第一章 十七 信じて…
「……ある程度覚悟を決めて尋ねたつもりでしたが」
浦須が語る世にも奇妙な、しかし実際に起こってしまった物語を静かに聴き、語り終わった後も暫くの間は沈黙を保っていた岩津だったが、やがて溜息と共に苦笑いを浮かべた。
「仰っていた通り、俄には信じ難いお話ですね」
難しい顔で尚も思案を続けている岩津を見て、浦須は「やっぱり」と予期していた落胆に下唇を噛んだ。
ーーーこうなることは分かっていた。
現実に起こった出来事を話したとしても、その内容があまりに現実離れしていれば、その真贋に関わらず信じてもらうことは難しい。それは仕方のないことだ。
しかし、その話をしたことで、浦須そのものが信用に値しない者と看做され、浦須の吐く言葉、一挙一動が全て否定されるようになることは、浦須にとって最も恐れる事態だ。
そしてさらに言えば、状況証拠的にはほとんど黒に近い浦須のことをここまで信じ、ギリギリまで疑いを晴らそうとしてくれている岩津にそれをされてしまえば、一体どうなるだろうか。
恐らくはきっとこの先、自分以外の他者との一切の関係を拒絶した本当の意味で孤独な生涯を、深い絶望を抱えた状態で送ることになるのだろう。ーーーあるいは、そんな状態で生き長らえることに意味などないのではないか。
「この話が本当に起きた出来事、『真実』だと告げられたとして、それを信じることができるのは、…控え目に言って『ごく僅か』と言わざるを得ないですね」
岩津は言葉を選んでくれているが、それでも浦須の話を聞いた者のほとんどがそれを唯一の真実としてではなく、嘘八百として捉えてしまうだろうことは言及することを避けなかった。
ーーーこれはもう『最後通牒』なのかもしれない。
岩津以上に浦須の話をここまで真摯に受け止め、想いを汲み取ってくれる者などいない。言わば、岩津は最後の砦だった。
その岩津でさえ、浦須が騙る『真実』を信ずる価値のないものと評するのであれば、もう浦須には暗澹たる絶望の世界を独りで歩いて行く道しか残されていない。その背中を押す者が他でもない最後の想い人である岩津だったということだ。
ーーーもう既に心は折れてしまった。
状況の改善を諦め、何もかも、自分の人生さえも投げ出そうとしている浦須。
しかし、その一歩手前、「ですが、」とそのひと言が聞こえて浦須の破滅へ向かう思考は一時的に止まった。静かに、だがくっきりと明瞭に届いた岩津の声に驚いて、その先の言葉に期待して、でもやっぱり怖くなって、目が潤んで、そうしてぼやける視界に淡い光を幻視して、そんな中で浦須はその言葉を聴いた。
「私は、その不可思議な『真実』を信じる『ごく僅か』になります。ーーーだから、」
「私のことも、信じてください」
ーーーーーーーー
暗がりの室内で浦須は再び一人になっていた。
室内の唯一の光源であった燭台の火は消され、代わりに一つだけある小さな窓に嵌っている木の格子から漏れた月明かりが、ほんの僅かに室内に明るさを齎していた。
「……何でだろう」
暗くてよく見えない天井をぼんやりと眺めながら、浦須はボソリと呟いた。
浦須は今、胸の高鳴りを抑えられないでいる。
岩津に事の顛末を打ち明け、そしてそれを信じると言われた。ーーーそれだけだ。だと言うのに、この昂揚感は一体何だろうか。
ついさっきまで胸中を支配していた諦観や寂寥は、事実を共有した仲間に対する信頼や現状の打破を求める克己心に置き換わっている。まさか真相を打ち明けただけでこれ程気持ちが変わるとは思っていなかった。それだけ自分が単純で直情的だからなのか。
ーーーきっと、それだけではない。
「岩津だったからだ」
話を聞いてくれたのが、そしてそれを聞いた上で信じてくれたのが岩津だったからこそ浦須は勇気と希望を抱くことができたのだ。これが岩津ではなく、阿散多や伊佐方や他の者であったとしたらまた違ったはずだ。浦須の心がさらに傷付く恐れだってあったかもしれない。
しかし、それでも今と同じように元気づけられることはたぶんなかっただろう。今起きている心情の変化は他の誰でもない岩津によって齎されたものなのだから。
「伊佐方は…」
ふと、伊佐方の顔が頭にチラついて、浦須は先程岩津から聞いた話を思い出した。
『伊佐方はどうやら独自で浦須さんのことを調査していたようなのです』
浦須を一人残して部屋を出た後、岩津は伊佐方に話をしに行ったそうだ。
なぜあれほどまで浦須を敵視するのか。そして何より浦須のことを一切信用しなくなった理由は何か。
岩津が訊ねたその質問は浦須自身にとっても非常に気になっていたことだ。直接訊ねる機会こそついに訪れることはなかったが、岩津が代わりに確認してくれたのでそれはそれでよかったと言える。
そしてその岩津のお陰で知る事ができた情報は、『理解』と、ある種の『不可解さ』を同時に浦須へ与えた。
伊佐方の態度が急変したように見えたのは、その独自に行ったという浦須の身辺調査の結果によるもので間違いないだろう。
身辺調査と言えば、阿散多も『きな臭い』と言っていたここ最近の情勢を鑑みて浦須の身辺調査を行ったらしいが、伊佐方はそれとは別に自ら調査に乗り出したという。自分の直感や感覚に信を置く伊佐方らしい行動だ。
『なんでも、直接意竺様とお会いして、お話をしたそうなのです。そこで意竺様が本当に信用の置ける方だと確信したようなのです』
意竺は骨董で人格が変わる点を除けば、非の打ち所がない男だと思う。若くして領主の座に収まり、手腕も上々。貴賤の隔てなくどのような立場の者とも中立的に話ができる公平性を併せ持ち、理知的でありながら人情味もあり、領民からも慕われている。ーーー本当に『骨董狂い』でさえなければ完璧だ。
評判の良い領主ではあるので、伊佐方も領民の一人として元より尊敬の念を抱いていたのかもしれないが、直接会って話をしたことでその想いが強くなった可能性はある。
と、ここまでは浦須にも納得とまではいかずとも理解はできていた。だが、理解と共に訪れた不可解、ーー否、理解したことで新たに生まれた疑問がある。
ーーーそもそもなぜ伊佐方は浦須のことを調べようと思ったのか?
伊奈岐や岩津でさえも最初に会ってからすぐに浦須を信用できていたわけではないと言うのに、伊佐方はほとんど最初から浦須の味方でいてくれていた。岩津と初めて話した時も、他でもない伊佐方が庇ってくれたのだ。
加えて、伊佐方は自分の直感や感覚に信を置く男で、それ故に一度こうと決めたことをあまり変えようとしない。だから、信じると決めたはずの浦須を疑い、結果として殺したいと思うほど浦須を憎む伊佐方の心変わりは一見すると不自然に思えてくる。だが、
「最初から俺のことなんて信用してなかったとしたら…」
相手に信用できない何かを感じ取るが、それがはっきりと分かるまでは一旦様子見をしつつ、裏で情報を得る。しかし、その間に悪事を実行されたことで不埒ものである確信を得ると共に、おめおめと目前で実行してみせたことに怒りを覚え、その勢いのまま誅罰を下そうとした。
前提を改めて考え直せば伊佐方の一連の行動に不自然な点などどこにもない。
「結局は俺の勘違いだったってことか……」
友達になれたと思っていた。
もっと仲良くなれると思っていた。
ずっと友達でいられると思っていた。
だが実際、友だと思っていたのは浦須だけで、それは一方通行の思い違いでしかなかった。
ーーー落ち込みはする。……落ち込みはするが、だが、
「……俺には、岩津がいる」
岩津だけが浦須のことを信じてくれたのだ。友だと思っていた伊佐方に裏切られたこともあって、浦須は岩津のことを、疑いを晴らしてくれる味方として、そして浦須の心を支えてくれる大切な存在として、これ以上ないくらい信頼している。それはもはや岩津なしではこの先まともに生きていくことさえ儘ならないと思えるほどだ。
『伊佐方やお兄様にもこのことを話してみようと思います。すぐには信じてもらえないかもしれませんが、浦須さんの疑いが晴れるまで私は説得を諦めません!』
両手に握り拳を作って力強く宣言する岩津に、浦須は頼もしさと感謝の気持ちで胸がいっぱいになったのを覚えている。
そして、伊佐方や阿散多を説得するのであれば、浦須よりも岩津がそれをした方が信じてもらえる可能性は間違いなく高い。話術の巧拙も然る事ながら、二人からの信用度の高さが何よりその可能性の高さを裏付けている。
伊佐方とは互いに意地の悪いことを言ったりすることもあるにはあるが、そこに険悪さはなく、むしろ信頼関係がしっかり築かれているようにも見える。もし相手に対して悪感情を抱いていれば、冗談は皮肉に変わり、諫言は醜い口論の口火となってしまうだろうことは想像に難くない。信頼関係がしっかりしているからこそ成立する軽妙なやり取りと言えるだろう。
一方、阿散多との関係性は、二人とも真面目な性格なのと、仕事上の立場もあって、一般的な兄弟姉妹のそれよりは少し固い印象ではある。しかし、互いを語る言葉の端々には相手に対する敬意が含まれていて、お互いに認め合っているのがよく伝わる。
「岩津なら、もしかしたら…」
ーーー浦須が被った冤罪を晴らすことができるかもしれない。
夜闇で呟いた小さな声とは裏腹に、浦須の胸中にはそれが実現されるであろう未来図と共に、大きな期待が芽生えていた。
「岩津…」
そうして浦須に希望を与えてくれた岩津に思いを馳せていると、ふとある光景が頭に思い浮かんだ。
「そういえば、あれは何だったんだ…?」
疑問を口にしながら、浦須は去り際の岩津の行動を思い出す。
『必ず私が浦須さんの身の潔白を証明してみせます。だからもう少しだけ待っていてください』
一通りの話を終えた岩津は最後に心強い言葉を残して部屋を後にしようとしていた。戸の前で立ち止まり、戸に手をかけようとして、ーーーしかし、その途中で手の動きが止まった。何事かと思って浦須が声を掛けようとすると、岩津はそれよりも早く後ろを振り返り、その勢いのまま浦須の眼前まで迫った。
『「…………」』
お互いの息がかかるほどの距離で見つめ合う二人。何が起きているのか分からず呆然と立ち尽くすしかなかった浦須は少しして我に返り、今度こそ何があったのか尋ねようと口を開きかけて、ーーー
「ーーーー」
気がつけば、二人の唇は重なり合っていた。
ーーーどれくらいの時間そうしていたのだろうか。ほんの少しの間だった気もするし、しばらくの間ずっとだったような気もする。
ただ、一つ言えるのは、それがたとえ一瞬の出来事であったとしても、浦須にとっては時間の概念さえも曖昧になってしまうような不思議な瞬間だったのだ。
やがて、触れ合っていた唇は離れ、潤んだ瞳に頬を上気させた岩津の顔が目に映る。ーーー『きれい』だと思った。
そうして岩津に見惚れる浦須の頬は岩津以上に真っ赤に染まっていて、それを自覚することなく一心に見つめる姿に何を思ったのか、岩津は上機嫌に微笑んで、その後は何も話すこともなく部屋を後にした。
「嬉しそうだったな…」
なぜ岩津が嬉しそうにしていたのかは浦須には分からない。だが彼女が嬉しいと思ってくれているのなら何だって良かった。ーーーそれが浦須にとって何より嬉しいことなのだから。
「俺は、岩津のことを、」
どう思っているか。上司であり、同世代の友人であり、信頼できる唯一の仲間であり、そして、
ーーー俺は、岩津のことが好きだ…!
柔らかな感触の残る唇を指先でなぞった浦須は、自分の気持ちを隠すことをやめた。浦須の頭の中は岩津の姿でいっぱいになっていて、胸を打つ心臓の音も「ドクドク」とうるさいくらい鳴っていたのだから。
ーーーとても眠れそうにないな。
月明かりが綺麗に映える暗い漆黒の室内、少しだけかび臭い古い布団を被って横になる浦須は悶々とする気持ちと高鳴る心臓の煩さに意識の覚醒を促されるが、時が一刻、また一刻と過ぎていくうちに、次第に意識は暗い水底に沈んでいくかのように薄らいでいき、ーーー
ーーーーーーーー。
ーーーーーーーー。
ーーーーーーーー。
ーーーーーーーー。
ーー焦げくさい…?
何かが燃えているような焼け焦げた匂いが鼻腔をくすぐり、落ちかけの浦須の意識を留めた。
匂いは微かで特に気に留めることもないようなものだが、浦須は何故だかそれが気になってしまって、目は瞑ったまま、五感を研ぎ澄ませようと意識を集中してみた。
すると、焼け焦げた匂いと共に、これもまた微かに、「パチパチ」と薪に火をつけて燃やしているときの音が聞こえてきた。
ーーーどこか近くで火事でもあったのか…?
焼け焦げた匂いと木材が焼ける音で浦須はすぐに建物の火災を思い浮かべた。浦須がまだ意竺の屋敷に居た頃もよく夜半に火事が起きていたものだ。特に、空気が乾燥する冬場は火事が起きやすい。一番寒い冬の時期に比べて幾分か暖かくなってはいるが、それでもまだ空気は冷たく乾燥していて、一度火の手が上がってしまえば、乾いた風がそれを周りの建物に運んで一気に燃え広げてしまうことだろう。依然として火の後始末に一層気をつけなければ行けない時期であることに変わりは無い。
と、そこで浦須はようやく真っ先に考えるべき可能性に思い至る。
「……まさか、この建物が燃えてるんじゃないよな?」
その考えが頭を過ぎった瞬間、意識は完全に覚醒し、慌てて飛び起きた浦須は外の様子を確かめようと格子が嵌った小さな窓に顔を近付け、隙間から見える景色を確認した。
「……ダメだ。ここからじゃよく分からない。…ん?あれは、煙か?それに、」
浦須が居る場所からは建物の姿も火が上がっている様子も確認できないが、煙が上がっているのと、暗い夜空がほんのりと赤く照らされているのだけは確認できた。
「なんでもっと早く気が付かないんだよ…!」
後ろを振り返って見れば、浦須が目を覚ました時点で僅かに部屋の中が赤く照らされていることに遅まきながら気がついた。
「……いや、後悔してる場合じゃない。もし燃えてるのがこの建物なら、…この、建物なら…………」
すぐに異変に気が付けなかった己の愚鈍さを批判したくなったが、そんなことをしている場合ではないと、すぐに頭を切り替えた。
が、その切り替えた先で浦須はすぐに思い知る。
「ーーー俺、死ぬんじゃ…?」
鍵が掛かった室内に閉じ込められている浦須には、少なくとも、自力で脱出する手段はない。出入りを行うための戸は外から鍵が掛けられていて、押しても引いてもビクともしない。試しに何度か体当たりもしてみるが、肩が痛くなっただけで、戸の方には何の変化も見られない。
ならばと、もう一度後ろを振り返って部屋の唯一の光源となっている小さな窓に近付いて細部を凝視する。しかし、格子がきっちり嵌ったその窓は小さく、仮に格子を全て取り除くことが出来たとしても、浦須の身体の大きさでは通り抜けるのは不可能だ。そして、浦須にはその小さな窓についてもう一つ懸念があることを思い出していた。
「…たしか、火事の時に煙をたくさん吸ったらそれだけでも死ぬって……」
近くで火事があったとき、誰かがそう話していたのを聞いた記憶がある。真偽のほどは分からないが、もしそうだとしたら、火だけでなく、煙にも気をつけなければならない。
だが、あの大きさで格子まで嵌っているその窓では換気もあまり期待できそうにない。故に、煙が室内に立ち込める前にどうにかしてこの部屋から抜け出る必要がある。
「おーーいっ!ここから出してくれぇーーーっ!!」
自力で脱出する手段がない以上、誰かに鍵を持ってきてもらって戸を開けてもらわなければならない。そのために浦須は戸の前に立ち、可能な限り声を張り上げて気付いてもらおうとした。
「岩津っ!!火事だっ!!聞いてくれっ!!」
そして現状、近くにいる誰かとは、岩津を置いて他にない。先程岩津と話をしていた時、ここが農園の真ん中に立った大きな建物ーー母屋の中の一室と聞いた。そして、阿散多と伊佐方は一旦ここから離れて商会に戻っているとも聞いた。
つまり、この建物の中に居るのは岩津と囚われの身である浦須だけのはずだ。ならば岩津にどうにか気付いてもらうしかない。この一室と岩津の寝室の位置関係は分からないが、とにかく浦須は目一杯の声で叫んだ。
ーーー岩津は来てくれるだろうか?……いや、きっと来てくれるはずだ…!
浦須は精一杯叫んでいるが、その声が届かない可能性はある。声が届かないほど位置が離れている可能性もあるし、火事に逸早く気付いて先に脱出しているのかもしれない。あるいは、逆に火事が起きていることに気が付かず、まだ寝ている可能性も全くないわけではない。
ただ、浦須はそれら悪い可能性が頭を過ぎる一方で、どこか気持ちは大丈夫だろうと、焦りや不安で心を乱されることはなかった。
岩津であれば、たとえ浦須の声が聞こえなかったとしても助けに来てくれるだろうし、ましてや浦須を置き去りにするようなことはないはずだ。火事に気付いていない可能性についても、夜遅くで火事の進行具合によっては気付かないこともあるかもしれないが、鈍感な浦須に気づけたことを岩津が気付けず、挙句寝たまま火に焼かれる想像が全くつかない。
ーーーだから岩津は必ず来てくれる。
岩津が助けに来ない未来よりも助けに来る未来の方が余程信じられる。半ば確信に近い岩津への期待を浦須は心の中で祈るように唱えた。
すると、それが功を奏したのか、
ーーーガチャッ
錠が外れる音が聞こえた。岩津が夕餉を持って来た時も聞いた音だから間違いない。やはり来てくれたのだ。
ーーーよかった…!助かった!
解錠の音であることを確信して、浦須の心は喜び勇んだ。余程大丈夫だと思いつつも、ほんの僅かにだけ残っていた不安もついに曇り一つなく晴れ渡り、助けに来てくれた岩津に心の中で何度も感謝を述べながら、同時に言葉でこの喜びに満ちた感情をどのように表現すればいいか頭を悩ませて、答えが出ないまま、引手に掛けた右手に力を入れて引き、開口一番にでき得る限り心を込めて「ありがとう」とそう伝えることだけ決めて開いた戸の向こう側で、
「わ!びっくりくり」
黒っぽい汚れを顔や全身の至るところに付けた小さな子どもが、満面の笑みで待ち構えていた。
ーーーー
「あははははっ!」
戸の前に居たのは見ず知らずの小さな子どもだった。
顔や体の至る所が煤か何かで黒く汚れているが、本人はそれをまるで気にしない様子で大笑いしている。
ーーーこの子は、誰だ??
面識がないのはもちろんのこと、農園で働いている間、こんな小さな子どもが出入りしているのも辺りを彷徨いているのも見たことがない。誰かの連れ子かと思いもしたが、伊奈岐には伊佐方よりも下の子どもは居ないらしいし、阿散多や岩津、伊佐方、そしてじいやとばあやに至っても、子や孫を儲けているという話は聞いたことがない。
「おいら、くり坊っ!びっくりくり!びっくりくり!あははははっ!」
一般的に使用人として取り立てられる子どもは10歳前後であることが多い。
対して、自分が言った言葉で大笑いをしている目の前の子どもーー『くり坊』は、見たところ5歳くらいに見えるので商会に奉公している使用人という線も薄いだろう。
もっとも、雇入れの判断は雇い主が決めることなので、10歳に満たない子どもであっても使用人として取り立てられる例もある。浦須も仕事をするようになったのは少し後だが、屋敷に入ったのは4歳頃だったはずなので、年齢を理由にその可能性が全くないと言うつもりはない。
「…どっちかと言うと、」
くり坊が商会の使用人でないと考えられるのは『身なり』が理由だ。
衣服の所々が破れているのもそうだし、煤のような黒い汚れと、さらにその下にも薄らと黄ばみのような汚れが付いている。乱雑に伸び散らかしたざんばら髪は長い間手入れをされた様子がない。ーーー端的に言って、不衛生だ。
商会に属する者は阿散多や岩津たち上位層の者は当然の事、店舗内で接客している古株から店先で箒を掃いている新米に至るまで身綺麗な格好をしていた。これは当然のことで、使用人の服装が汚れたままになっていればその使用人本人の衛生観念に疑問を持たれるばかりか、指導せず放置していることに対して店としての責任を問われ、信用を落とすことにも繋がりかねない。有力者との取引も多い商会がそこを蔑ろにするとは考え難く、ちょっとした服装の乱れであったとしても真っ先に指導と是正が行われるはずだ。
目の前の子どもがこんな格好をして出歩いているということは、それはつまり、
「商会の関係者じゃない」
だとすれば、彼は偶然迷い込んでしまった浮浪児か何かなのだろう。こんな真夜中に、周りに民家などもないこの場所に、一人でいるのはおかしな気もするが、それ以外に考えられるものがない。
助けに来てくれたのが岩津ではなかったのが少々残念な気はするが、開けてくれなければ浦須は焼け焦げて死んでいたのだ。たとえ浮浪児であろうが命の恩人であることに変わりはないので、感謝しなければならない。
「……えっと、ありが、ーーーあっ!」
困惑を隠せないまま、躊躇いがちに感謝を伝えようとする浦須。しかし、その途中で突如、くり坊が走り出した。
「あはははっ!あはははっ!」
笑いながら廊下を走るくり坊に浦須は一瞬呆気に取られるが、この建物で今起こっている事を思い返して慌てて追いかけた。
「ちょ、ちょっと待って!」
「あはははっ!おにさーーん、こっちだぁーーー」
火事が起きている建物の中を子ども一人で移動させるのは危険だ。さらに言えば、彼は腕白で落ち着きがなく、制止の声に耳を貸さないばかりか、浦須が追いかけてくるのをかえって楽しんですらいる。そんな子どもを一人にするわけにはいかない。
一方のくり坊は、すばしっこく駆け回ったかと思えば、曲がり角を曲がった先で半身だけこちらに見えるように覗かせてニコニコしながら待っていたりする。ーーおちょくられているようで少々腹立たしい。
「ーームカつくけどっ、一人にしちゃ」
この辺りはまだ火の手が広がっていないが、火が勢いよく燃えている場所や煙が充満しているような命の危険がある場所に近づけさせてはいけない。火災から彼を守り、無事生還させるのが恩を受けた者として、そして、一応は年長者としての最低限の義務だろう。
そのためにも一刻も早く彼に追いつき、引っ張ってでも出口まで連れて行ってやらなければならない。
「ーーなのに!くそっ!全然追いつけないっ!!」
全力で走って追いかけているはずなのに、一向に距離が縮まらない。いや、より正確に言えば、くり坊が不意に立ち止まったりして、追いつきそうな時もあるのだが、捕まえようと伸ばした手を俊敏で器用な動きで悉く回避し、やがて浦須の息が切れて足が止まった頃に再び駆け足で逃げていく。その繰り返しのせいで、縮まるはずの距離は段々と広がっていき、逆行するように浦須の体力はどんどん消耗されていった。
「……はあっ……はあっ……くそっ…!…こんなこと、やってる場合じゃないのに!」
走って、走って、息が上がるまでくり坊を追いかけ続けるが、やがて体力がなくなり、足が止まる。
結局、くり坊を捕まえることは出来なかった。
両膝に手をつき、肩を上下させながら呼吸を整えようとする。そして、そうしながらも顔は上に上げて周りを見渡せば、薄らと煙で白く霞んで見える中にチラホラと赤のような橙のような光が揺らめいているのが見えた。ーーーあれは、火だ。
耳を澄ますまでもなく、建物に使われている木の建材が『パチパチ』と音を立てて燃えているのも聞こえれば、肌を撫ぜる空気の熱も先程より明らかに高くなっている。
「……はやく、しないと」
火の手はすぐそこまで迫っている。早くくり坊を連れて外に出なければ、彼の命も、浦須の命も危なくなる。呼吸を整えるためにもう一息つきたいところだが、休んでる時間はもう無さそうだ。
「あそこに、入っていったよな…」
荒い息遣いで壁に手を付きながらとぼとぼと歩いた曲がり角の先、途中で吸い込んでしまった煙による咳き込みのせいで余計に痛くなった胸を反対の手で押さえながら、前に見える襖を浦須はじろりと睨みつけた。
その襖の先にあるのは、普段皆で食事を摂るときに使っている部屋だ。中央に囲炉裏があり、食事時になると皆でそれを囲みながら楽しく賑やかに食事をしていた。
「…………」
『ほれ、浦須殿。魚が焼けました。どうぞ召し上がってくだされ』
『お、こいつはイワナだねぇ。この辺で捕れる魚は臭みも少なくてかなり美味いんだよ』
『今日もじいやが沢山釣ってくれましたから、浦須さんも遠慮せず食べてくださいね』
『かっかっか!お嬢様もたんと食べるんですじゃ。子どもはよく食べてよく育つんですじゃ』
『もう。また子ども扱いして。どうするんですか、食べ過ぎでブクブクに太ってしまったら」
『ほっほっほ。丸くなられたお嬢様も、きっとめんこいですのう』
『丸くなること自体が問題なんです!』
じいやが近くの小川で釣ってきたイワナ。それを囲炉裏の火でこんがり焼いた塩焼きは絶品だった。
『今日は山菜鍋だね。ばあやが作った山菜鍋はいくら食べても飽きないんだよ』
『私もばあやが作る山菜鍋、大好きです。浦須さん、良ければよそいましょうか?」
『おぉ、お嬢様、浦須殿の分はどうぞ多めにしてくだされ。今日は沢山お手伝いいただいて助かりましたからのう』
『じいさん、そんな心配しなくともたっくさんあるから、おかわりすればいいんですじゃ』
ばあやが採ってきた沢山の山菜やきのこ、野うさぎ、麸が入った鍋も、野生味溢れる味を醤油で味付けしたまろやかな出汁が上手く全体をまとめていて、食べていてほっと安心する優しい味だった。
『浦須くんは本当に美味しそうにご飯を食べるねぇ』
囲炉裏を皆で囲み、賑やかに談笑しながら
美味しいご飯を食べて賑わう、あたたかくて、ほっこりする幸せなひと時、ーーーそれだけじゃない。
農園で過ごしたあらゆる時間と場所が浦須にとって大切で、かけがえのないものになっていた。それはたとえ数日のことであっても、浦須の心の深い所に残る優しく幸せな記憶であり続けることに変わりは無い。
「……なのに、どうして?どうしてこんなことに…」
浦須が今後一生をかけて恩を返すはずだった伊奈岐は倒れた。そしてさらに、今こうして、かけがえのない思い出が育まれた場所が、これからも大切な思い出がいくつも生まれるはずだったその場所が、火に呑まれて失われようとしている。
その現実が、浦須には悔しくて、悲しくて、どうしようもなく切なくて、声が震える。
「……でも、俺にはどうすることもできない」
非情な現実が浦須からかけがえのないものを奪おうとも、それを食い止め、守る力は浦須にない。
そんな浦須に今できることと言えば、窮地を救ってくれた恩人でもあり、浦須のことを絶賛翻弄中でもある厄介な立場のくり坊を火災現場から逃がし、その後で岩津と合流して指示をもらうことだ。
火事を止める手段も策もない浦須が一人残っていたとて、何の役にも立たないが、岩津なら何かいい考えがあるかもしれないし、それを手伝うことで役立たずだったはずの浦須にも役割が与えられるかもしれない。
「…いそがないと」
ーーー早く岩津と合流するためにも、まずはくり坊を外に逃がそう。
自分がやるべきこと、その優先順位を改めて確認し、疲労と暑さで重く苦しい身体に鞭を打った浦須は、汗でぐっしょり濡れた額を腕で拭ってから、襖の引手を引いて、
「ーーーあつっ!」
室内に籠っていた熱が襖を開けた浦須の方へ熱波として流れてきた。
ーーーなぜ熱が籠っているのか??
まず第一に、この部屋にある3つの戸が、浦須が1つを開けるまで全て閉まっていた。
次に、他の場所よりも燃えている場所が多い。壁や柱、それに畳にまで火が回っている。
そして、最後に、
「あははははははははっ!あははははははははっ!」
部屋の中央の囲炉裏、轟々と燃え盛る炎を前に、声高らかな子どもの哄笑が浦須の鼓膜を震わせていた。