第一章 十一 商人の『基本原則』
「ーーーまた、大きくなったな」
天を仰ぐように見上げたその先、どこまでも広がる薄く灰色がかった曇天の空。その曇り空を背景にしてしまう程に奇妙な柿の木は天高く昇るように大きく成長していた。
蒼々と生い茂る枝葉や太く逞しく育った幹の木肌は昨晩降った雨で艶やかに濡れており、湿り気を帯びた黒土に張り巡らされた根が恵みの雨を吸い上げ、自らの成長の糧にしたことだろう。
「今日はもう水をやらなくてもいいよな」
じいやが言っていたことだが、あまり水を頻繁にやり過ぎると根腐れを起こして枯れてしまうらしく、土が乾いた晴れの日にたっぷりと水をやるのが良いそうだ。
「本当に、見上げなければならないほど大きく育ちましたね」
後ろから声を掛けられ振り返れば、岩津が顔を上げて柿の木を見ていた。
「あ、見てください。あそこに実が一つ成っていますよ」
岩津が指差す先、左の方に伸びた木の枝に一つだけ実がついている。まだ小ぶりで青いが、種を植えてから5日で実が成っていることを考えると、その成長速度は驚異的と言わざるを得ない。先程、実が成っているのを見つけた時は自分の目を疑ったものだが、岩津も同じものを目にしているので錯覚や幻視というわけではなさそうだ。
「あれが所謂、願いを叶えたり、栄華を約束するっていう『初なりの実』なんだよね?」
「はい。まだ色づいていないので摘果するわけにはいきませんが、あれが赤く熟れて食べ頃になれば、祈願成就の柿の完成です」
「楽しみですね」と微笑む岩津だが、どことなく元気がなさそうにも見える。ーーー何か気がかりでもあるのだろうか。
すると、浦須が怪訝そうな顔をしているのに気づいたのか、岩津は一度視線を下に落としてから、申し訳なさそうな顔で浦須を見つめ直し、
「昨日は申し訳ありませんでした。私、全然浦須さんの力になれなくて…」
浦須に対し、頭を下げて自分が至らなかったと謝罪した。
昨日ーーー商会の経営会議で、伊奈岐の長男であり商会の次期当主候補筆頭でもある阿散多から審問を受けていた時のことを岩津は言っている。
「そんなことないよ。岩津が俺のこと庇ってくれて、嬉しかったし、それに心強かった」
浦須は岩津が力不足だとか頼りなかったなどとは全く思っていない。それどころか浦須を疑う阿散多に対して真っ先に声を上げてくれた岩津に恩義さえ感じているほどだ。血の繋がった実の兄に対して、知り合ってまだ間もない他人を庇い立てするのは、浦須が思っている以上に勇気が要ることのはずだ。
「ありがとうございます。…ですが、お母様の機転がなければ、もっと悪い立場に立たされていたのも事実です」
しかし、岩津は浦須の謝意には応じつつも、母親の、伊奈岐の功が大きいと謙遜してみせる。
「それは、まあ、そうだけど…」
岩津を気遣うつもりが、彼女が言っていることを浦須も正しいと思ってはいるので、認めざるを得なかった。
「ーーまた、伊奈岐さんに借りを作っちゃったな」
助けてもらったことへの感謝の気持ちと、それと同時に申し訳なさも感じている浦須は、考え事をするように上を向きながら、昨日の伊奈岐一家とのやり取りを思い起こした。
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「改めて問う。浦須とやら、お前は一体何者だ」
再度の問い。しかし、事前の情報もなく話の流れが読めないまま問われた1回目とは異なり、意竺の屋敷の関係者が浦須の存在を認知していないという阿散多の部下からの報告、そして同様の内容が記された意竺直筆の書状の存在により、2度目の問いは浦須の心理も状況も確実に追い詰めていた。
「「…………」」
浦須のことを来歴不明の不審人物とする二つの証拠ーーー特に後者は領主である意竺の署名・印が押されていることで領の正式な文書として効力を発揮してしまっているのが大きく、浦須の擁護をしてくれていた岩津も伊佐方も黙り込んでしまっている。2人は主に書状の内容について問うていたが、内容がどうあれそこに記されている事が正しい、と阿散多と伊奈岐に説かれた以上、思考の前提を崩された2人に攻め手はなかった。
そうして頼りになる2人が沈黙していることで浦須の心の弱気が加速しつつある中、縋るような気持ちで面々の顔色を窺っていると、ふと、伊奈岐が余裕に満ちた態度で不敵な笑みを浮かべていることに気がついた。
浦須と目が合った伊奈岐は片目を瞑って見せてから、「話を整理してみようか」と皆の視線を集めた。
「浦須くんが意竺さんのところで働いてたって話だったけど、関係者はこぞって浦須くんの存在を否定してるわけだから、そこの確認が取れなくなったんだよねぇ?」
「領主である意竺様自身の尊名と領印をもって、浦須と名乗る者との関わりがないことを明言している。母上、この者と意竺様との関係性は認められません」
今まで話してきた内容の要点を簡潔に纏めた伊奈岐が確認するように尋ね、それに応じた阿散多が浦須と意竺との関わりがないことを強調した。
すると、伊奈岐は満足そうに「うんうん」と頷く。
「その通りだねぇ。これで浦須くんは何処ぞの馬の骨になってしまったわけだ」
伊奈岐の不可解な態度に阿散多は眉を上げた。いや、阿散多だけではなく、浦須も岩津も伊佐方も彼女の考えを推し量れないでいた。
「……母上、何をおっしゃるつもりですか?」
そんな皆の気持ちを代弁するかのように阿散多が伊奈岐の真意を問う。それに対して、伊奈岐は肩を竦めて「いや、なに」と、
「問題ないと言いたいのさ。浦須くんが何者だとしても構わないんだよ」
今までの話の要旨を無視する発言をした。その発言に浦須はさらに頭の中の疑問符が増えてしまい、混乱してしまう。
「母上!何をおっしゃるか!」
そしてその発言は、話の主導権を握り、浦須と意竺の関係性のなさをほぼ証明しつつあった阿散多にとっても納得が行くはずがなかった。元々険しい表情をまたさらに険しくした阿散多が怒声を上げた。
「領内の状況がきな臭さを増している現状で、商会に身元のわからない怪しい者を入れるわけにはいかない!」
何処ぞの馬の骨である浦須が商会に入ることなど到底認められないと改めて強く否定した阿散多だが、『領内の状況』というのはここまでで初めて言及された。ーーー一体何の話だろうか。
「最近、領内で妙な事が起きてるって噂が後を絶たなくてな」
新たな情報に首を傾げていると、隣りの伊佐方が浦須に近づいて話しかけてきた。
「妙な事?」
「ああ。起こってる事はバラバラなんだけどよ、家の前に何か怪しい絵なんだか文字なんだかが描かれてて、それを何度消してもまた知らない間に描かれてるとか、物盗りに遭ったかと思ったら、すぐにその失せ物が見つかって、そしたらまた盗られて、また見つかってを繰り返してるとか、誰かが死んでるって聞いて来てみればそいつはピンピンしていて、で大丈夫だと思って次の日になったら、本当に死んでたりとか。訳の分からねーことがここ最近立て続けに起きてるんだと」
伊佐方の話が気になって聞き返してみると、最近領内で立て続けに奇妙な出来事が起こっているとのことだ。
「で、しかもその下手人が捕まってもなければ、どこの誰だかも全然わかってない。被害に遭った奴も犯人かもしれないって疑われてる奴も、全員が全員、特にこれといったつながりもなさそうな感じらしいぜ」
今聞いた話が本当なら、領内に住む者は少なからず不気味さを感じていることだろう。
しかし、噂される程のことかというと、それにしては少し印象が弱いというか、噂話としての訴求力が低いというか、そんな気がする。というのも、
「なんでそれぞれに起こっている事を一括りに考えようとするんだ?偶然同じような時期に、関係がないそれぞれ別の事件が起きてて、犯人もわからないから大丈夫かって話なんじゃ…?」
関連性のない奇妙な出来事・事件が領内で連続して起きているというなら、それは領の統治・治安維持の問題のはずだ。領主に対して不安や不満の矛先を向けることはあっても、巷を賑わせる噂になるような面白さや奇怪さには欠けると思う。
すると、「いや、面白いのはここからだって」と伊佐方が早々に結論を出そうとする浦須に待ったをかける。
「事件が起きる場所も被害に遭う奴も疑われてる奴もバラバラ。ーーでもな、あるんだよ、必ず」
もったいぶった言い回しで興味を惹き付けようとする伊佐方。彼から聞いた話では今のところ、それぞれの事件に共通点はない。
しかし、そんな言い回しをするということは、何かそれぞれの事件を結びつけるようなものがあるのだろうか。
そうして伊佐方の目論見にすっかり乗せられた浦須は続きが気になる気持ちを抑えながら次の言葉を待つ。
浦須の様子に機嫌良く鼻を鳴らした伊佐方は、やがて、
「ーーー団子だよ」
「…………だんご?」
「そう。団子。それが事件の現場に必ず置いてあるんだよ」
「……なんで、そんなものが?」
「…いや、それは俺にもわからねーよ。ていうか誰もわかんねーから未解決の事件になってんだろ」
突拍子もない単語の登場に理解が追いつかず、反射的に聞き返してしまったが、伊佐方の言う通りだ。わからないから未解決事件であり、噂を呼んでいるのだ。
「『団子事件』なんて呼ばれ方もされてるらしいぜ」
「『団子事件』、か…」
領内で起こる怪事件の数々、そして事件現場に必ず置いてあるという『団子』。
怪事件として騙られるには実に安直で、少々間の抜けた名を付けられているような気がするが、現状、それぞれの事件を紐づけている唯一の手がかりではあるので、そう呼ばれるのも理解はできる。
「響きとしては卑近に聞こえるものですが、起こっている事柄は無視できないものも多いです」
しかし、緊張感に欠ける名称であっても、事件は事件。それも盗難被害や死者でさえも出ているのだから立派な犯罪事件だ。岩津の指摘に浦須も軽々に取扱おうとするのをやめようと思った。
「ーーー情報の共有は済んだようだな」
浦須が妙な事件の噂に対する考えを改めたところで、浦須と弟妹のやり取りを静観していた阿散多が徐に切り出す。
「私も商会の人手を増やすことそのものに反対している訳ではない。だが、今は時期が時期故に、商会に入る者を見定めなければならない。ーーーそのことは母上もわかっておられるはずだ」
浦須に諭すように事情を打ち明けながら、阿散多は伊奈岐にも話の水を向けた。
確かにそんな噂が、事件が巷を賑わせているのなら、阿散多が商会に入ろうとする者を調査するのも、その結果として来歴不明の者を拒絶しようとするのも当然の考えだろう。
不安が疑心暗鬼を産み、相手に対して今まで以上に信用や信頼の担保を求めようとする。決して浦須が気に食わないとか、そういった個人的な理由ではなく、次期当主としての責任を果たすために商会の危機管理をしているのだ。
これについては事前に伊奈岐や岩津から聞いていた通り、阿散多の真面目な性分を表しているといえる。
ーーーだが、しかしだ。
「それなら、なんで伊奈岐さんは俺のことを…」
阿散多が身元のわからない浦須を拒絶する理由は浦須の中でも合点がいくものであった。
ーーーいや、むしろ不可解なのは伊奈岐の方ではないのか。
話を聞いている感じでは伊奈岐も領内で『団子事件』の噂が流れていることを知っている様子だった。
ーーーならば、意竺との関係が証明できなくなった時点で浦須を見放すのが普通じゃないだろうか。商会の安全を考えればそれもやむ無しと考えるのが当主としての正しい判断ではないのか。
自分を雇い入れてもらった恩義には感謝しつつも、伊奈岐の判断は組織人としては正しくないように思えて、その上に自分の身の上が置かれていることに浮き足立ってしまう。ーーー卑怯でどこまでも独善的な考えをしていることに自己嫌悪してしまう。
「こういう所が駄目だってわかってるのに…」
またしても浦須は負の感情に思考が支配されてしまっていた。自罰的に物を考えてしまうのもまた浦須の悪癖である。
「ーーー万一問題が起こったとしても、跡を辿れる者なら、多少なりとも損失を抑えられる。上手くすれば補償も利くかもしれない。ーーでも、誰とも分からない者にはそれができない。わかってるさ」
浦須の自責を余所に伊奈岐も阿散多の懸念に理解を示した。当然だろう。巷で不審事件の数々が起こり、犯人も特定されていない状況の中、新たに人を雇い入れるとなれば、身元がハッキリしており、かつ親類縁者や付き合いの深い者がいて、もっと欲を言えば、その者が富や権力を兼ね備えた社会的信用に厚い者であるなら、いざ何かあったときでも商会が被る損失を抑えられる可能性が上がる。
幼い頃に両親を亡くし、親戚にも心当たりがなく、唯一身元を証明できる意竺との関係は阿散多と、他でもない意竺本人から否定された浦須には、何かあった時の損失の補償はおろか、安心を売るための身元の証明すら不可能になってしまっている。
「でもねぇ、」
しかし、伊奈岐は続く言葉で少し間を作り、浦須一瞥をくれてから、にんまりと笑みを浮かべる。
「商人の『基本原則』は簡単には覆らないよ」