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かき喰へば  作者: 合羽 洋式
第一章 火種
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第一章 一 哀れな少年と不思議な種





 ―――彼はひどく腹を空かせていた。


 もう丸二日、飲まず食わずの時間が続いている。少しずつ齧って食べていた干し柿の欠片は一昨日の朝に繊維一つ残すことなく食べ切ってしまった。

 硬く乾燥しきっていた干し柿を少しずつ食い千切り、唾液で果肉を溶かし、繊維の一本一本を咀嚼し、やがては口内から消えてなくなるのを繰り返す。――ひもじい思いだった。


 今までだって決して裕福な生活をしていたとは思わない。普通の、当たり前の、質素な生活をしていた。

 しかし、食べ物はあった。腹が減った時には食事ができた。


 ―――だが今は、それができない。


 食べ物もなければ、お金も頼りにする相手もいない。いや、お金も頼れる者もいないからこそ食べ物がないというべきか。とどのつまり、今の彼には食べ物を手に入れる術がなかった。


 そんな今のことを思えば、ひもじい思いをしたあの一昨日の食事にもありがたみを感じることができる。


 なんとなくだが、彼はそのありがたみを誰かに告白したい気分になってきた。


 「神様か、仏様か」


 普段は碌に信仰もしていないが、こうして世のありがたみを知った今を境に、信仰を始めてみるのも悪くないかもしれない。『持たざる』者となったことで初めて質素な生活の中においても自らが満たされていたことに気づき、感謝することができる。生まれた時から満たされ、死ぬまで失わない者にはこのありがたみを理解することはできないに違いない。

 そうと決まれば、この不公平な世の中であるからこその真理を悟った喜び、感謝を伝えるべく、お社には足繁く通って参拝し、坊主のようにお経をぶつぶつ読み上げ、道の端で見かけた地蔵様には手を合わせ、土埃も払おう。悩める日も空腹で死にそうな日も感謝し続けてやる。

 だから、頼むから、この哀れな男に施しを、いや、


「食い物を、よこして、くれ……」


 道端で少年が一人倒れ込んだ。




――――――――――――――――――――――――




 数日前、浦須(うらす)は奉公先の屋敷から追い出された。十数年前から世話になり始め、仕事にも自分を取り巻く環境にも十分過ぎる程慣れた頃だった。


 ある日の朝のこと、浦須はいつも通り寝ぼけ眼を擦って身体を起こした。身体は昨日までの疲れを引きずり、脳は温もりの残る布団の中で微睡むことを欲していたが、深く吸い込んだ春先のひんやりとした空気を肺に取り込み、冷たい井戸の水で顔を洗ってしまえば、すっかりと目は覚めてしまうものだ。

 少し前までは、寒さで布団から出るのも億劫だったし、井戸から汲み上げた水も肌を突き刺すように冷たかったが、それを思えば今はまだ過ごしやすいましな陽気と言える。暦の上では、今は寒さの厳しい冬本番を通り越し、春に向けて気温が上がっていく時期だ。周りを見渡せば降り積もっていた雪も溶け、緑がちらちらと顔を見せ始めていた。ーー季節は変化をやめない。


 「……あんまりぼーっとしてると、どやされるな」


 すっかりと、庭先の草花に目を奪われていたが、使用人の朝は忙しい。起床して身支度を整えたら、早速仕事に取り掛からなければならない。まずは炊事場に向かい、薪に火をくべ、飯の準備をしておく。料理自体は料理人がいるので彼らが作るのだが、火おこし、野菜の皮むき、配膳、炊事場の清掃等、だいたいの雑用は使用人である自分たちが行うことになっている。

 飯の時間が終われば、屋敷の各部屋の清掃が始まる。使用人は自分を含め十数名いるが、なにぶん広いお屋敷なので、清掃に取られる時間はばかにならない。朝から始めて、途中、昼時・夕時の飯の準備を挟みつつ、時折、食材の買い出しや主人と奥様の言いつけで仕事を任されたりしながら作業を続けると、それだけで一日が終わってしまうこともある。

 そして、今日は屋敷に客人が訪れるとのことで、普段にも増して忙しなく動き回ることになるだろう。


 「ーーよしっ!」


 だから、浦須は両手で頬を張った。白々とした初春の朝の空気にパンッと乾いた音が鳴り響く。

 仕事を始める前、浦須はいつもこうして活を入れる。忙しい毎日を乗り越えていくために。

 ただ、今日はいつもよりも少しだけ強めに張った。いつもより忙しい一日が訪れる予感があったから。そしてその予感をして春特有のぼんやりとした気の緩みを取り払うために。


 ―――それだけだった。いつもと違うのはそれだけのはずだった。





 「―――あ?」




 横目に通り過ぎようとした客間の中央で、主人が大切にしていた壺が粉々に割れ砕けていた。





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー





 火をおこすために炊事場へ向かった途中、横目にして通った客人を迎え入れる部屋。招いた客人の目を楽しませるために趣向を凝らした調度品がいくつも置かれているその部屋のまさに中央で大きな壺が粉々に割れ砕けていた。

 しかし、浦須はその衝撃的な光景を見てすぐさま狼狽することはなかった。なぜなら慌てふためくよりも先に浦須の心が虚しさに覆われていたからだ。


 形のあったものが見る影もなく破壊されている様は、喜怒哀楽よりも先に空虚さを伝えるものだ。そして心にぽかんと空いた空虚の穴の中に懐疑、憐憫、義憤、不安、恐怖が順番に流れ込んで行く。そうして生み出された感情の坩堝が視覚や聴覚といった感覚器官さえも鈍らせ、やがてそこには割れ砕ける前の壺の虚像が浮かび上がる。否、虚像などではない。壺は傷一つなく目の前に存在している。そうだ。壺は割れていない。最初から割れてなどいなかったのだ。むしろ割れていた姿こそが虚像、錯覚だったとーーー


「…いや、ありえないだろ」


 現実から目を背けるために益体のない思考を試みたが、あまりにも出来が悪いので考えの途中でそれを放棄した。


 「だったら、あれは…」


 顔を顰めながらも現実に向き合おうと壺が割れている現場に目を向ける。割れ砕けた破片を見ていると、その中に鮮やかな朱色で描かれた模様のようなものがあるのがわかった。―――なんだか見覚えがある。

その心当たりが正しいのか確認するために割れ砕けた壺の破片を一つひとつ拾い上げ、手に取った朱色の破片の断面とぴったり嵌る破片を探した。


 断面が一致する破片はすぐに見つかった。


 「………これは、間違いない」


 現れたのは鮮やかな朱色の鷲。これが描かれていた壺はひとつーーー主人が最も大切にしていた一番のお気に入りの壺だ。

 主人が骨董品の蒐集に力を入れていることは屋敷の皆が知るところだが、特にその朱色の鷲が描かれた壺は手に入れた際に皆に自慢して回るほどの気に入りようだった。

浦須もまた事あるごとに壺の自慢話を聞かされており、一目引くその模様も相まってその壺のことはよく覚えていた。


 ―――不味いな……


 主人は基本的には温厚なほうだ。使用人が何か失敗したときや失礼があったとき、多少は説教じみたことを言うこともあるが、大抵は穏やかな語り口で諭すように話すことが多く、手を上げたり、暴言を吐いたりといったことはほとんどない。

 ただ、主人が観音様のように何をしても許してくれるというわけでは決してない。

 特に事が自ら蒐集する骨董品に及ぶと気質はがらりと変わる。物腰が柔らかく、周りへの配慮を忘れない態度は、他者への配慮などどこかにうっちゃり、押しつけがましい態度に急変する。

 実際、お気に入りの自慢話を聞かされた際は、さもその作品が作られていくさまを見てきたかのように、またその作品がいかに優れているかを身振り手振り交えて、まるで寸劇を見せられているかのように弁舌達者に捲し立てるものだから、聞かされている身としては耳に蓋でもしてその場をやり過ごしたい気分になるというのがお決まりであった。

 それをあろうことか、骨董品に危害を加える真似をしようものなら、鬼でも乗り移ったかのように怒り狂う。

 少し前に他の使用人がお気に入りの作品を粗雑に扱っているのを主人が目にしたときには、烈火のごとく怒鳴り散らしていた。

 当の下手人はその主人の豹変ぶりにすっかり縮み上がり、しばらくの間、主人を見かけただけで足が震えていたそうだ。粗雑に扱ったといっても、骨董の皿を両手で支えずに片手で掴んで運ぼうとした、といった具合だったのだが、主人の怒りの琴線に触れてしまったらしい。


 では、今、目の前で一番のお気入りの壺が粉々に割れ砕けているのを主人が目にしたらどうなるか。


 「ただじゃ済まないよな……」


 そんなことは屋敷にいる誰もが知っていることだ。しかし、


 「このまま放っておくわけにもいかないか」


 このことを上の者に報告して指示を仰がなければならない。となれば、ここはまず使用人筆頭である赤都(あかつ)に報告するのが筋だろう。主人は以ての外として、感情的になりやすい奥様も下手な説明をすると、取り乱して余計に事態を悪化させかねない。その点、赤都は候補として挙げた中では最も冷静に的確な判断をしてくれそうだ。下の者の失敗の報告もよくしているし、上手くやってくれるだろう。そうと決まれば早速報告に向かい、――あ。


 「―――あ」


 部屋を後にしようと振り向いた先に小さな子どもがいた。仕立てのいい着物を着た自分より十くらい歳が下の幼い少年―――主人の息子がいた。主人の息子は目を丸くして口をぽっかりと開けた惚けた表情でこちらを見ている。


 ―――なんで?


 最初に頭に思い浮かんだのは疑問。なんで、ここに、この時間にいるのか。いつもならもう少し遅い時間に起きてくるはずだし、催して起きたとしても寝所から厠に行くのにここを通るのは遠回りだ。――一体、なぜ。

 頭に疑問符を浮かべながら、しかし互いに目と目が合う無言の膠着状態が生まれる。


 ただ、無口の相対は長くは続かなかった。


 やがて、主人の息子の視線が下がって、浦須の手の中にある模様が描かれた破片、その奥の割れ砕けた壺の残骸を捉えて、目を見開く。


 ―――いやな予感がした。





 「た、たいへんだぁっ!父様の壺が割れたっ!…う、浦須が割ったんだぁっ!!」





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー





 「―――――――というわけで、主人の壺を割った犯人にされた挙句、着の身着のままで屋敷を追い出されて路頭に迷った末、伊那岐(いなき)さんのお店の前でとうとう倒れてしまったようです。…ずず」


 「それは大変な目に遭ったねぇ」


 屋敷を追い出され、空腹に喘いでいた浦須は、伊那岐商会の店先で倒れ、そのまま意識を失っていた。浦須の感覚では、意識を失ってから取り戻すまでしばらく掛かったものだと思っていたが、実際に意識を失っていたのは数分程だったらしく、今はずぶ濡れの身体を囲炉裏の火で暖めながら、商会の当主である伊那岐に事情の説明をしたところだ。


 「お腹の調子はどうだい?私のお昼用のおむすび1個じゃ、さすがに物足りないと思うけど、今すぐ用意できるのは、これくらいしかなくてねぇ」


 「いえ、お陰で命拾いしました。さすがに三日も何も食べずにいるのは堪えますね。………へぇっ、へっくしゅんっ!……ずず」


 「ごめんねぇ。うちの子が何回声を掛けても起きないからって水をぶっかけてまで起こそうとするもんだから」


 「悪気はないんだよ」と苦笑しながら伊那岐は店員の無礼を詫びた。「わかってます」と浦須も苦笑しながら、目を覚ました時のことを思い出す。

 店先で倒れている浦須を最初に見つけたのは伊那岐の店で働く若い女性店員だった。彼女は倒れている浦須を見つけてたいそう驚いたそうだが、それでも声を掛けたり身体を揺すったりして倒れている浦須を起こそうとしてくれていたらしい。その甲斐もあってか、浦須は何度目かの呼びかけで意識を取り戻すことができた。

 意識を失ってはいたものの、その間も自分に対して声が掛けられていること自体は認識できていた。もちろん何を言っているかまではわからなかったが、きっと心配して声を掛けてくれていたのだろうと思った。


 「それで、返事をしようと顔を上げてみたら…」


 水がたっぷりと入ったバケツを半泣きで振りかぶった件の女性店員が「商売にならないからっ!」と叫んで、思い切りよく水をぶちまけたところだったので、時すでに遅しであった。

 しかし、気を失っている者を起こすのに多少の荒療治も必要だとは思うが、なにも水を掛ける必要はないだろう。冬の終わり頃とはいえまだまだ気温が低いこの時期に全身ずぶ濡れになれば風邪もひくだろうし、かえって体調を悪くしかねない。――本当に悪気はなかったのだろうか?

 もっとも、騒ぎに気付いた伊奈岐の指示の下、暖炉のある部屋に案内したり、濡れた体を拭くための乾いた布を集めたり、「ごめんなさいごめんなさい」と何度も何度も、繰り返し頭を下げて謝ったり、と浦須を気遣い、奔走してくれたその様子に悪意は感じられない。ーーー水をぶっかけられたときの言葉が若干、気にならないでもないが…

 一生懸命なだけだったのだと浦須はそう思うことにした。


 「それで、これからどうするのかは決まっているのかい?まあ、今のお前さんにそれを聞くのは酷な話かもしれないけどね」


 今後のことを聞かれ、浦須は神妙な面持ちになる。屋敷を追い出されてから今日まで何もしてこなかったわけではない。働いて日銭を稼ごうと、この辺りで人手を必要としていそうな所に駆け込み、雇ってもらえるよう懇願した。

 結果は空腹のまま路頭に迷って気絶している時点でお察しの通りだが、中には親身になって話を聞いてくれる所もあった。

 しかし、屋敷の主人の名を出した途端、皆一様に渋い顔をするようになり、目を付けられたくないからと、たちどころに断られてしまったのだ。


 「恥ずかしい話ですが、まだ何も決まっていません。元いた屋敷の主人がこの辺一帯に顔が利くみたいで、中々働き口が見つからないのが現状です。しばらくして怒りが収まってくれれば状況は変わると思うんですけど…」


 「意竺(いじく)様はうちのお得意先でもあるからねぇ」


 浦須の話を聞いて、伊那岐は納得するように頷いた。浦須が元いた屋敷の主人――意竺はこの辺り一帯の土地の領主であり、それでいて大の骨董好きであることで有名だ。故に浦須が屋敷にいた頃も各地で取り寄せた珍品を売りつけようと商人たちが屋敷に訪れているのを何度か目にした。今の話によれば、伊那岐もそれらに含まれるのだろう。


 「すまないねぇ。うちも意竺様を敵に回すのは些か分が悪くてね」


 案の定、伊那岐は申し訳なそうに目を伏せた。しかし、浦須は特別落ち込むこともなかった。

 浦須にはよくわかっていた。

 商売をする者にとって客との信頼関係はとても大切だ。そこにわざわざ罅を入れるような真似をするはずがない。

 今回で言えば、意竺と取引関係にある伊那岐が彼といざこざを起こした元関係者である浦須を手元に置いていると知られれば、少なくとも意竺からは良く思われないだろうし、一歩間違えば商品の不買、さらには取引関係の解消を宣告されることも考えられないわけではない。元主人の場合、怒りが収まっていればそこまでのことはないと思う。が、浦須を見かけた瞬間に癇癪を起こして殴り掛かるとか、庇護者に取引関係の解消を告げるとか、元主人が愚行を犯す可能性も捨て切れない。それが追い出されてからここまでの経験則、というより心に傷を負った浦須の憂慮であった。


 「――わかってます。だけど、せめて、おむすびを食わせてもらったお礼だけでもさせてもらえないですか」


 雇ってもらえるように頼むのが難しいことはすでに承知している。とはいえ、伊那岐には空腹で倒れていたところを助けてもらった恩義がある。それにどうにか報いるべきだ。そう考えた浦須は襟元から手を入れ、衣服の内側に縫い付けていた裏布を引き剥がし、中に入っていたものを伊那岐に差し出した。


 「……それは?」


 目を丸くして浦須の手の平に転がる物体を見つめる伊那岐に、浦須は苦笑しながら答える。


 「これは、亡くなった母の形見の一つで、たぶん何かの種だとは思うんですけど、俺にもよくわからなくて…あ、よくわからないといっても、母が最後に残したものなのできっと何かしらの価値はある、はずだと思うけど……」


 浦須が伊那岐に差し出したのは黒っぽい焦げ茶色をした何かの植物の種だった。形や色だけを見れば、柿や枇杷の種に似ているが、大きさはそれよりも二回りや三回りは大きい。そして、特筆すべきは種の表面に浮かび上がる赤い模様。まるで誰かが絵筆で描いたかのように細かな模様が規則的に並び、帯をなしているように見える。恐らくは自然に現れた模様だと思うが、なんとなく不気味というか毒々しいというかそんな印象を浦須は抱いていた。

 しかし、そんな怪しげな種であっても浦須にとっては亡くなった母が最期に残した遺品の一つであり、代えがたい価値があるものだった。


 「…………」


 しかし、これはかえって良くない気がしてきた。恩返しをしたいと思っての行動だったが、自分にとって価値があるものが相手にとっても価値があるとは限らない。今、浦須の手の中にあるものは、浦須にとっては代えがたい価値があるものでも、伊那岐にとってはつい先ほど知り合ったばかりの薄汚い格好をした若造から差し出された怪しげな種のような何かでしかない。


 「すいません。やっぱり忘れてください。考えてみたらよくわからないものを渡されても困るだけ――、」


 「――ちょっと、よく見せてもらえないかい」


 自分の思慮の浅さに恥じ入り、耐えかねて引こうとした手が伊那岐の声と共に引き止められる。伊那岐は浦須の手を取ると、手元に顔を近づけ、じっくりとその何かの種を見入る。すると、伊那岐は手元から目線を外さないまま浦須に問いかける。


 「お前さんのお母上はこれをどこで手に入れたと言っていたんだい?」


 「……それが、どうやら母は旅先で亡くなったらしくて。俺がまだ小さい子どもの頃のことだからその時のこともほとんど覚えていなくて……。この種が俺のもとに届けられたのも母が家を出てから一年くらい経ったころだったと思います」


 浦須には両親がいない。父の顔は全く憶えておらず、母の顔も幼い頃のぼんやりとした記憶の中にわずかに思い出せるくらいで、どんな人だったのかとか、何をしていたのかとか、その辺りはさっぱりわからない。――それも当然だ。

 父は浦須が生まれる前にこの世を去っており、そして、母は浦須が物心ついた頃に家を出ていったきり、十数年経った今日まで戻ってこないでいたのだ。

 そんな母の死を知ることになったのは母が家を出てからしばらくのこと。領主になって間もない意竺がまだ幼い浦須のもとを訪れ、母の死を告げた。その時の意竺の表情は固く、また瞳には憐みの光が宿っていたことを浦須は今でも覚えていた。意竺は母の死を告げると共に使い古された風呂敷で包まれた『母の遺品』を手渡した。風呂敷の中には、大量の野菜や果物の干し物、そして、件の謎の種が入っていた。

 意竺は生前の母と面識があるらしく、以前に母から自分の身に何かが起こった時に、この風呂敷に包まれた自分の手荷物を息子である浦須に渡してほしいと頼まれていた、とのことらしい。――事前に自分の死後の用事を済ませておくなんて何とも用意周到なことだ。あるいは、自分の身に何かの危機が迫っていることを母は知っていたのだろうか…。

 その後、意竺から屋敷の使用人になるように勧められ、浦須は屋敷の使用人として雇い入れられた。

以上が意竺の訪問によって浦須に伝えられた母の死の『全て』であった。


 ―――そう。これが全てだ。これだけでは、母の死を裏付けることはできない。


 話を聞いた当初こそ『母の死』という言葉に囚われ、哀しむことしかできなかったものの、この考えに至るのにそれほど多くの時間は掛からなかった。


 ―――母が死んだとまだ決まったわけではない。


 そう思うようになってから、浦須は機会を窺っては、意竺に母の死の詳細を尋ねようとした。しかし、どれだけ尋ねても「母が死んだことだけは間違いない」とだけ返され、具体的な問いはいつもはぐらかされていた。結局、母の死について新たな情報を得ることはついにかなわなかった。

 これについては意竺の不誠実さを呪うばかりであるが、母もまた遺品を託した割には、自分が置かれていた状況を説明するようなものを残していない。書置きのようなものもあるにはあるのだが、「干し物は母さんの大好物だからありがたく食え」「干し物は噛めば噛むほどウマい」「一日一個まで」「長期保存もうってつけ」「芋の干し物は焼いてもウマい」「柿の干し物は一番ウマいから最後まで取っておきなさい」「干し肉もウマい」「干し魚は骨が丈夫になる」「干し物、最高」などなど、およそ干し物に対する愛情しか伝わらないものしか残しておらず、それらを見るたびに「もっと他に書くことがあるだろ」と内心で愚痴をこぼしながら、嘆息する他なかった。

 意竺と母がこんな調子だったのもそうだが、浦須の考えにも変化が生じていた。


 ーーーいつの頃だったか


 浦須は母の死を疑うことがなくなった。もちろん、母の死を裏付ける客観的な根拠はないと今でも思ってはいる。

 だが、それ以上に重要な事実として、母は今もなお、浦須の前に姿を見せない。

 もし仮に母が生きていたとして、それが何になるのか。浦須と母が顔を合わせなかったこの十数年の歳月はどう説明するのか。どこかで生きていたとして、家を出ていったきり、遺品だけ寄越してそれから何の音沙汰もないことと死んだことがどう違うと言えるのか。


 ―――あえて断言しよう。母は死んだ。『浦須の』母は死んだのだ。


 なぜか。それは――――――――


 「…ああ、すまないねぇ。これはどうもかなりつらいことを思い出させてしまったみたいで。顔が死んじまってるよ」


 「………あ。すいません。ちょっと今は亡き母親と元主人に恨み言を申してやりたい気分ですけど、気にしないでください。…それで、その、つまり……」


 「この種のことについてお前さんが知っていることは何一つない。と、そういうわけだねぇ」


 困り顔の浦須の代わりに言葉を引き継いだ伊那岐も短く一息つく。『種』の話だけに自ら蒔いた種をどうにかしようというわけでもないが、この謎の種に何らかの価値を見出そうとしてくれていた伊那岐に報いることができない、そんな自分の不甲斐なさに閉口するばかりだ。


 「それにしても、お母上の遺品とはいえ、よくここまで無くさずに持っていたものだねぇ。見たところ傷みたいなものも無さそうだし。こんな珍妙な見た目をしているもんだから、物珍しがって欲しがるような奴もいたんじゃないのかい?」


 「ああ。それなら、この種を包んでいた紙に『大事な、大事なものだから大事にしまいなさい。みだりに人に見せてはいけません』って書いてあったから、もらってすぐに裏布で縫い付けて、今、伊那岐さんに見せるまで誰にも見せたことがないんですよ」


 一文に『大事』を3回も使ってるくらいなので、母にとって本当に大事なものであったはずだ。その母の言いつけ通り、衣服の内側に裏布で縫い付け、誰にも悟られないように自然としていた。衣服に縫い付けてからはその服がぼろぼろになったか、あるいは体の成長と共に小さくて着れなくなった時を除き、この種を取り出したことは一度もなかった。故にこの種の存在を知っている者はいないはずだ。

 恐らくはこれも母の教えの一つなのだろう。ーーーもっとも母に直接教えてもらった記憶は残念ながら残ってはいないのだが。

 しかし、そのおかげか今日まで大事なものを無くさずに済んでいることは、多少なりとも誇って良いことなのかもしれない。

 浦須が心の中で母に対する評価をほんの少しばかり上げていると、伊那岐が少し驚いた表情で浦須に問いを重ねる。


 「…本当に誰にも見せたことがないのかい?それこそ意竺さんはお前さんに手渡す前に中身を検めてるんじゃないのかい?」


 「ああ、それもたぶん、なんですけど、ないと思います。風呂敷を手渡されたときに何が入ってるか訊いたんですけど、中身のことは知らない様子だったので、中身を検めることはしなかったんだと思います」


 もっとも、これも意竺が嘘を言っておらず、意竺が言っていることをそのまま信用することを前提にしている。だが、意竺が浦須にそのことで嘘を吐く理由も見当たらないので、そこは疑ってもしょうがない気がしていた。


 「―――本当だったんだね」


 この時、伊那岐は一人、ひっそりと呟くように得心するが、その様子に浦須は気づかない。


 ―――そして、


 「―――お前さんを助けるいい方法を思いついたかもしれないよ」





 改めまして、合羽洋式(あいばよしき)と申します。

 本作は処女作となりますので、表現が拙かったり、読みづらいところもあるかもしれませんが、皆さんに少しでも面白いと思ってもらえるよう頑張って書いていきますので、どうぞよろしくお願いします!

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