第一章 十四 さるも木から落ちる
「おーい、浦須くーん。取れそうかーい?」
木に登り始めてからそれほど間もなく、浦須は初なりの実が生っている枝の付け根辺りまで到達していた。
「大丈夫です!このまま取りに行きます!」
柿が生っている枝はそこまで太くないが、幸いなことに、その下の枝が太くて丈夫そうなので、下の枝を伝って行き、下から手を伸ばせば簡単に取る事ができそうだ。
方針を決めた浦須は登る時よりかは幾らか慎重に両手両足で枝を掴み、交互に手足を抜き差ししながら、柿の元まで近づいて行く。
やがて、柿のすぐ下まで到達した。
「……よし…!あとは、」
ゆっくりと上体を起こして、腕を上に上げる。姿勢を安定させるために、右手で柿が生っている枝を掴みながら、左手で柿を、掴んだ。
ーーーやった!でも慎重に!
ぎっしりと果肉が詰まっている感覚を掌全体に感じながら、強く握り過ぎて潰してしまわないように、微妙な力加減を調節しながら、少しずつ、少しずつ、慎重に、慎重に、柿を下に引っ張っていく。それに伴って、枝がしなり、葉と葉がカサカサと擦れ合う音がして、実と枝の結合部分に、徐々に、徐々に、力が加わっていく。
ーーーそして、待ち侘びたその瞬間が訪れた。
『ーーーープツッ』
実と枝の繋ぎ目が千切れる軽快な音と共に、手にずっしりと重みが伝わった。
ーーー願い柿を、手に入れた。
母の形見として受け取った不思議な植物の種。よく分からないままそれでも手放さずに持ち続けていたら、それを欲しがる伊奈岐が現れた。彼女はそれを、手にした者の願いを叶えてくれる『願い柿』の種だと言って、譲ってもらうために浦須に衣食住と職を与えた。ーーー否、それだけではない。
その不思議な種は多くの出会いを齎した。商会では伊佐方と阿散多に会い、農園ではじいやとばあや、そして岩津に迎えられた。『せきさん』と名乗る不思議な男にも何度か会った。
さらに、もう少し時間を遡れば、意竺や屋敷の面々との出会いもその種が齎したものだった。なぜなら意竺がその種を浦須へ渡すよう母から託されてなければ浦須に会うこともなかったはずだからだ。必然、意竺と浦須が会っていなければ、意竺の妻や息子、一緒に働いていた使用人一同とも出会えなかったはずだ。
そして、浦須は出会った多くから恩を受けた。
別れ方こそ最悪ではあったが、それは意竺たちも例外ではないし、もちろんその後に出会った伊奈岐たちからもそうだ。何の取り柄もない能無しの厄介者でしかないはずの浦須に居場所と、日々を生きる目的を与えてくれた。
今すぐには無理かもしれないが、岩津と伊佐方、じいやとばあや、そして阿散多にも良くしてもらったり、認めてもらえた恩を返していきたい。それに、ずっと後になるかもしれないが、いずれは意竺たちにも長い間世話になった恩を返したいと思っている。
「ーーーだけど、今は」
絶望の淵から浦須を拾い上げた命の恩人であり、その交換条件として不思議な種を譲り受けた伊奈岐に、まずはその『成果』を実感してもらおうではないか。
自身の願いを叶えるために奔走し、手に入れた『願い柿』を見事に結実させた。
『願い柿』もその努力も実を結んだのだ。
ならば、今現在浦須の手中にある『願い柿』は一刻も早く伊奈岐に渡さなければならない。
「今すぐ降りるので、ちょっと待ってくーーーーッ!?」
摘果した柿を手に木を降りようとしたその時だった。
「ーーくっ!」
浦須の視界が突如上下に揺れて、姿勢が大きく崩れた。
ーーー足下が揺れているのか…!?
目を白黒させながら、咄嗟に踏ん張って耐えようとする。だが、揺れは大きくこのままでは振り落とされてしまう。浦須は最悪落ちても怪我だけで済むかもしれないが、浦須の手の中にある大事な柿は無事では済まない。
「ーーっと!」
どうしても落ちるわけにいかない浦須は、体勢を崩しながらもどうにか左手に持っていた柿を胸に抱えるように持ち直し、右手で掴んでいた上の枝を離して、倒れ込みながら右腕を下の枝に回して抱え込んだ。
「うぅ…なんだ、これ……!」
倒れ込む時に胸を強く打って呼吸が詰まるが何とか下の枝に掴まることは成功した。
だが依然として揺れは収まらないため、より安定させるために両足でも枝を挟み込み、全身を木に押し当てて揺れが収まるのを待つことにした。
ーーー何が…?地震か?……いや、でも、
地震にしては揺れている時間が長いし、それに揺れ方も違う気がする。地震であればもっと小刻みに横方向に揺れるはずだが、現在進行形で浦須が体感している揺れは上下に大きな揺れだ。まるで何かの生き物の上に乗っているような、昔、意竺の屋敷で見た掛け軸に描かれていた想像上の生き物である龍の背中に乗っているようなそんな感覚で
ーーーヒュッ
風切り音と共に、何かが首筋を掠めた気がした。その感覚と共に、ぎゅっと瞑っていた目を見開く。目の前の光景は自分が懸命に掴まっている枝の樹皮が半分と、近づいたり、遠ざかったりする地面が半分だった。
「……そんな、」
目に映っている光景が信じられず、またどう表現していいか分からない浦須は言葉を詰まらせる。だが、今起こっていることをそのまま、ありのまま表現するのだとしたら、こう言う外ない。
「ーーー『木』が、『動いている』、のか…?」
そう頭で考えながら、口にしながらも、その単語の組み合わせに浦須は違和感を覚えずにはいられない。
当たり前だが、本来、木とは目に見えて『動く』ものではない。だからこそ、それが目の前で『動いている』光景は常軌を逸した光景と言わざるを得ない。
常軌を逸していると言えば、そもそもこの木は成長度合いから言ってもおかしいとは思っていたが、今現在浦須が受けている衝撃はその比にならない。
「そんな、馬鹿なことが……!いや、それよりも、助けを…」
明らかな異常事態。そして、浦須一人ではどうにもできない事態だ。誰かにこの状況を報告して対処法を考えてもらわなければならない。だが浦須は今なお、振り回されている枝に捕まるので必死で、その場を逃れられない。だから、近くにいる誰かを呼んで、
「……そうだ!伊奈岐さんだ!ーー伊奈岐さんっ!伊奈岐さんっ!」
起こった事が衝撃的過ぎて頭から抜けていたが、木の近くには伊奈岐がいる。彼女ならこの事態に対しての対処法を何か思いついてくれるかもしれない。
上下に揺れる視界の中、声を張り上げて近くにいるはずの伊奈岐を呼ぶ。そして、首を頻りに動かして、動き続ける視界に目を凝らしていると、視界の端に伊奈岐の姿を捉えて、
「ーーーーーーーーーは?」
伊奈岐は、倒れていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーその瞬間、浦須の時間は止まっていた。
伊奈岐はここから少しだけ離れた場所で倒れていた。
こちらに足を向け、うつ伏せで倒れていることから、その場から離れようとしている最中に倒れたのか。ーーーまるで何かから逃れようとしたかのように。
そして、倒れた伊奈岐の周りには、それぞれ赤・橙・黄・緑の丸い物体がいくつか転がっている。ーーーあれは、柿だ。
初なりの実の他にも緑や黄色・橙色のまだ未成熟な柿が生っていたのを覚えている。それがなぜか伊奈岐の周りに集中して落ちている。ーーーいや、待て。それも重要なことかもしれないが、
ーーー『赤い柿』なんて無かった。
柿が熟せば赤に近い色に色づくことはある。だが、それはりんごのような真っ赤というよりも、赤に橙が少し混じった朱色にしかならない。浦須が胸に抱えているこの初なりの実がまさにその朱色であり、これ以上赤に近づくことはない。
ではあの『赤い柿』は何なのか。ーー簡単だ。だってそれは同じ色なのだから。伊奈岐の頭や口元から止めどなく流れているそれと同じ色をしているから。
ーーーッ!
鈍い音を立てて何かが伊奈岐の身体に当たった。目に見えない速度で飛んできた何かは、彼女の身体に当たって上方に弾む。ーー緩慢に放物線を描くそれは、未成熟な緑色の柿だった。
やがて、それは地面に落ちて、身じろぎ一つしない彼女の傍にある赤い血溜まりを転がり、『赤い柿』になって動きを止めた。
「ーーーあ、あああぁぁあああっっ!!!」
浦須は絶叫した。
受け入れ難い真実の、その一部始終を見届け、理解してしまった。
驚愕、戦慄、怒りの衝撃が浦須の頭からつま先まで駆け巡り、それら渾然一体となった激情が喉を通して止めどなく溢れ出していく。
ーーーなんで?なんでなんでなんで木が…?木が、動いて…?どうして、どうして伊奈岐さんを…?伊奈岐さん、を傷付けて…?いや、あれは殺そうとしているのか?なぜ…?……伊奈岐さんは、生きてるのか…?伊奈岐さんはもう助からないんじゃないか?伊奈岐さんは、もう、しん
「う、うおええええぇぇ…………」
一つの疑問に答えを用意しようとするその間に、新たな疑問・推測が次々と頭の中に現れていき、そして、それらがある一つの可能性を指し示した瞬間、胃から熱いものが込み上げてきて、浦須は嘔吐した。
その可能性は浦須にとって、反射的に身体が拒絶反応を起こしてしまうほどに否認すべき可能性だった。
ーーーいやだいやだいやだおかしいおかしいまちがってるまちがってるまちがってる
しかし、浦須がどれだけその可能性を否定し、不条理を喚き、現実との乖離に精神と体力を摩耗したとしても、木はそれを意に介すはずもなく動き続ける。
枝をしならせるように振り上げて勢いよく振り下ろすと、枝に付いていた実が枝から外れ、物凄い速度で飛んでいく。それが1本の枝だけじゃない。何本もの枝が無秩序に動いて枝の先の実を飛ばしていく。
その物凄い速度の実が、倒れて動かない伊奈岐を目掛けて飛んでいく、飛んでいくーーー
「や、やめろ…!やめろぉぉっ!!」
同時に飛ばされた3つの柿の内、1つが伊奈岐の背中に当たり、2つは外れた。ーー伊奈岐に反応は無い。
「やめてくれぇっ!!!も、もうやめろよぉっ!!」
そのすぐ後に2つ飛んできて、右腕と腰辺りにそれぞれ命中した。ーー伊奈岐に反応は無い。
「これ以上は…!これ以上は……!伊奈岐さんが、」
いつから流れていたのか、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔になりながら、危害を加えるのを止めるよう、木に懇願する。
「どうか…どうか、お願いだから…!じゃないと、伊奈岐さんが、死んでしまう……!」
しかし、浦須がどれだけ喚こうと、みっともなく縋ろうと、希おうとも、木がそれに答えることは終ぞなかった。
猛烈な勢いで飛ぶ未成熟で硬い柿が伊奈岐の頭に当たって、そこから赤い、かくも赤い鮮血が噴き上がって漏れ出ていくのを、不自然に、ゆっくりと流れる時間の中で、見届けて、見届けて、みとどけて、みとどけ
「う、うわぁぁぁああああっっ!!!!」
縮み上がった心を奮い立たせるために喉も張り裂けんばかりに声を張り上げ、目一杯の力で木の幹を殴った。殴り続けた。
ーーー『何か』をしなければならない。
伊奈岐が傷付けられ、命の危機に瀕している状況への緊張と焦燥、そしてその状況を目の前にして何も出来ず、また何もしない自分の愚鈍さを呪う嫌悪と怒りが浦須を急き立てる。何もせずにはいられなかった。
ーーーしかし、
「ーーづぅぅっ…!ダメだ…!こんなんじゃダメだっ!!」
硬い、頑丈な木の幹を殴り続けたことで、あちこちが切れたり、裂けたりした血塗れの拳はじんじんと熱を感じるように痛い。それに、手首から肘、肘から肩にかけた右腕全体も痺れ続けている。
そこまで痛い思いをしているのに、木には全くと言っていいほどその影響が表れていない。ーーーそれもそのはずだ。
伊奈岐を襲い、暴れ続ける柿の木の幹回りは浦須が2,3人両手を伸ばして届く位の長さーー太さがある。ここまで太く逞しい幹を殴り砕こうとするなら、一体どれ程の馬鹿力が必要なのだろうか。
加えて、現状、初なりの実を左手で抱えている姿勢のため、上手く力を伝えられない。もっとも、喧嘩はおろか、誰かを殴った経験もない浦須が万全の姿勢になった所で、これ程頑丈な木の幹をどうにか出来るはずもない。
「だったら…!だったらぁぁっっ!!ーーッ!!」
大きく仰け反ってから、渾身の力で木の幹に頭突きをした。衝撃の瞬間、激しい鈍痛とと共に脳がぐらぐらと揺れているような感覚に呑まれ掛けるが、首を横にぶんぶん振って無理やり意識を散らすと、すかさずもう一撃、木の幹にお見舞いしてやった。ーーだが、
「ーーく、そっ……!ちょっとぐらい、効いて、くれよっ…!」
木はその動きを止めることもなく、依然として伊奈岐に危害を加え続けている。
殴るよりも頭突きの方が威力は出てるはずだが、木にはまともな外傷すら与えられていない。頑健なこの柿の木からすれば、殴ろうが蹴ろうが頭突きをしようが、浦須の力では何をやっても暖簾に腕押しだ。
「…ぐうぅ。頭が……」
二発目の頭突きを無理にしたせいか、頭がひどく痛み、視界が明滅したまま治らない。意識も朦朧としてきて集中力や注意力も散漫になっていく。
「……考えろ、考えろ」
薄れ行く意識を、思考し続けることでどうにか繋ぎ止めようとする。
この状況の打開策を考える。
伊奈岐が傷つかないで済む方法を考える。
自分にできることをかんがえる。
なんでこうなったのかをかんがえる。
かんがえて、
かんがえて、
かんがえて、
「ーーー『これ』のせい、なんだろ?」
思い浮かんだ一つの可能性に縋ることにした。
左手に持っていた初なりの実、『願い柿』を口元まで近づける。
「……すみません、伊奈岐さん」
伊奈岐への謝罪の言葉を口にし、朱く瑞々しく熟した果実に思いきりかぶりついた。
熟れた果肉が蕩け、芳醇な甘味の果汁と混ざり合い、口の中一杯に広がっていく。浦須が今までに食べた柿は何だったのかと思うような、否、柿に限らず浦須が食べたことのあるどんな食べ物をも上回る味わいーー極上の、至高の味覚がそこにあった。
「ーーー死ぬほど美味い。けど、それよりも、やっぱりだ」
あまりの美味しさに全ての感覚が味覚に囚われそうになるが、浦須はそこで一歩立ち止まり、そして、『状況』の変化を見逃さなかった。
「木が、こっちを『向いた』」
まるで木に顔でもあるかのような言い方だが、それでも浦須にはこの表現がしっくりとくる。
願い柿にかぶりついた瞬間、実を飛ばすために激しく動いていた枝の動きがピタッと止まり、それからゆっくりと、まるで浦須を取り囲もうとするかのように、枝という枝が浦須の方を向くように曲がり、そしてその内の1本が段々と加速の勢いをつけて浦須に迫っていく。
「…これで、いいんだ」
浦須目掛けて迫る枝の勢いは冗談のように速く、このまま動かなければ間違いなく浦須に直撃する。
ーーー『避けられない』と思った。と言うより、避ける気があまりなかった。
それは、恐ろしい速度で迫る枝に対して、大した事ないと楽観視していたり、あるいは痛苦や恐怖に臆する事のない不撓不屈の精神を手に入れたりした訳では決してない。
浦須のことを殺しにかかっているようにしか思えない勢いで迫っていて、直撃すれば重傷を負うばかりでなく、死の予感さえも感じられる程だ。足は恐怖でガタガタと震えが止まらず、歯を食い縛ろうとしても上手く噛み合わないでカチカチと歯が当たる音が頭の中に響いてうるさい。
浦須の頭の中には間違いなく恐怖の澱が蔓延っていて、すぐにでも思考の全てを覆い隠してしまいそうだった。しかし、それでも
「…逃げちゃダメだ」
罪の意識が、悔悟が、自罰的な感傷が、漫然と恐怖の澱に沈んでいくことを許さない。恐るべき痛苦を、傷を、死を、その身に受けることでしか、自分はお天道様に、いや、伊奈岐に許してもらえないと思った。
だから、
「ーーーごめん、なさ」
最後まで言い切ることなく途切れた震える声の謝罪を残して、少年は、硬く鈍い衝撃音と共に宙空に放り出されて、少年は、やがて地面に落ちていった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
ここの部分、ずっと書きたいと思っていたので、スラスラ書けるかと思ったら、大苦戦。動きの出る部分はイメージ通りに書くのが中々難しいですね…
この十四話を最後に週一の定期更新を一旦中止し、不定期更新に切り替えます。
次話投稿日は活動報告などでお知らせしようと思っています。
お待たせすることになり申し訳ありませんが、どうぞ引き続きよろしくお願いいたします。