性、それら全てをわかっていたのだろうか。わかった上で、今の今まで誰の目に留まることもなく、こうして浦須がのうのうと生きてこられたのは、それは浦須の母が……
「自分から聞いておいてなんですけど、どうしてこの種のことを教えてくれたんですか?今の話を聞いて渡すのが惜しくなるかもしれないのに」
「いや、それはたぶんないねぇ。この話を聞いてもお前さんはその種を私に譲ってくれるはずさ」
自分が所持しているなんでもないと思っていた物が、実はとんでもない価値を秘めた貴重な物だと聞かされれば、普通は手放すのが惜しくなる、あるいは絶対に誰にも渡してなるものか、と意思を固めるかもしれない。そう思っての疑問だったが、伊奈岐は即座にそれを否定した。
「……驚きました。俺の心でも読んでるんですか?」
浦須の心の中に惜しいと思う気持ちがあることは確かではある。ただ一方で、命を拾われた恩義に報いるだけのものを自分が持ち合わせていた僥倖に喜ぶ、あるいは安堵するような気持ちもあり、伊奈岐に種を渡すのも吝かではない、というのが浦須の正直な思いであった。
それをそのまま伊奈岐に見透かされていることに目を見開いた浦須は、驚きを隠せない表情のまま伊奈岐に問うが、
「それこそ、まさかだよ。まあ、お前さんが与えられた恩義の上で平然と胡座をかいていられるような性分じゃないことは、なんとなくはわかったしねぇ。そんなお前さんなら快く、とまでは行かずとも、私に譲ってくれるんじゃないかと思ったのさ」
伊奈岐が行ったのは、心の内を読むということよりも浦須の性格や価値観などから浦須が考えそうなことを推測した、というのが正しいのだろう。
短いやり取りの中で得られたわずかな情報からそうした推測を立て、それが的中しているのだから、伊奈岐の観察眼や洞察力を評価すべきか。はたまた限られた情報の交換でさえも露見してしまうような自分自身の考えの浅さを恥じ入るべきか。浦須としては前者の可能性を主張したいところではあるが、両面あるというのが実際のところなのだろう。「商売人としては甘ちゃんな考え方だけどねぇ」と、苦笑を深めている伊奈岐の表情がそれをよく表している。
そうして苦笑を浮かべていた表情から徐に片目を閉じた伊奈岐は、「それで」と一つ言葉を区切り、
「この種のことで知ってることは一通り話したよ。あとは、浦須君、お前さんの答えを聞かせてもらおうかねぇ?」
横道に逸れていた前の問いに対する答えを伊奈岐は求めた。問いを発した伊奈岐に対して問いを重ねることで応じたことによって話の本筋から外れた回り道をしてしまっていたわけだが、彼女は重ねられた浦須からの問いに対して不服を示すことなく誠実に応じた。
ならば、応える浦須の側にも誠実な対応が求められるのではないか。
ーーー結論はもう出ていると思う。
伊奈岐から聞いた話でこの種が貴重な物であると知り、それを手放すことを惜しむ気持ちはある。それにこの種は亡くなった母が遺した形見でもある。そうそう容易く他人に譲れる筈もないし、出来ることならこの先ずっと、自分が墓に入るまで持っておきたいと当然ながら思っている。
「……それでも、俺は」
伊奈岐が拾っていなければそのまま落命し、路上で朽ち果てるしかなかった身だ。命を救われた恩義には報いねばなるまい。そして都合の良いことに、それに報いる対価として相応しいものを自らの懐中に所持している。これは好機と見るべきだ。
何より伊奈岐は、そのまま黙っていた方が自分にとって有利に事を進められたにもかかわらず、浦須の内面や背景を理解し汲みした上で、浦須に種のことを打ち明けてくれた。
『彼女は信用できる』という表現は上から物を言っているような気がするが、伊奈岐は種を託す相手としてこれ以上望めない程に信用できるし、もうしている。
ーーーその気持ちに嘘偽りはない。
「…………」
「……それで良いんだね?」
落ち着いた声で、念を押すように確認をとる伊奈岐の目前には、自身に向けて差し出された手の平とその上に乗る黒っぽい焦げ茶色の植物の種があった。
「そもそも俺には選択肢がなかったはずなのに、それを伊奈岐さんは与えてくれました。ーー俺は伊奈岐さんを信じます。だから、これで良いんです」
伊奈岐からの再三の確認に、浦須は自身の迷いを振り切るようにはっきりと、覚悟を含んだ口調で応えた。
それを受けた伊奈岐は数瞬の間瞑目し、
「確かに受け取ったよ」
やがてゆったりとした手つきで浦須の手から種を受け取った。それに続いて伊奈岐は「そして」と一つ言葉を置いて、
「ーーー契約成立さ」
種の譲渡と引き換えに、浦須の身を引き取る契約が成立したことを告げた。
「それじゃあ、浦須くん。早速だけどうちの農園に来てもらうよ。ここからだと少し歩かないといけないけど、少しは身体を休められたかい?」
「はい。あの小山くらいまでなら大丈夫だと思います。身体も休められたし、おむすびももらったから」
直前までの張り詰めた重い空気を弛ませるように笑みを浮かべた伊奈岐は、自身が経営している農園がある小山に向かうことを浦須に提案した。
そして、これに浦須は躊躇なく応じた。
実際のところ、体調も万全とは言えないし、空腹感も満たされてはいない。ただ、先刻意識を失うまでに感じていた途方もないような疲労感はなく、小一時間歩くくらいの体力は回復しているような気がしている。
それに何より、伊奈岐から与えられたあまりに大きな恩義に対する感謝の気持ち、そしてそれに応えなければと強く望む使命感のようなものが浦須の心を駆り立て、本調子ではないまだ怠さの残る身体に活力を与えてくれている、そんな感覚が確かにあった。
「それはなによりだねぇ。よし、それじゃあ、善は急げ、商人は早さが命さ。わたしの後について、」
ーーーぐうぅ〜〜。
「あ」
「おや?」
農園がある小山に向かおうと、一歩目を踏み出したところで、伊奈岐の腹からわかりやすく空腹を示す腹の音が鳴った。
「もしかして、俺が伊奈岐さんの分のおむすびを食べたせいで…」
「いやいや、気にしなくてもいいさねぇ。少しばかり腹は減ってるようだけど、お昼は向こうに着いてからでも遅くはないよ。ーーさあ、わたしのお腹の虫のことは一旦置いて、農園に向か、」
ーーーぐぎゅるううぅ〜〜〜っ!
「あ」
「おやおや?」
今しがた伊奈岐が鳴らした腹の音にも増して、一段と大きな音が今度は浦須の腹の底から鳴り響いた。
「…これは、ひとまず腹拵えからかねぇ」
苦笑しながら零す伊奈岐の言葉に、浦須も頭を掻きながら、伏し目がちに顎を引いた。
ーーーぐぐううぅ〜〜〜っ!
また一度、大きな大きな腹の音が中天の澄んだ青空に鳴り渡った。