仲良しのマルクス
マルクスは処女じゃない。
どういうことかというと、つまりお姉ちゃんのおさがりということだ。
マルクスという名前もお姉ちゃんがつけたもの。
お姉ちゃんは昔からみんなに愛されていた。
かわいくて賢くて謙虚でよく笑う女の子。人懐っこくって誰とでもすぐに友達になってしまう。
とくに大人はお姉ちゃんにコロッと落とされてしまうのだ。
だから、お姉ちゃんの365日のうちの半分がまるで誕生日かクリスマスか新年のお祝いのように、贈り物かお小遣いをもらっている。
貰いすぎて両親が困ったくらいだ。
だから両親は基本的に贈り物を断るようになった。
しかし、お姉ちゃんにどうしても気に入られたい人々は、そんな両親の目をかいくぐり、こっそりお姉ちゃんにみつぎ物をささげ続ける。
お姉ちゃんはやがて変わった。
外では相変わらずにこにこと謙虚に人懐っこく振舞ったが、彼女は自分がひとびとにとっての女王様なのだとついに気がついた。
最初はどれも大切にしていた贈り物が、いらなくなると私の部屋に放り込まれるようになったのは、いつからだろう。
「お姉ちゃん、自分のものは自分のお部屋に置いてよ」
「いらない、むむにあげるよ」
「マルクスもこっちにきてるよ」
「マルクスもむむにあげる」
マルクスはほんの少し前まで、姉が肌身離さず持っていた宝物のハリネズミのぬいぐるみ。
わたしはこっそりいつもいいないいなと羨望のまなざしを送っていた、憧れのぬいぐるみ。
私はマルクスをそっと持ち上げて抱きしめると、黒ヒスイでできた瞳がとっても悲しそうな気がして、思わずもっとぎゅっと抱きしめた。
「マルクスは今日からわたしの一番の仲良し」
マルクスにとっては、まだ一番はお姉ちゃんかもしれないけれど……。
それから、わたしは抱っこヒモをお母さんに作ってもらってどこに行くにもマルクスを連れて行くようになった。
わたしはお姉ちゃんが行かないようなところにばかり行くので、マルクスにとってはかなり新鮮だったと思う。
どういうところかというと、人があんまりやってこないところだ。
小川の橋の下とか、おばあちゃんがジャムを保管している地下倉庫とか、粉ひき小屋だとか、ゴミ捨て場だとか、人がやっと入れる隙間だとか穴だとか、墓地が私のとっておき。
そういうところで、静かに雑草のはなの蜜なんかをなめて、自作の歌を歌って、一人ままごとをして過ごすのが日課だ。
お姉ちゃんはいつも忙しそうなので、おままごとはきほん一人。
一人で何役もしないといけないのでなかなかに忙しい。
歌も歌い分けないといけないのだ。いそがしいいそがしい!
「へたくそ」
どこからともなく声がした。きょろきょろを見渡すが墓地には私以外誰もいない。
そもそも、そこで声がかかるのなら「こら!」だと思う。なぜながお供えしてあったお花でいま料理をしているところだからだ。
だがそれは土日を挟んだ月曜日なので料理の材料が豊富なんだから仕方がない。
きょろきょろしてみたが、あたりは相変わらずシーンとしていたので気を取り直してお父さんのパートを歌いなおす。
「おい、やめろ。気が滅入る」
「え、誰なの? もしかしてこのお墓の仏さま?」
「良く考えろ。そんな非常識あるわけないだろう」
「じゃあ、いったい誰?」
するとなんだか頼りないふわふわしたものが私の肩をポンポンと叩いた。
叩かれた方向に振り向く。
「僕だ。こんな耳の近くで言ったのにわからないだなんてまったく」
それはおんぶしたマルクスだった。ひ、ひじょうしきだー!
「みみは歌も上手だったぞ」
そしてマルクスはお姉ちゃんの話をした。
「だってお姉ちゃんにはお歌の先生がいるもん」
「むむだって、お母さんが習わせてくれようとしただろう」
「だって人前に出ると、動機、息切れ、じんましんが出るから」
「病気じゃないか」
「一人でいるときは元気だもん」
「将来と日常に差し支えたらそれはもう病気なんだよ」
「いきなり話し出したと思ったらおしゃべりだなこの人」
マルクスは声こそかわいいが、話す内容はかわいくなかった。
「でも、わたしの名前を呼んでくれた」
てっきり、お父さんやお母さんやおばあちゃんやお姉ちゃん以外の誰もわたしの名前なんて知らないと思っていたのに。
するとマルクスはムッとしたような顔になった。
「毎日一緒に出掛けていて、知らないわけがないだろう」
「そうなんだ、今まで家族以外だれかと毎日いたことがなかったから知らなかったよ」
「むむには友達はいないのか?」
「わたしマルクス以外と仲良くしたいと思ったことがないの。同じ年の子はみんな何かあったら泣いたり喚いたり走り回ったり殴ったり、ゲロ吐いたりハナクソつけてきたり、うるさくて汚いんだもん」
「人間以外にも?」
「おもちゃはマルクス以外はみんな愛想振りまいてるか、頭からっぽな顔してて好きじゃないの」
「それだと一人ぼっちだぞ」
「これが一番困ったことだってお母さんが言っていたんだけど、それについて今まで一度も不満に感じたことがなかったんだよ」
「そういうのを『できそこない』って言うんだぞ」
「なんでそこまで言われないといけないの? それをいったらお姉ちゃんは大ウソつきの弱虫で卑怯者でしょ」
「おい、みみの悪口をいうな!」
「それこそどうして? 本当のことだもん。それにお姉ちゃんはいままで100万回は褒められてきたのにたった一回も悪口を言われてはいけないの? それこそ不公平じゃない」
「何にも知らないくせに、みみの悪口はむむが初めてなんかじゃない。それこそもしかしたらいろんな人から100万回以上言われてるかもしれないんだ」
「え!?」
わたしはマルクスの言葉にびっくりした。
一体マルクスは何を言っているの? お姉ちゃんはあんなにみんなに愛されて大切にされているのにそんなわけない。
……だけど、マルクスはお姉ちゃんとずっと一緒にいたのだ。朝も夜も、冬も夏も。
いつもいつも。
それに、わたしにはどうしてもマルクスが嘘をつくようには思えなかった。
「どうして? みんなお姉ちゃんを愛してるでしょう?」
「好きは簡単に嫌いになるんだよ。だって本当は同じものだから」
「じゃあ、マルクスもお姉ちゃんを嫌いになるの?」
「僕は……」
「だってマルクスは捨てられて私のところに来たんだよ」
「……」
「マルクスはいまお姉ちゃんをどう思っているの?」
「僕は、みみを嫌いになるには、みみを知りすぎちゃったから嫌いにはなれないよ」
「むむの言う通り、みみには悪いところもちょっとはある。でもそれ以上に良いところもたくさんあるし、辛いこと苦しいこともたくさんあるのを知っている。だから、ぼくだけはきっとずっとみみのことを大好きだ」
「マルクス」
わたしはマルクスを胸の方に抱き寄せてぎゅっと抱きしめた。
「やっぱりね」
私の一番はマルクスだけど、マルクスの一番はお姉ちゃん。
「おい、急にどうしたんだ?」
「マルクス。お姉ちゃんのところに帰ろう」
「え」
「敵がいっぱいいるお姉ちゃんには、最後の味方が必要だよ」
「で、でも僕はみみに捨てられてしまって……」
「それなら大丈夫。わたし大きな不法投棄のゴミ捨て場を知っているから」
「は?」
「5時までお姉ちゃんは帰ってこない。6時間もあれば十分だよ」
私は不安げなマルクスににっこりと笑って見せた。
ーーそれから6時間後ーー
「ちょっと! むむこれはどういうこと!?」
お姉ちゃんが帰ってくると、お姉ちゃんの部屋はもぬけの殻になっていた。
犯人はもちろんわたし。
それを見たお姉ちゃんはいつもはにこにこしている顔を怒りでいっぱいにして、私の部屋に怒鳴りこんできた。
「! え、どうしてむむの部屋も何にもないの!?」
「お掃除したからね」
もちろん、お姉ちゃんのものでいっぱいになっていた私の部屋も泥棒にすべて持ってかれたようにきれいにした。抜かりはない。
「だからもう、これしかないよ」
価値が下がったというなら上げればいい。
「でも、これはもともとお姉ちゃんのものだから返すね」
100の中の1より、1の1。
「マルクス……」
「他のおもちゃを取り戻そうとしても無駄だよ。絶対にわからないから」
普通のゴミ捨て場じゃない穴場だもん。
「本当にむむはどうかしてるよ! だから友達いないんだよ」
「平気だもん。好きでもない人にどう思われたってかまわないもん」
「じゃあ、……私のことも好きじゃないの?」
「わからない? お姉ちゃんのことが大好きだから、大好きなマルクスは残したんでしょう」
お姉ちゃんはそれを聞いて何かを察したようだった。
そう、お姉ちゃんはかわいくて謙虚でよく笑って人懐っこくて『賢い』人なんだ。
「それにしても、やりすぎだから」
「また何度でもやってやる」
「本気でやめて」
そう言いながらお姉ちゃんはマルクスを大切そうに心を込めて抱きしめた。
「ごめんね。おかえりマルクス」
マルクスの黒ヒスイの瞳が一瞬まばたきしたようだった。
それから、お姉ちゃんは前より少し正直者になり、贈り物もあまりうけとらなくなったので今のところゴミ捨て第二弾は決行されていない。
わたしとも遊ぶ時間ができた。
ただ、墓地は嫌がるので裏庭で遊ぶことが多くなってしまったのは残念。
とっても気に入っていたのに。
マルクスはあれから一度も話すことがなくなってしまった。
それでもマルクスは私たち姉妹の一番の仲良しだ。