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かき喰へば  作者: 合羽 洋式
第一章 火種
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第一章 十八 熱々の焼き栗はいかが?





 ーーー浦須はこの瞬間、踵を返して逃げるべきだった。





 では、なぜそうしなかったのか?





 軟禁されていた場所の鍵を開け、そこから出られるようにしてくれた恩義を果たすためか?


 自分よりも幼い子どもを危険から遠ざけようと思ったからか?


 ちょこまかと小賢しく逃げ回っていた相手が足を止めているのを見て、捕まえられる絶好の機会だと思ったからか?


 憎たらしささえ覚えていた相手に一矢報いることができると内心ほくそ笑んだからか?


 大火を前に子どもが嗤い声を上げているという状況に理解が追いつかず茫然としていたからか?


 何か邪悪さのようなものすら感じる嗤い声に恐怖を抱いて、足が竦んでしまったからか?


 ーーーどれかではない。


 それらすべてが、ほんの短い数回の瞬き程の間に、浦須の身に、心に、去来し、浦須をその場に留まらせていた。


 ーーーそして、そこで動けなかったことは、重大な、致命的とさえ言える過ちであった。


 繰り返しになるが、浦須がすべき事はその場で立ち止まることではなく、即刻回れ右をして駆け足でその場を立ち去ることだった。そのために浦須に必要だった力は冷徹な決断力と危機察知能力であり、求められる状況でそれら必要な能力を発揮できない浦須はそれ故に気づけない。


 知らずのうちに狂気渦巻く悪魔の巣窟に足を踏み入れ、そして逃げ出すための出口が背中のすぐ後ろで静かに閉ざされていたことを。





ーーーー





 ーーーここにいては、マズい…!


 目前に展開されている異常な状況に浦須の脳内は危険信号で満たされていた。


 部屋の中央で燃え盛る火炎。ーーー魚を焼いたり、鍋を温めたりするために囲炉裏があるのだから、この場所で炎が揺らめいていること自体はおかしくない。


 ーーー問題なのは、その大きさと勢いだ。


 ごうごうと音を立てる火炎は積み上げられた薪を燃料にしていて、浦須の腰辺りの高さで燃えている。それだけでもその大きさや勢いは普段囲炉裏として使っている時のものと比べられない程だが、くり坊はさらに恐ろしいことを行っていた。


 くり坊のすぐ傍に2つ壺が置いてありその中には何か液体が入っている。

 それを、手にした柄杓で掬い上げると、


 「それっ!」


 あどけない掛け声とともに、燃え盛る火炎に向けて勢いよく振りかけた。


 「ーーーーッ!」


 それが炎に触れた瞬間、爆発音のような大きな音がして、一層高い火柱が地面から天井まで噴き上がるように、上がった。

 それを見たくり坊は、腹を抱えて嗤い転げる。


 「あはははははっ!油っ!ボーボー!たのしいなぁっ!でも!お酒もボアッ!ってなっておもしろいっ!!あはははははっ!」


 浦須が部屋に入ってからずっと、くり坊は嗤い続けているが、火勢が激しいときほどそれが顕著だ。自らが為した行いとそれによって起こった結果に、醜く頬を歪め、悦びの感情を爆発させている。


 ーーー恐らく火事を引き起こしたのはこのくり坊だ。


 5歳くらいにしか見えない小さな子どもが建物に火を放ち、あまつさえそれを心の底から楽しんでいる。ーーー悪夢のような状況が浦須の目前で繰り広げられているのだ。


 ーーー逃げないと…!


 事ここに至って、ようやく浦須はくり坊が危険な存在であると認知した。そして、この場から逃れるため、火炎に夢中になって背中を向けている彼に気付かれないよう、ゆっくり、静かに後ろを向き、戸に掛けた手に力を込めたところで、


 その決断が遅すぎたことを思い知る。


 ーーー戸が、開かない……?


 横に引けば簡単に開くはずなのに、いくら力を入れてもビクともしない。


 ーーーな、なんで?!なんで開かないんだっ!?早く!はやくしないとっ!


 片手で駄目ならと、両手を引手に掛け、身体全体を使って襖を引こうとしたが、それでも開くことはない。だが、だからといって諦められるはずもなく、何度も引いて、引いて、引いて、


 「ーーーあは。お兄さん、やっと来たんだね!」


 幼い子どもの声が浦須の耳を震わせた瞬間、まるで心臓を鷲掴みにされたかのような衝撃が全身を走った。


 「…………あっ……あ……あ」


 「あはははっ。おいら、ずっと待ってたんだよ。おそいぞー!あはははっ!」


 ーーー声が、言葉が出てこない。


 浦須の心はくり坊への恐怖心一色に染まっていた。恐怖によって、声を出すための喉も、身体を動かすための手足も、そこにある筋肉が緊張・硬直していて、まともな発話や身動ぎ一つを取る事さえ儘ならなくなっていた。


 「あれー?なんで止まってるのかなー?…あっ!わかった!『だるまさんがころんだ』がやりたいんだねっ!あはははっ!」


 身体が固まって動けないことを年相応の解釈で不審がらなかった点は、不幸中の幸いと言えるのかもしれない。

 だが、最悪な状況が続いていることに変わりはない。何しろ、自分の姿を今なお視界に収められているのだ。この場から逃げ出すためには、強引にくり坊を振り切るか、注目を自分以外の場所に向けてその隙を付くしかない。

 だが、前者に関しては望みがかなり薄い。なぜなら、その前の『追いかけっこ』で彼の並外れた身体能力を目の当たりにしたからだ。

 感覚的な話になるが、追う者と追われる者であれば、追う者の方が追われる者よりも有利なはずだ。追われる者は前方と後方の両方に注意を向けるのに対して、追う者は前方、とりわけ追う者の姿だけを捉え続ければいい。

 さらに、追われる者は追う者を翻弄するために逃げ道の取捨選択、そしてより複雑な動きの実現のために思考力と体力を消耗するのに対して、追う者は追われる者の動きを見た後で最短距離を詰めるだけでいいのだから、その優位性は一目瞭然だ。

 にもかかわらず、浦須は彼を捕まえられなかったのだから、立場が逆転した現在、浦須が彼から逃げおおせる可能性は限りなく低い。

 ならば、注意を逸らしてその隙に逃げる手段を考えるしかないのだが、これについても実現の可能性が高いとは言えない。そもそもくり坊の注意を逸らすことが可能かどうかも不明だが、仮に上手く注意を逸らして視界から完全に外れることが出来たとしても、逃げていることにすぐ気づかれてしまった場合はまたしても『追いかけっこ』が始まることになる。その時点で浦須の勝ち目はほとんど消え失せたと言えるので、彼が他所を向いている間に音を立てずかつ速やかに部屋を脱し、出来る限り距離を稼いでおく必要がある。

 理想は彼に気づかれる前に火事が起きている建物そのものから脱することだが、そのためにはそれなりの時間、彼に目でも瞑って待ってもらうくらいのことをやらないと実現しない状況だ。

 だが、それも一筋縄ではいかない厳しい条件と言わざるを得ない。


 ーーーでも、それでもやらなければならない。


 それが出来なければ、彼に何をされるか分からない。

 炎が燃え上がる度、愉悦の笑みを浮かべながら全身でその心情を表現する彼は、間違いなく『異常者』であり、建物に火を放った張本人として危険な存在だ。そんな存在とは一時でも関わり合いになるべきではない。

 そのために、上手くくり坊を誘導して見逃してもらえるように、


 「んばぁーーっ!!」


 「…う、うわあああああぁっ!?!!!」


 「あはははははっ!!あはははははっ!!あ!お兄さんの負けぇーー」


 くり坊の顔が不意に目の前に現れて、浦須は驚きのあまり、悲鳴を上げながら、後ろにひっくり返った。

 それを見たくり坊は腹を抱えて笑い転げ、ていたかと思えば、何かを思い出したように跳び起きて、ニヤけた顔で指を指した。ーーーどうやら『だるまさんがころんだ』のことらしい。


 みっともない姿を見られ、本来なら赤面して恥ずかしがるところだが、今の浦須に恥の感情を抱くほどの余裕などない。脳はこの部屋を脱するための思考に全てが注がれ、心はくり坊への恐れで支配されている。恥ずかしがっている暇などどこにもない。常に頭を動かし続けなければならない。ーーーだから気づけた。


 この状況は浦須にとって、『好機』であると。


 「……あはは。ま、負けました。えっと、つ、次は、その、『かくれんぼ』でもしませんか…?」


 くり坊はどうも浦須と遊びたがっているらしい。追いかける浦須から逃げ回っていたのも、浦須を驚かせて転げさせたのも、遊びのつもりだったのだ。

 ならば、今度は浦須の方から遊びの提案をする。そして、提案する遊びは、二人の位置が自然に離れ、かつ浦須の位置がくり坊に知られない遊び、つまりは『かくれんぼ』が最適だ。これなら隠れる方だろうと、探す方だろうと、そうする振りをして外に逃げ出すことが出来る。


 我ながら、完璧と言っていい策だ。ーーー恐れと緊張のせいで妙に謙ってたどたどしくなったのは見逃してほしいが…。


 逃げる策としては上々。問題は、くり坊がそれを了承してくれるかどうかだが、


 「あはははっ!いいよっ!かくれんぼしよっ!」


 あっさりの快諾に、浦須は心の中で喝采を上げた。ーーーこれで逃げる算段はついた。あとは、くり坊の気が変わらないうちに早めに話を進めて、


 「じゃあ、さっそく隠れる方と探す方で分かれ」


 「あっ!ちょっと待って!かくれんぼの前にお兄さんに渡したいものがあるんだ!」


 浦須が話を切り出してすぐ、くり坊は後ろを向くと、あるものを取ってきて浦須に差し出した。


 「こんな時に…」と逸る気持ちが顔に出そうになるのをグッと堪え、改めてくり坊が差し出した手の上にある物を見ようとして、ふと、浦須の喉が、ひりついた。


 「…………なに、を…?」


 「……?あはははっ!焼き栗だよ!お兄さんのこと待ってる間に焼いておいたんだ!」


 くり坊が元気よく差し出してきたのは紛れもなく焼いた栗だった。そんなことはわざわざ確認を取るまでもなく浦須にも分かっていたことだし、くり坊にとってもなぜそんなことを訊いてくるのか意図が掴めなかったようだ。故に彼は小首を傾げながらも、自分の手の平の上に乗っている物が何かを浦須が分かっていないものと捉えて答えを返したのだ。


 しかし、浦須にとっての問題は、差し出された何かに対して、ではなく、その直前の行動であった。


 焼き栗は、どこから、どうやって取り出されたのか。


 ーーーその答えは、燃え盛る炎の中に素手のまま手を突っ込んで取り出した、だ。


 「なんで、そんなことが……?」


 浦須にとってそれは理解不能な行動だった。もし手が火に触れそうになった時、普通は、誰しもが、その手を引っ込めるはずだ。それは皮膚が焼かれる激しい痛みに襲われてとか、その後の火傷のじくじくとした痛みを忌避してとか、そういった一瞬の感覚や判断によるものではない。そのさらに以前に、反射的に手を引いてしまうはずなのだ。

 誰であれ、生き物として当然備わっているはずの防衛本能に抗えるはずがないのだ。


 だのに、彼は躊躇う様子もなく自然な動作で火の中に手を入れ、そこに置いてあった栗を気安く取り出したのだ。それは何気なく地面に落ちている物を拾い上げる動きと何ら変わらない。火を『火』として認識していては到底できない行いだ。


 「...それだけじゃない」


 くり坊の手の中にある栗は黒く焼け焦げている。それは彼が作り上げた火炎が見せかけではなく、本当に強い火力を発揮していたことに他ならない。だが、同じ火の中に入れた彼の手は、入れていた時間の長短はあれども、皮膚が焼け爛れていたり、痛がる様子も全くないのだ。


 ーーー異常だ。


 くり坊と名乗る子どもが『異常』なことは少し前から分かっていた。だが、それは主に彼の精神状態を指してのことだったが、どうやら肉体的にも常軌を逸しているとわかってきて、浦須は改めて、ーー否、よりハッキリと彼の異常性を認知した。


 「ほら!食べてよ!おいしいよー」


 当のくり坊は、浦須の考えている事など知る由もなく、無邪気に黒焦げの栗を食べるよう勧めてくる。見た目的にも、状況的にもそれを食べるのは控えたいところだが、ここで彼の意思に反した言動をとったら、異常な彼に何をされるかわからない恐ろしさがある。素直に従うしかない。


 「…………」


 黒焦げの果皮に爪を立て、パリパリと音を立てて割っていくと、中の実は緑がかった淡い黄色をしていた。割った果皮を取り除いて実を口の中に放り込んでみると、ホクホクとした食感と共に芳醇な栗の香りが口腔から鼻に抜けていって、素朴な甘さと渋さが舌に心地よく残った。


 「……お、おいしいよ」


 「だよねっ!あはははっ!栗おいしいよねー。あはははっ!」


 栗の味など評している場合ではないが、何も言わないと不審がられるかもしれない。味自体は本当に美味しかったので控え目だが正直な感想を伝えると、くり坊は大笑いしながら同調した。

 状況が状況でなければ、実に朗らかな、平和的なやり取りのはずなのに、場所は火災が発生している建物の一室、対峙しているのはその火災を引き起こした張本人、そして浦須はその放火魔を宥めすかし、この場から無事に脱出するために神経を尖らせている、とそんな条件が揃えば、このようなやり取りが成立してしまっていること自体、異常事態であることを嫌でも自覚できる。ーーーはやくここから逃げないと…!


 「ーーーじゃあ、今度こそかくれんぼを」


 「ねぇっ!!栗ならたくさんあるから食べて!食べてっ!」


 再びの遮りに「またか…」と苛立ちを感じながらも、どうにか苦笑で応じて、パンパンに栗が詰められた頭陀袋を受け取った。


 「こんなに沢山食べられな、……ん?これは…?」


 20も30も入っている栗を見て思わず苦言を漏らしかけたところで、浦須は袋の中の一つを摘んで、感じた違和感の正体を確かめる。


 「……これ、いや、これだけじゃなくて他のも全部、まだ焼けてない栗じゃないか。こんなの、……」


 「食べられない」とそう言いかけて、咄嗟に口を閉じてくり坊の顔色を伺う。彼に対して文句と捉えられるような発言をしてしまった。それによって不興を買い、逆上されるかもしれないと、恐ろしい想像が頭を過ぎるが、


 「あれれ?…あっ!まちがえちゃった!うっかりうっかり」


 「あはははっ!」と尚も嗤っているのを見て、浦須はそっと胸を撫で下ろした。が、こんな思いをするのはこれ以上はもう沢山だ。


 「これを全部焼くのは時間が掛かるよ。さっき食べたのでおいしかったから、他のは後でゆっくりとたべ、、、あ…?」


 適当な理由を付けて話を早く進めようとした浦須はその途中で口を開けたまま停止した。目の前にいたはずのくり坊がいなくなっていたからだ。左右に目を配るが見当たらず、そのすぐ後に後ろを振り向こうとした時だった。


 「ーーーう、うわぁぁっ!?…な、なんだ!?」


 突如、背中に何か液体のようなものが掛かって、浦須は驚きの声をあげた。一体何がと思い、背中の方に手を伸ばして、それに触れると、


 「……これは、油か…!」


 ぬるぬるとした手触りからその正体が油であるとわかった。

 そして、それを浴びせた下手人は当然、


 「あははははっ!あははははっ!」


 いつの間に後ろに回り込んでいたのか、壺の口と底をそれぞれ掴んで、如何にも中身をぶちまけましたという格好でくり坊が嗤っている。そして、一頻り嗤い終わると、持っていた壺を手放して、徐に火柱に近づいていった。


 「うーーん。…あっ!これいいね!」


 ゴロゴロと床を転がる壺に目もくれず、くり坊は燃え盛る火柱の中から手頃な大きさの薪を1本と、酒が入っている壺の中に沈んでいた柄杓をそれぞれ手に持って、浦須の方へ近づいてくる。


 「……やめろ」


 言葉が漏れた。


 その言葉は不意に浦須の口から零れた。


 何か考えがあって言ったものではない。


 だが、恐怖があった。火を携えて近付いて来るくり坊の姿に漠然とした恐れを抱いた。


 彼が具体的に何をするつもりなのかは分からない。


 だが、何か碌でもないことをする予感だけはあった。


 「……やめてくれ」


 そして、彼はそんな浦須の怖気を知ってか知らずか、これまでよりもいっとう不気味に頬を歪めてから、柄杓で汲まれた酒を呷り、赤々と燃え滾る炎を口元に近づけて、


 「ぶぶぅぅーーーっ!!」


 口から何かを吹き出す音を聞いた。


 その瞬間だった。


 「ーーーは」


 浦須の全身を火炎が包んでいた。











 「ぎぃやぁあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっ!!!!!」




 

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