第一章 十二 生き地獄で聞いた『声』
『素性がわからなくなった』浦須の扱いを巡る伊奈岐と阿散多の舌戦は、ここに来て佳境を迎えていた。
浦須を商会の一員として迎えることを拒む阿散多は、浦須が主張する意竺との関係性が他ならぬ意竺本人によって否定されていることを明らかにし、伊奈岐もその点をあっさりと認めたため、論争の趨勢は決したかに見えた。
だがしかし、それでも伊奈岐は、あくまで浦須を商会に留めおくことを譲るつもりがないと阿散多の主張を突っぱねてしまう。ーー『商人の基本原則』なるものを理由にして。
浦須にはその言葉に対する心当たりがない。だが、きっと自分にも関係がある事なのだろうと思ってはいる。あとはそれが阿散多の合理的な主張を却下できる程のものか、というところだが、
「……あ」
隣の岩津が何か思い当たったように声を漏らして伊奈岐を見た。
「ーー契約、ですね…!」
問題の答え合わせをするように発した岩津の言葉を聞いて、伊奈岐は満足そうに微笑む。
そして、それと同時に浦須の頭の中でも理解が及んだ。
ーーー伊奈岐は約束を守ろうとしてくれているのだ。
母の形見である柿の種を渡す見返りに、浦須の身を保護し、商会に雇い入れる『約束』ーー彼女に言わせれば『契約』を、商人の基本原則に則り履行するに過ぎないのだろうが、伊奈岐は浦須が商会にとって不安材料になりかねない状態になってもなお、浦須を手元に置くことを止めようとしなかったのだ。
「それにだよ。浦須くんは意竺さんと関係がないって言われてるだけで、例えば浦須くんが方方で悪事を働く不逞の輩で、関わることを一切禁ずるだとか、見つけ次第、引っ捕らえて首を召し取れだとか言われてる訳じゃないからねぇ。むしろ関係がないんだから、どう扱おうとこっちの自由って話になるじゃないかい」
さらに、伊奈岐は問題がないとするだけでなく、意竺とのつながりがない状態の前向きな一面を捉えて付け加えた。ーーーさらっと物騒なことを言われてる気がするが、伊奈岐の言っていることも一理ある。意竺とは無関係になっただけで、敵対関係になったわけではない。この点は、意竺が手心を加えたのか、あるいはこれ以上の面倒事を嫌ってなのか、その真意は測りかねるところがあるが。
「……契約とは何のことだ、岩津」
この場で唯一、浦須と伊奈岐の間で約束が交わされていることを知らない阿散多が、最初にその言葉を口にした岩津に尋ねた。
「お母様と浦須さんとの間で交わされた契約のことです。浦須さんの身を商会で引き取る代わりに、浦須さんが持っていた大事な物を明け渡すことを約束されました」
返答した岩津に対して、阿散多は両腕を組んだまま「ーーふむ」と呟いてから黙考した。そして暫くも経たないうちにそれを終えると、
「稀有な事例ではあるが、そういった契約を結んだ者が過去に商会にもいた」
浦須の他にも所有物と引き換えに商会の後見を得た者がいたらしい。口ぶりからして今は商会には居ないのだろうが、浦須と同じように厄介な事情を抱えていた者だったのだろう。ーーー過去にそうした事例があることは浦須にとって有利に働く可能性の方が大きいのではないか。
その者の人物像、商会における立ち位置、商会を去った理由に依る部分が大きいので一概には言えないかもしれないが、基本的には初めての試みよりも過去に経験している事柄を行うことの方が心理的な障壁は少ない。
「故に、商会に入る手段としてそうした方法を取ることについて、問題視するつもりはない」
『未知』よりも『既知』の事柄に対して、安心感や正当性を感じるのは誰にでもある性質だが、特に阿散多はそうした気質が強いように思う。そこが攻めどころとなるかもしれない、と浦須は思ったが、「しかし、だ」と阿散多は前のめりになろうとする浦須を引き下げさせる。
「農園で働く者となれば話は別だ。伊奈岐商会がこの農園を経営しているという情報は限られた関係者にしか明かしていない。商会の従業員であってもここの存在を知る者はごく僅かだ」
これもまた今知ったことだが、農園の経営実態は商会にとって秘密事項であるらしい。
「…ん?待てよ……」
ならば、そんな秘密の場所で匿われ、それを今知らされた浦須とはつまり、
「ーー農園の関係者、ということか」
奇しくも、浦須が自身が農園に引き取られている理由の一端に触れようとしたその時に、同様の思考を辿った阿散多がその思考の結論を苦々しく口にした。
落ち着いて考えを整理してみれば、当然のことだとわかる。
大店である伊奈岐商会の、それも公にされていない商会の拠点に居候するわけだから、その者がその地の利害に関わる関係者である可能性は高い。ーーー浦須自身が、というよりも、浦須が所持していた物が農園にとって重要なのだろうが。
さらに言えば、怪事件が巷を賑わす中で曰く付きには違いない浦須を商会に入れるのならば、従業員ですら知らない者がほとんどという農園は適切だ。商会に『居た』事実も『居なくなった』事実も秘匿しやすいからだ。
「母上、もしやとは思いますが、その者が商会に、否、母上に齎した物とは…」
「願い柿さ」
「……やはり、か」
浦須が農園の関係者であることを確認した阿散多は、浦須が農園の関係者たり得る理由になっている所持品の正体を推測し、伊奈岐に訊ねた。
一方の伊奈岐はそれに躊躇いもなく答え、それを聞いた阿散多は苦虫を噛み潰したような表情と共に、その伊奈岐が答えた物に対して忌々しささえも隠し切れない様子で自身の推測が正しかったことを確認した。
「………あなたは、まだ……」
「ーーああ。諦めるつもりはないよ」
どうやら阿散多は伊奈岐が願い柿を求めている事情や背景に見当がついている様子だが、その表情は暗く、厳しいものだ。さらには、詰まらせながら続けた言葉に対する伊奈岐の毅然とした態度を受けて、その面持ちはますます沈痛の色で彩られることとなった。
「ーーーーーー」
眉間に皺を寄せて瞑目する阿散多は考え込むように口を閉ざした。
重苦しい空気が流れている所為か、皆一様に口を訊こうとせず、部屋の中に一時の静寂が訪れた。
ーーー阿散多は願い柿のことを快く思っていないのか。
先程の伊奈岐と阿散多の短いやり取りには、言葉として発されていない中にも二人の意思の繋がりがあり、余人には介入できない何かがあった。
それによって二人の間に何があり、そこに願い柿がどう関わっているかは、それこそ余人に過ぎない浦須にはわかりようもない。
ただ、阿散多がこれまで見せてきた変化の乏しい表情と、そして今見せている悲痛に歪んだ表情。
阿散多の心中に大きな葛藤が生まれていることは浦須の目にも明らかだった。
暫くの静寂の後、阿散多が「フゥゥ…」と大きく息を吐き、悄然としていた様子から元の落ち着きを取り戻そうとする。やがて、泰然自若とした態度でゆっくりと頷いてから、
「ーーーこの者、浦須を農園に留め置くことについて、あいわかった。浦須の出自、来歴についても当人が問題を起こさない限りは原則として不問とする」
「ーーぉ」
「ただし、商会が不利になるような問題を起こした場合は、厳正に対処させてもらう。お前が商会に仇なす存在でないことを証明できたわけではない」
沈黙を破った阿散多の発言は、これまでの主張から一転した意外なもので、その急転ぶりに浦須は思わず声を漏らしてしまうが、そこは阿散多に釘を刺されてしまった。
だが、これは浦須にとって上々の結果といえるだろう。
阿散多に意竺との関係性を否定され、それが事実として罷り通ることになってしまった時は相当肝を冷やしたが、伊奈岐が上手く切り返してくれたお陰で、即刻追い出される憂き目に遭わずに済んだ。ーーー意竺の時のようにはならなかった。
「よかったですね、浦須さん!」
「うん。本当に。ホッとしてる」
阿散多から許しが出たことを受けて、パッと華やいだ笑顔の岩津が祝福してくれた。それを受けた浦須は、再びの居場所を奪われる危機から無事に脱したことをじっくりと噛み締めるように実感した。
「なんか全身から力が抜けそうな感じ」
「お疲れさん。気苦労を掛けさせて、悪かったねぇ。ちょっとばかり、回り道が多かったかねぇ」
緊張や不安から解放されると次に襲ってきたのは全身の虚脱感だ。腑抜けた様子の浦須に伊奈岐が心配を掛けたことを詫びるが、それに浦須は「いえいえ、そんな」と慌てて畏まった。伊奈岐が上手く庇ってくれなければ浦須は商会を追い出されていただろうし、そもそも伊奈岐が身寄りのない浦須を引き取ってくれたのだから文句の出しようもない。
「本当に…ありがとうございます!」
約束を違えず浦須を守ってくれた伊奈岐にはそれこそ感謝の言葉も見つからないぐらいの恩義を感じているが、それでも浦須は言葉に出して感謝したかったので、飾り気のない素直な気持ちを言葉にして伝えた。
それに伊奈岐は片目を瞑って応えてみせた。
あとは、
「伊奈岐さんだけじゃない」
今回の一番の功労者は伊奈岐で間違いないだろう。だが浦須には他にも感謝しなければならない相手がいた。
隣りで喜色満面の笑みを見せている岩津は浦須のために弁を尽くしてくれた。岩津にも感謝している。
そしてもう一人、浦須のことを庇ってくれたのが、
「ーーうん?まあ、よかったじゃん。居てもいいって言われたんだから」
伊佐方は歓迎の言葉こそ口にしているが、どことなく他人行儀というか、ぶっきらぼうな態度を取っている。
伊佐方のこの態度は正直意外だ。
岩津と一緒に浦須のことを信用の置ける者だと主張してくれていたので、岩津同様、喜びを前面に出してくれるのかと思っていた。
ーーー何か伊佐方が不快に感じるようなことがあったのか。
あるいは浦須が機嫌を損ねるような言動をしてしまったのか。心当たりはないが何か悪いことをしてしまったのなら謝りたい。伊佐方とは今後も友人として仲良くしたいと浦須は思っている。だからこそ、伊佐方が何を思っているのか聞いておかなければならない。
「あの、いさか」
「ーー今は俺のことよりも、兄さんに礼を言って置いた方がいいと思うぜ」
「……あ、ああ。確かに」
しかし、伊佐方は浦須の言葉を遮り、阿散多に礼を言うよう促した。伊佐方の本心を確かめたかったが、その指摘も尤もなものだ。浦須は喉元まで出掛かっていた伊佐方への疑問をグッと飲み込み、それから阿散多の方へ向き直って頭を下げた。
「俺を商会に迎えてくださりありがとうございます。俺に出来ることはそんなに無いかもしれませんが、少しでも役に立てるように頑張ります」
浦須に対する『物言い』をしたとはいえ、結果としては商会の一員として阿散多は認めてくれた。だからそれに対する謝意とこれからの意気込みを伝えたかった。
それに対して、阿散多は「ふむ」と鷹揚に頷き、
「お前は能力を買われてここに身を置いているわけではない。故に仕事はある程度時間を掛け、着実に覚えていけばいい」
意外と言っては失礼だが、阿散多の言葉は浦須にとって無理がなく配慮が行き届いていた。馬車馬のように働けとか、逆に仕事を与えず飼い殺しにするとか、そういう事を言われる可能性も考えていたこともあって、優しささえ感じられる阿散多の言葉に浦須は少しホッとするが、その浦須の気の緩みに気づいてか、気づかずか、「だが忘れるな」と阿散多は浦須に忠告する。
「私はまだお前のことを信用してはいない。私を含めた周りの者に疑義を生じさせるような行動を起こさぬよう、常に身の振り方には気をつけることだ」
阿散多の忠告に浦須はさもありなんと緩んでいた気持ちを引き締めた。阿散多が浦須のことを信用していないのは百も承知だが、少し様子が変わったように思える伊佐方や変わらず浦須を信じてくれているように見える伊奈岐や岩津にも少なからず不安や心配を与えてしまったはずだ。だから浦須がまず最初にすべきことは信用を得られるよう努力することだろう。
「ーーでもそれだけじゃダメだ」
不安や心配を与えてしまったにもかかわらず庇い続けてくれた伊奈岐や岩津には恩返しをしたいし、もしかしたら信用を失ったかもしれない伊佐方とも仲良くやっていきたい。それに、紆余曲折はあったものの浦須が商会に入ることを承諾してくれた阿散多にも疑念を抱いたままでいてほしくない。
だから少しでも早く仕事を覚えて、出来ることを増やしていって、商会に貢献していかなければならない。それがひいては浦須にとっての恩返しや信用回復に繋がっていくはずだ。
「頑張ろう」
浦須と商会の面々との未来が明るいものとなるよう、『全身全霊』『粉骨砕身』の心構えで商会の皆に尽くす。自らに言い聞かせるように小さく、だが強い決意を浦須はその一言に乗せたのだった。
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ーー。
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ーーーそこはまるで生き地獄のようだった。
周囲から疑いの眼差しを向けられ、罵倒され、否定され、自分の居場所だと思っていた場所を追い出されたあの時もそう思っていたが、あの時と今とでは比べ物にならない。
いや、あの時だってつらかった。苦しかった。悲しかった。
屋敷を追い出されてからすぐは物陰に蹲って泣いていた。無理解と不安と怯えと悲しみが胸を押し潰そうとしていた。
このままではいけないと空元気を振り絞り、ふらふらと不確かな足取りながらも一歩一歩を進んだ。
でもその一歩の度に、泣き腫らした瞼からは、熱いものが零れて止まらなかった。
だから、今と比べてあの時の方がマシだったと言うつもりは一切ない。あの時だって大変だったのだ。
ただ、違いを挙げるとするならば、それは思考や意識だけではなく、五感の全てがその場を生き地獄であると、満足に働いていない脳に警鐘を鳴らし続けていることだ。
朦朧とする意識、各所に鈍痛を感じる全身は力が入らず、うつ伏せのまま動くことができない。どうにか顔だけは上げることができたが、その先の視界は霞み、周囲の音も耳鳴りのせいでハッキリと聞き分けることはできなかった。
だが、それでもわかることはあった。
視界は霞んでよく見えないが、何人かがそこに居て、一人が地面に伏せっていた。
口の中は錆びた鉄のような味がする。ーーーたぶん血の味だ。
鼻先に漂うのは甘い匂いと焦げ臭い煤の匂いーーー丁度、下半身や背中、後頭部が熱く感じるので自分の後ろで何かが燃えているのだろう。
そして、耳は相変わらずよく聞こえないままだが、誰かが、何か言葉を発していることはわかった。
「ーーーーーーーーっーーーー!ーーー、ーー…!……ーー。ーーーーーっ!」
激情に支配された男の怒鳴り声ーーー不信、後悔、怨嗟に塗れた男の慟哭が自分にぶつけられている。
「ーーー!ーっーーーーーーーー!ーーーーーー……!ーーー…ーーーーー……」
声を震わせた女の悲痛な願いが、空しく響き渡って消え入りそうになる。
「………ーー。ーー…ーー、ーーーーーっーーーーーーー………」
寄る辺を失い、途方に暮れる男の嘆きが、その場の誰よりも如実に絶望感を訴えかけてきている。
言葉も分からないし、意味も理解出来ない。だが、それらはどれも悲哀の感情が根付いていて、その感情が自分の心にも伝播して胸が締め付けられるような苦しみを感じる。
ーーーこの辛くて、苦しくて、哀しい世界から逃げてしまいたい。
そのためには混沌を深めるこの生き地獄から一刻も早く抜け出さなければならない。
ーーー身体は無理だ。
先程から身体を動かすことに意識を割いているが、動かすための力が上手く伝わってこない。時間が経てば身体も言う事を聞いてくれるのかもしれないが、それまではこの苦しみと同居し続けることになる。ーーとても耐えられそうにない。
ーーーならば、いっそ意識を手放してしまうのはどうか。
状況が良くなることはない。だが、このまま意識を保ち続ければそう遠くないうちに心がひび割れ砕けてしまう予感がある。それに幸か不幸か、頭がぼんやりとして、だんだんと意識が薄らいで行っているような気がする。
このまま、意識を逃がして、それから
「ーーーニゲラレルトオモウカイ?」
ーーー『音』が聞こえた。否、それは『声』だった。
「●カラハニゲラレナイ」
その『声』は満足に聞き取れない周囲の喧騒と違って、いやにはっきりと意識の内側にまで響いて届いてくる。
「ワタシタチハミテイル」
それが聞こえた直後に意識がプツリと途絶えた。