第一章 十六 不器用な告白
ーーーポタ、ポタ
暗がりの室内に訪れたひと時の静寂。時が止まったかのようなその静けさの中で、液体の滴る音だけが時間の経過を伝えていた。
「…………なんで」
母殺しの仇敵である浦須ーーその心臓を貫かんと伊佐方は刃を構え突撃した。
短刀を強く握り締めた手には肉体を貫く生々しい手応えが確かにあった。
しかし、その凶刃は浦須には届かず、その前に立ち塞がる男の腕に突き立っていた。
「……なんの真似だよ、兄さん」
「…………」
浦須と伊佐方の間に立ち、浦須の代わりに短刀の刺し傷をその身に負ったのは、ここまで浦須たちとの会話に参加せず静観を通していたはずの阿散多だった。
それは、引き倒された姿勢から必死に片腕を伸ばしていた岩津にとっても、訪れるはずの痛苦と死の恐怖から咄嗟に目を背けていた浦須にとっても、確実に息の根を止めるために一瞬たりとも怨敵の浦須の心臓がある辺りから目を外していなかった伊佐方にとっても、予想だにしないことだった。故に当人である阿散多を除いた三者共が、驚愕し凝然と目を見張ることになった。
ーーー阿散多さんが、俺を守った…?
本人も言っていたことだが、阿散多は浦須のことをあまりよく思っていなかったはずだ。それは浦須だけでなく、岩津も伊佐方も、皆が唖然とした表情で一時的にでも身動きを止めてしまっていることからも分かる通り、阿散多を除いたこの場の全員の共通理解だった。それがこうして傷を負ってまで身を呈したのだから皆が驚きのあまり場の空気ごと静止してしまったのも無理からぬことだ。
而して慮外の事態によって生まれた停滞。それを打ち破ったのは、やはりと言うべきか、不倶戴天の決意に水を刺された形の伊佐方であった。
「なんでこいつのことを庇うんだよっ!!こいつは母さんを、母さんを殺して」
「ーーーまだ、分からない」
「……は?」
一度削がれた気勢を再び上げて浦須の罪を糾弾しようとする伊佐方。しかしそれもまた阿散多の言葉に押し留められてしまう。
「…岩津が言っていた通りだ。この者を狼藉者と見なすにはまだ、情報が不足している。…確証もないまま命を奪ってしまうのは本末転倒だ」
公明正大で真面目な性分は依然として発揮されているようで、伊佐方が実行しようとした不当な報復を阿散多は認めない。
しかし、その姿に以前のような精悍さは無く、やつれた顔に刃傷による痛みで表情を歪め、訥々と語る姿は痛々しささえ感じられてしまう程だ。
「…だからって、こいつは間違いなく怪しいだろっ!疑わしきは罰せよだ!どいてくれよっ!兄さんっ!!」
その様子を目の当たりにし、また負わせなくてもいい傷を負わせてしまった罪悪感も相俟って伊佐方は一瞬鼻白むが、それでもなお食い下がり、未だにその場を譲ろうとしない阿散多に怒声をぶつける。
「…………私は、」
それでも阿散多は動こうとしない。代わりに顔を俯け、その大きな背中を弱々しく震わせた。
「……わたしは、、、俺は、もうこれ以上見知った者の命が失われるのを、見たく、ない」
それは、質実剛健の衣を被った男の優しくて脆い、今にも消え入りそうな小さな心境の吐露であった。
ーーーーーーーー
阿散多の切実な告白から暫くのち、暗がりの室内に一人、浦須は取り残されていた。
重苦しいやり取りの後だったため、主に精神面の影響で身体が重く怠い感じがするが、目立つ怪我などはなく今すぐに命が失われるような心配はない。縄で巻き付けられていた身体と手足の枷の拘束についても、この部屋から最後に退出した岩津によって全て解かれているため自由に動き回ることもできる。ーーー施錠されたこの室内に限りだが…
浦須は伊奈岐を殺害した容疑者、あるいは最重要参考人として、農園の敷地のどこかにある一室に軟禁されることになった。
『浦須さんにはこの場所で暫く過ごしてもらうことになります。窮屈な思いをさせてしまいますがご容赦ください』
表情を曇らせながらそう告げた岩津にとってもその決断は不本意なものだったのだろう。だがそれ以上に、
『伊佐方はもちろんのこと、私もお兄様も現状に納得しているわけではありません。事件の真相をしっかり究明した上で、母を殺した犯人を正しく断罪するべきだと思っています。ーーそのためには浦須さんの協力が不可欠です』
岩津や阿散多はあくまで、伊奈岐の死の前後、あるいは死に往く姿さえも目撃している可能性がある浦須を、証拠の少ない現段階で犯人と見なし、あまつさえ命を奪うのは早計かつ愚かな行為だと考えているだけで、浦須のことを根本的に信用している訳ではない。浦須が犯人かもしれないという仮定は据え置いたまま徹底的に調査を続け、結果として洗い出された情報が浦須を犯人と指し示すのであれば、それをもって断罪することもやむ無しとそう言っているのだ。
「そりゃそうだよな」
岩津も阿散多も無条件で浦須を信用はしないというのは浦須にも分かっていることだ。むしろ拷問にかけたりせず、あくまで浦須が自ら話すのを待ってくれている辺り、かなり譲歩した態度だといえる。二人ができるギリギリの温情を示してくれているのだ。
だというのに、いや、だからこそ、
「……言えない」
たとえそれが浦須が目撃した事実であったとしても、柿の木が暴れて死者が出たなんて冗談にしか聞こえないことを言って何になるのだ。却って二人からの信頼を裏切る事にならないだろうか。だったらいっそ有り得そうな嘘を吐く外ない。嘘を吐くのは悪手だと確認したばかりだが、それでもしっかり話を組み立てて、綿密に準備すれば上手く話せるかもしれない。犯行を行ったのも見ず知らずの架空の第三者にすればいい。そうすれば槍玉に挙げた者の登場による話の食い違いも生まれない。自分の話の整合性が崩れないよう細心の注意を払っておけば嘘が露見する心配をかなり減らせる。その上、伊奈岐の死の前後の時間について岩津たちはほとんど情報を持っていない。何とでも言えてしまう。……なんだ、それでいいじゃないか。何とかなるじゃないか。バレないように上手く嘘を吐いて、誰も傷付かないように傷付けないように嘘で塗り固めて、誰もが納得し信じて疑うことのないもっともらしい架空の物語を紡ぎ出して、
『ーーーそうやってまた、逃げるのか?』
「…………」
誰かの声が浦須の脳裏に響き渡った。ひどく聞き馴染みのあるその声が発した言葉は浦須の思考を中断するだけの強さがあった。その声はさらに続ける。
『犯した罪を償いもせず、嘘を吐くことでさらに罪を上塗りするつもりか?』
その声は浦須を糾弾していた。浦須の行いが誤りであると、愚かなことであると、さも何もかもを分かったような口の訊き方で説き伏せようとしてくる。そのどこか上から見下ろしているような傲慢さが余裕のない浦須にとってはどこまでも腹立たしかった。
「………だったら、だったら俺はどうすればいいんだよ!?」
腹立たしさの赴くまま、その高慢ちきな声に浦須は腹いせをするように解決策を求めた。
『…………』
だが、その声は何も答えない。否、答えられない。
自分の頭の奥から聞こえてくるその声もまた答えを持っていないのだから。
「しょうもない…」
どれだけ考えても良案は浮かんでこない。その事実に焦りと、そして愚昧な自分への怒りが募った結果、もう一人の自分という虚像まで引っ張り出してきて自作自演をする羽目になった。
そんなことまでしてしまう自分に、怒りを通り越してもはや呆れ返るばかりだ。
ーーーコン、コン
と、そこで入口の戸を軽く叩く音がした。
「浦須さん、今よろしいですか?」
戸の先から聞こえたのは岩津の声だった。岩津の声に下を向いていた顔を上げ、膝を抱え込んで座っていた姿勢から浦須は立ち上がった。それから何事か確認しようと戸の方へ近づくために一歩踏み出したところで、なぜか『ーーガチャッ』と錠前が開かれる音が聞こえて、そしてそのまま戸がゆっくり開けられた。
「夕飯をお持ちしましたのでどうぞ召し上がって、……どうかしましたか?」
驚いて目を見張る浦須を見て、岩津はキョトンと小首を傾げるが、その反応もまた浦須の驚きと困惑をさらに加速させた。
「えっと……」
「あ。ひょっとして私が料理を作れることに驚いていますね?確かにじいやとばあやには及びませんが、私だって年頃の女ですから一通りの家事はこなせるんですよ」
「もう。失礼しちゃいますね」と冗談っぽく岩津は頬を膨らませた。農園に来てからの食事はじいやとばあやが作ったものを食べていて、それ以外の家事もじいやとばあや、あとは使用人になった浦須で分担して行っていた。岩津は商売の仕事に専念していて家事をしている姿は見た事がないので意外と言えば意外なのかもしれないが、浦須が驚いたのはそこではない。
「…俺って軟禁されてるんだよね?」
食事は朝晩の2回持って来てくれることになっていたのでそこはいいのだが、まさか戸を開けてそのまま入ってくるとは思わなかった。元々誰かを閉じ込めておくために作られた部屋なのだろうか、戸の横の壁に食事を渡すために空けられた小さい小窓のようなものがあるので、わざわざ戸を開けなくても中に居る者に渡すことはできる。それに岩津は開いた戸をそのままに、両手を食事が載ったお盆で塞いでいたため、逃げ出そうと思えばいくらでも逃げ出せる状況が生まれていた。それはもう驚く外ないだろう。
「はい。でも、浦須さんはそんな状況でも逃げ出したりしない。そうですよね?」
しかし、岩津はそれを問題だと思っていないらしい。いやむしろ浦須への信頼さえ覗かせている。自分の母を殺害した可能性があり、黙秘を続けている浦須に、だ。
「……どうしてそう思うんだ?俺はこの状況を見て…逃げ出せるって思ったんだ。本当だ!…だから、今すぐにだって」
「ーーでも、そうしていない。今こうして私と会話してる間だって逃げる素振りさえ見せてないじゃないですか。ちょっとそれは説得力に欠けますよ」
急ぐ様子もなくゆったりとした動作でお盆を台の上に置いた岩津は微笑みながらも鋭く事実を指摘してくる。
「そ、それは…」
対する浦須は岩津の鋭い指摘に咄嗟に言葉を返すことができない。実際、浦須はそんな隙だらけの状況で何も行動を起こしていない。ーーー岩津の指摘は的確だ。
おかしいと最初に指摘したのは浦須だったはずなのに、気付けば立場は逆転していた。
そのことにも困惑して浦須の思考はますます乱れてしまうが、それでも説得力のある言葉を、正しい根拠を示すために、考えて、考えて、考えてーーー
「ーーー浦須さんは、今どうしたらいいかわからないんですよね?」
「……え?」
岩津の案じるような声が浦須の耳朶を打った時、脳内を満たしていたはずの思考がはたと止まった。それは常に留まる事なく揺れ動き続けた思考の漣を一挙に排し、まっさらな何も無い空間が突如自分の目の前に広がったかのような衝撃だった。
「浦須さんは母の死について何か重大なことを知っていて、それを隠そうとしている。そしてそれは恐らく保身や利己的な動機ではなく、何か言葉にするのも憚れるような事実を私たちに明かすことへの躊躇い。…違いますか?」
その衝撃の覚めやらぬ間に、岩津の半ば確信めいた洞察はさらに浦須の心の間隙を縫うように通り抜け、ひと息に真相に迫っていく。
「…………」
その早さに浦須は追い付けない。追い付けないからこそ無言の肯定を示してしまう。
そして、
「……本当に、本当に信じられないようなことなんだ」
一度隠し事をしている事を認めてしまえば、あとはもう、浦須にはそれを堰き止めておく術がなかった。
ポツリと、小さく、か細い呟きのような念押しで話を始めた浦須を、岩津はただじっと、慈しみさえ感じさせるような温かな眼差しで見つめている。見つめながら、浦須の次の言葉を待っている。
優しさに包まれた静寂の中、自分の心音だけが部屋中に喧しく鳴り渡っているような錯覚を覚えながら、浦須は頭の中に湧き続ける躊躇いや遠慮を何度も何度も噛み殺し、やがて決心を固めようと深く息を吸い込み、肺に溜まった空気を少しずつ、時間を掛けて吐き出してから前を向いた。
「伊奈岐さんを殺したのは、ーーー」
あの日起こった信じ難い出来事を、自分だけが見てしまった信じられない光景を、浦須はありのまま、自分を信じてくれる人のために語り聞かせた。