第一章 十 『事実』と事実
ーーー木格子の窓から差す陽光が畳に映る影法師を細く長く伸ばしている。
伊奈岐商会が経営する農園の本棟、その一角にある10畳程の広さの和室。そこで行われているのは、件の商会の経営会議とやらだ。現在の経営状況や今後の方針についても話し合われる重要な場だというのに、そこに出席する浦須は働き始めて数日の新人下働きに過ぎない。その場違いさ故に、肩身の狭さと、何より何故自分がここに居なければならないのか見当がつかないでいたが、こうして阿散多から問い詰められている現状から、浦須は嫌でも察してしまう。
「疑われてるからだよな」
我が身が疑われて当然の身である事は浦須も重々承知している。実際、今でこそ良くしてくれている伊奈岐や岩津も浦須の身の上を丸っきり信用している訳では無いと思う。お互いの利害が一致しているからこそ雇用主、あるいは交渉相手として浦須の身の上を保証しているに過ぎない。ーーーそれだけでも十分ありがたいことではあるのだが。
ただ最近は、短い期間とは言え共に働き、同じ釜の飯を食らう中でほんの気持ちばかりでも信頼関係が築けているのではないかと浦須は期待してもいる。
そういう意味で言えば、伊佐方は例外と言えるかもしれない。彼は最初から浦須に対して好意的で、何かにつけて農園を訪れては、世話焼きのように浦須に声を掛けてくれる。
その事を伊奈岐に話したら、
「あの子は自分の感性とか直感みたいなのを頼りにしているみたいだよ。だから周りがどう思っていようと自分が好きだと思ったら好きだと言うし、嫌いだと思ったらそのまま嫌いだと言ってしまうのさねぇ」
との事らしい。伊佐方は浦須のことを気に入って良くしてくれているようだ。
浦須の来歴に疑わしい部分があることはわかっているはずだが、伊佐方も伊奈岐も岩津も最初から猜疑心で目を曇らせることはなく、三者三様に浦須への疑念を呑み込んでみせた。
「でも、阿散多さんは……」
大きく見開かれた目ーーーその瞳孔に宿るものは浦須への疑念、もっと言えば端から浦須のことを信用せず、悪辣な不届き者と見なしている、そういう目だ。
そうとハッキリわかるのは、意竺の屋敷で壺を割った犯人と疑われ皆に囲まれた時、自身に起こった不幸な出来事を告白した時に、ほとんど皆が同じ目をしていたからだ。
ーーー付け入る余地の無い明確な拒絶
「お兄様、浦須さんは以前の勤め先で不当な嫌疑を掛けられ、追放されてしまったのを商会が保護している身です。お話を聞けば浦須さんが商会に仇なすようなお方ではないとわかり」
「ーーー岩津。私は今、この目の前の浦須という男に問うている。お前が答えるべきことではない」
見かねた岩津が顔を暗くして俯く浦須に代わって答えようとするが、憮然とした表情の阿散多によって静かに遮られた。「ですが…!」と尚も岩津は食い下がろうとするが、それは浦須が彼女の前に腕を差し出して制した。
「ありがとう、岩津。大丈夫だよ、俺は」
「浦須さん……」
例に漏れず阿散多は浦須のことを疑っている。だが、その疑念は当然のものでもある。ならば、浦須のことを庇ってくれる岩津には感謝しつつも自ら釈明をしなければならないだろう。
「俺は幼少の頃に意竺様に引き取られて屋敷の使用人として奉公していました。…ですが、数日前に主人が大切にしている壺を割った疑いを掛けられて屋敷を追い出されたんです」
「たかだか壺を一つ割ったぐらいでひでえ話だよな」
「意竺様が大の骨董蒐集家ってのはよく知られているからねぇ。私たちみたいな並の感覚しか持たない者とは琴線が違うのさねぇ」
意竺の屋敷で働いていたこと、その屋敷を追い出された経緯を浦須は簡単に語った。それに隣りの伊佐方がもっともな感想を漏らし、伊奈岐は顎に手を当てながら、ありえない話ではないと浦須の話を肯定した。
「その話は私の耳にも既に届いている」
何者か問われたこともあって、てっきり阿散多は浦須のことを正体不明の不審人物と考えているのかと思ったが、事前に調べでもしていたのか、どうやら浦須が意竺の屋敷で働いていたこともそこを追い出された瑣末も阿散多は把握していたらしい。ーーーそれなら、阿散多は一体、何を疑っているのか?
不可解さに顔を顰める浦須に対し、阿散多は瞑目しながら「故にだ」と一言置いて、
「部下にお前の身辺を探らせた。だが足取りを追えたのは、お前が意竺様のお屋敷を追い出されたという7日前から今日までのものだけだ。それ以前の情報がまるで出てこない」
阿散多が言っている7日間の内、3日間は職と宿を求めて集落を彷徨い歩いていた苦難の日々であり、 残りの4日間は伊奈岐商会および農園で過ごした充実の日々である。前者については仕事を貰うためだったり、寝床を確保するためだったりで頭を下げた何人かが浦須のことを覚えていて、それが阿散多の耳にまで届いたのだろう。
しかしーーー、
「それだとおかしいんじゃねーか?」
阿散多が行ったと言う浦須の身辺調査。その結果に、当人である浦須は違和感を感じたが、同様に伊佐方も疑問に思ったのか、阿散多の説明に待ったをかける。
「浦須は小さい頃からずっと意竺様のところに居たんだろ?兄さんの話じゃ、そこんところがまるっと抜けてるじゃねーか」
まさに伊佐方が言っている通りだ。意竺の屋敷の使用人だったという事実は、浦須が何者であるかを示すのに最も重要な情報のはずだ。だと言うのに、幼少期に意竺に引き取られ、屋敷で過ごしていた期間のことを阿散多はまるで忘れ去ってしまったかのように言及していない。ーーーそれともその期間は身元がはっきりしているから敢えて省略して、それよりも前のことがわからないと言っているのか?
「ーーーそうした意図はない。言ったはずだぞ。『7日より以前の情報がない』と」
考えを先読みした阿散多が浦須の希望的な解釈を即座に否定する。
だが、それではーーー、
「つまり、浦須さんが意竺様に仕えていたことが確認できない、ということに」
「そんなはずないっ!」
「!……浦須さん…?」
奇しくも自分と同じ『有り得ない』結論を導いた岩津に対して、浦須は思いがけず声を荒らげてしまった。岩津は浦須の様子に驚いて目を丸くしてしまっている。
「……ごめん、岩津。……でも、有り得ないんだよ、そんなことは…!」
驚かせた岩津には申し訳ないが、しかし、あまりに突拍子もない結論なのだからそれも許してもらいたい。浦須には十数年意竺の屋敷で過ごした記憶があるのに、それを見知って間もない男に否定される。ーーーこれほど訳の分からない状況があるだろうか。
「誰がそんなことを…」
屋敷で十数年過ごす中で、使用人を辞めた者も居れば新しく入ってきた者も居る。一緒に行動したり、話したりするのが少なかった者も居るには居た。
だが、浦須と全く関わりがなかった者など居る筈がない。屋敷の中のどこかでは浦須と顔を合わせていた筈だ。
百歩譲って浦須の顔は知っていても名前が分からない者が居たとして、その者が『浦須のことを知らない』と言うのは全く有り得ない訳ではない。
しかし、それも本当にごく僅かの可能性だ。使用人筆頭の赤都を始めとした多くの同僚、雇用者である意竺であれば浦須のことを必ず知っている。
すると、阿散多は「俺の部下が尋ねて回ったのは、」と手元の書状に目を落とし、
「使用人の筆頭を含む5名の使用人、意竺様の奥方様、ご子息様だ。誰もが口を揃えてお前の存在を否定している。ーーーそして、何より」
手に持っている阿散多の部下からの報告書と目される書状、それとは別の、阿散多の足元に置かれたもう一つの書状。それを手に取った阿散多は隣りの伊奈岐に手渡す。伊奈岐は阿散多を一瞥してから、折り畳まれた書状を広げ、書かれている内容に目を通した。すると、伊奈岐は「これは…」と驚いたように目を見張ってから、書状に書かれている内容を読み上げた。
「『領主、意竺の名において、浦須たる者の名を知らず、また門下一同に渡り、それと関与した事実はないことをここに証す』……で、意竺さんの直筆の署名と家紋が押されて、こいつは正式な文書に仕上がっちまってるねぇ」
内容を読み上げた後、顎に手をあてながら独りごちた伊奈岐は皆に見えるように車座の中央に書状を置いた。それを見れば、伊奈岐が読み上げた内容と全く同じ文言が書かれていることが確認できて、
「……そんなバカな!」
だからこそ、自分が知る事実と全く異なる『事実』が目の前に正式な文書として記され、あろう事かそれが正しい事実に成り代わろうとしていることが浦須には到底受け入れられなかった。
「姉さん、これはひょっとすると、」
「ええ。間違いありません…!」
一方で何か思い当たりがあった伊佐方と岩津は、お互いの考えが一致しているか確かめるように目を合わせた。やがて、岩津が憤った様子で拳を強く握り、
「お兄様!これは浦須さんを陥れるための意竺様の仕込みに違いありません!とても信用できるような内容ではありません!」
意竺の謀であると剣幕を見せて主張した。しかし、対する阿散多は岩津の憤慨には付き合わず、静かに、あくまでも最初から変わらない仏頂面のままでいる。
ーーー確かに意竺ならやりかねない。
意竺にとって浦須は目障りな存在だろうし、使用人の一人を存在毎揉み消すぐらいの能は備えている。
「岩津、お前がそう考える理由は何だ?」
「ーー意竺様には浦須さんを排除する動機がありますし、それを実行するだけの権力も持ち合わせています。それに、特定の誰かの名前を知らないとか関わったことがないとか、そんな事をわざわざ文書に示すなんて、その者の事を知っていると言っているようなものではありませんか」
阿散多に考えを問われた岩津は「当然のことです」と腕を組んでみせた。前者については浦須も同じことを考えていたし、後者についてもその通りだと思う。
そもそもその者のことを知らない、あるいは関わってないと証明すること自体、基本的に困難なはずだ。なぜなら、その者のことを知らないと言っている時点で最低限その者の名と、誰ぞから伝えられたその者に関する情報は知っている事になるので全く知らないとはならないからだ。ーーー屁理屈な話ではあるが。
「まあ、こんな事が書かれた文書は私も見た事がないし、内容と実情が合ってないような感じはするねぇ」
浦須、岩津、伊佐方の3人に同調するように伊奈岐が物言いをつけた。ーーー当主の伊奈岐が同じ意見を持っているのは大きい。
議事の決定権を持っているのはこの場で一番立場が上の伊奈岐だと考えられるし、数の上でも阿散多を除く4人が書状の内容の正当性に異を唱えているので多数決でもこちらに分がある。
「ーーーただし、だよ」
しかし、伊奈岐は浦須の希望的な見立てに待ったを掛けた。そして、続く言葉は阿散多が引き継ぐ。
「実情との整合性が取れていないことは問題の本質ではない。重要なのは意竺様が領主の名においてこの書状を正式文書として扱っている事だ。ーーーつまり、これはもう決定事項だ。中身どうこうを論じる段階は既に過ぎている」
阿散多と、それから伊奈岐もまた書状が正式な文書として成立していることを指摘した。それはつまり、浦須の記憶の中にある正しい事実と、意竺が作り上げた虚構ーーー否、『事実』が正しい事実に既に入れ替わったことを指している。
ーーー浦須が意竺の屋敷の使用人だった事実は既に失われてしまったのだ。
「改めて問う。浦須とやら、お前は一体何者だ」